特別紹介 防衛省の秘蔵映像(15) 番外篇「特別掃海艇隊の記録」(1)

はじめに

 MMさま、いつもご愛読ありがとうございます。今回は、お尋ねに答え、また事件から30年後まで公開されなかった秘話をご紹介します。記述の大方は、元防衛研究所戦史部主任研究官、鈴木英隆氏のご論稿『朝鮮海域に出撃した日本特別掃海隊―その光と影―』に依ることをお断りしておきます。
 なお、この掃海艇隊の記録はほとんど残っておらず詳細も不明です。ただし艇隊の出動の事情は後に述べますように、米海軍の掃海部隊の不足から来ており、元日本海軍の掃海作戦部隊であります。そこで、手元の海上自衛隊艦艇史(1992年1月「世界の艦船」から該当する船艇を調べてみました。
 すると、1952(昭和27)年海上保安庁航路啓開本部から、保安庁警備隊に23隻が移管された「ちよづる」型が見つかりました。海軍駆潜特務艇の後身で排水量130トン、木製のようです。磁気掃海具は「五式掃海具」を装備し、乗員は24名です。全長29、幅5.5、深さ2.8、喫水2.0(単位はいずれもメートル)、エンジンはディーゼル400馬力、速力11ノット。
もう1つのタイプは、同じく哨戒特務艇だった「うきしま」型でした。10隻が海上自衛隊の掃海艇になったとあり、主として磁気機雷対処を任務としましたが戦後の航路啓開に活躍したとあります。排水量は230トン、乗員は27名で船型、構造ともに漁船式でした。全長33、幅6.1、深さ3.3、喫水2.4(同前)、エンジンも「ちよづる」と同じで速力9ノットとあります。

戦後初の国際貢献-ペルシャ湾派遣掃海部隊

防衛庁秘蔵映像にも1990(平成2)年の湾岸戦争の元となったイラク軍のクウェート侵攻が登場します。そして、何よりの事件は戦争終結後の1991(平成3)年4月、海上自衛隊掃海部隊がペルシャ湾に派遣されたことでした。これが戦後初の軍事力の海外展開とマスコミや識者は大騒ぎでした。戦争の足音が聞こえる、いよいよ米軍の戦争に巻き込まれるといった意見で新聞、テレビも大賑わいでした。
しかし、この明らかに不正なイラクのクウェートへの一方的攻撃は当然、世界中の怒りを買いました。自民党内のハト派の方々の出張が通り、わが国の海部内閣は130億ドルもの拠出金を支払いましたが、当のクウェートからも、国際社会からも感謝の声はほとんどありませんでした。どころか、「金さえ出せば責任を果たしたというのか」という軽蔑の声すら大きかったのです。
 この対応として、政府は自衛隊法第99条(機雷等の除去)に基づく、敗戦後初めての海外への実任務部隊の派遣を行いました。これ以後、翌年から国際平和協力法による国際平和維持活動要員・部隊の派遣が行われ、2001(平成13)年から「テロ対策特別措置法」に基づく海上自衛隊艦艇・航空機の派遣が行なわれるようになりました。
https://www.youtube.com/watch?v=q0d-0t1dBkU
 しかし、実際には1950(昭和25)年10月初旬から12月中旬にかけて、海上保安庁特別掃海隊は朝鮮海域において血と汗を流した掃海活動を行ないます。これが戦後初の国際貢献活動であると言えるでしょう。

北朝鮮軍が韓国に侵攻する

 1950(昭和25)年6月25日、当時の中国・ソ連首脳部の黙許の下、北朝鮮軍はいきなりの韓国への侵攻を始めました。キム・イルスン(金日成)は南北朝鮮の武力統一を企画して、一気に攻撃をしかけます。ろくに準備もしていなかった米・韓国軍は日曜日の朝に奇襲を受け、あっという間にソウルを占領され、またたく間に半島の南端まで北朝鮮軍の進撃を許してしまいました。
 興味深いのは、この戦争についても韓国軍の侵攻だの、米軍による陰謀などという虚説をまき散らすマスコミや言論人、大学人が多かったことです。その影響は、わたしの記憶によれば昭和40年代(1960年代後半から70年代前半まで)、あるいはソ連崩壊(1988年)まで続きました。
「北朝鮮は平和愛好国家であり、米国帝国主義の侵略だった」とか、「正義の軍隊の中国人民解放軍が立ち上がり、米国の侵略を防いだ」などという、まるで戦争というものを分析しない主張が真顔でされていたのを覚えています。誰がどうみても、開戦してからの北朝鮮軍の快進撃は準備が万端、計画的に整えられていたものでした。戦争の推移や詳しいことは省きます。今は誰でも、正しい情報を入手しやすい時代です。
アメリカを中心にした国連軍は、朝鮮半島西岸の仁川(インチョン)に大規模な上陸作戦を行ない(9月15日)、この成功により半島南部の北朝鮮軍を孤立させました。さらに26日には、国連軍はピョンヤン(平壌)を占領し、北上を続けます。
 9月29日のことでした。マッカーサー元帥は、隷下の第8軍、第10軍団、極東海軍と極東空軍の各司令官に元山(ウォンサン)上陸作戦の概要を伝えます。すでに成功した仁川(インチョン)上陸作戦ときわめて似ていた計画でしたが、ソ連製の機雷があるという情報から上陸軍の進入海面を掃海する必要ができました。
 それに先立つ2日には、アメリカ極東海軍参謀副長アーレイ・バーク少将は、海上保安庁大久保武雄長官を極東海軍司令部に呼びつけました。バーク少将は後にもふれますが、太平洋戦線の猛将として知られ、「31ノット・バーク」などというあだ名ももつような人でした。この人が海上自衛隊の父などとも呼ばれるようになります。
 ここでバーク少将は大久保長官に事情を説明しました。元山に上陸作戦を行なうにあたり、多くの掃海部隊が必要であること、元山以外の主要港湾の掃海も必要であること、国連軍が困難に面している現在、日本掃海隊の助力が必要なことを語ります。占領軍である米海軍の要請です。

米海軍には掃海隊がなかった

 米国海軍は第2次世界大戦の終結後、多くの軍人が復員し、陸海空3軍の統合が語られ、空軍の長距離爆撃能力が強化されます。その反面、国防予算は削減され、海軍も縮小されました。北太平洋でも、機雷艦艇はモスボール(保存のための処置)やスクラップされて、46(昭和21)年には、機雷戦隊司令部のもとに、掃海駆逐艦が2隊、鋼製艦隊掃海艇2隊、木製船体掃海艇21隻、新型掃海ボート(56フィート型)2隻となります。
 翌47年には太平洋艦隊機雷戦部隊が解散し、48年にはもっと大きな削減があり、大戦中には500隻もあった掃海艇は、朝鮮戦争の開戦時にはわずか22隻という寂しいものになっていました。このうち極東水域で使えるフネはAMS(機雷敷設観測艦)6隻とAM(機雷敷設艦)4隻で、しかもAMのうち3隻はモスボール状態でした。もっとも、これに傭船中の日本の掃海艇12隻を加えた22隻が総兵力です。

戦後の歩み

 敗戦時(45年8月)には、わが近海には海軍が敷設(ふせつ)した係維(けいい)機雷が約5万5000個、これに米海軍が敷設した感応(かんのう)機雷が約6500個あったといいます。米軍の感応機雷については日本海軍が戦時中から掃海作業を行なっていました。戦後になっても、GHQ(連合国総司令部)の命令で、日本国と朝鮮水域の機雷は日本政府が掃海することとなっています。そこで海軍省内に掃海部を設けて、10月には艦船348隻、人員約1万名で掃海作業を続けました。
 その後、海軍省は廃止され、第二復員省、復員庁、運輸省海運総局、そして海上保安庁と管轄の役所は変わっても、業務は引き続き行なわれます。人員は、掃海作業に就く者は、46年2月の「旧職業軍人公職追放令」からは除外されました。海軍時代からの掃海技術をもった経験豊富な士官たちのクビは切れなかったからです。
 日本海軍が敷設した係維機雷の除去がほぼ終わった46年の夏、50%の人員削減があり、約4500名が勤務を続けることになりました。そうして48年1月、復員庁(旧海軍省につながる復員業務担当庁)の廃止で掃海関係者は1500名に整理されました。49年3月末には約1400名が海上保安庁職員として掃海に従事しています。
 朝鮮戦争が始まった50年8月にはGHQ民生局から追放該当者の解任をせよという指令が出ます。ところが掃海部隊の存続を願うジョイ中将(極東海軍司令官)と来日した米海軍作戦部長とマッカーサー元帥の協議で、解任は10月31日まで延期になります。そうして51年のわが国の独立、連合国との平和条約の調印まで、3次にわたって解任の延期があり、追放該当者(つまり元海軍正規士官)の実質的な公職追放はありませんでした。
 掃海艦艇の数も削減がされ、46年4月には328隻、47年12月末には45隻になりました。その後、米海軍が傭入していた掃海艇の返還などで、50年6月には79隻に増えて、この勢力で朝鮮戦争を迎えます。

朝鮮半島の機雷

 仁川上陸作戦の作戦計画によれば、北朝鮮海軍には機雷敷設の能力はないとされていました。ところが、9月4日、鎮南浦(チムナムポ・平壌の外港)南西海域で米駆逐艦が機雷を発見します。3日後には英国海軍艦艇が複数の浮遊機雷を見つけます。10日には韓国海軍の駆潜艇が海州(ヘジュ)沖合で機雷敷設中の北朝鮮船艇を撃沈しました。
 京畿湾(キョンギマン)北部の海州湾の湾口には機雷があるとの報告があり、第7艦隊司令官は全艦艇に警報を出します。太平洋艦隊司令官はただちに極東方面に掃海艇を急きょ派遣することにしました。
 仁川上陸作戦では、攻撃任務部隊(タフィー90)に7隻の米海軍掃海艇が含まれていました。輸送船グループを護衛し、強襲上陸部隊より2日遅れて仁川に着く予定でした。ところが、9月13日、艦砲射撃をするために仁川水道に進入した駆逐艦が係維機雷を発見し、これに銃撃を加えて爆破。このため護衛グループの掃海艇は現地に急行し、ただちに掃海任務に就きました。ところが、機雷処分の実績はあがらず、事前掃海の意味はなかったのでした。
 9月26日から10月2日までの1週間で、朝鮮半島東海岸で触雷によって米国掃海艇1隻が沈み、米国駆逐艦、韓国掃海艇など4隻が被害にあいました。開戦後には英国、カナダ、豪州、ニュージーランド、オランダなどの海軍も派遣されましたが、国連加盟国も含めて掃海艦艇を派遣するといった申し出はありませんでした。
 9月末には、国連軍が使える掃海艇は米国掃海艇21隻と、日本占領連合国司令部が傭船中の日本掃海艇12隻だけだったのです。
 そうして高い練度と高級な装備(機雷処分具など)をもった大きな掃海部隊がありました。それが海上保安庁の掃海部隊であり、東京湾口や銚子沖、佐世保港外を含めた内地の沿岸航路や瀬戸内海で活躍していたのです。

国際信号旗E旗を掲げよ

 当時、わが国は占領下にありました。吉田茂首相は苦境に追い込まれます。アメリカ軍の軍隊や物資を輸送するのは傭船契約が結ばれていたが、掃海作業の契約はなかったのです。海上保安庁法には、明確に「非軍事組織である」と書かれていました。朝鮮戦争下の掃海行動は戦闘行為にあたるし、「平和憲法」に明らかに違背します。ただし、敗戦直後の45年9月2日の連合国最高司令官指令の第2号には、「日本国及び朝鮮水域における機雷は・・・(連合国)海軍代表により指示せらるるところに従い掃海すべし」と、明らかに朝鮮水域が含まれていました。そこで吉田首相は大久保長官に米軍命令に従うべしと命じます。
 こうして10月2日、長官は掃海艇20隻を門司に集める指示を出します。掃海部隊の総指揮官は田村航路啓開本部長となり、1番隊は第7管区航路啓開部長、2番隊は第5管区同、3番隊は第9同、4番隊は第2管区同を各指揮官としました。各隊には掃海艇5隻、処分艇(係維機雷を浮かせて処分する)1隻が所属となりました。
 大久保長官はジョイ中将に憲法9条とのからみや、万一の事故の場合の補償問題のためにGHQから運輸大臣に命令を出してもらいたいと要求しました。ジョイ中将はこの派遣がマッカーサー元帥の命令によるものであること、各艇の艇尾には国際信号のE旗(上紺下赤)燕尾旗を揚げること、乗員は任務中2倍の給与を受けることを記した文書を出します。

特別掃海隊出発

 6日の午後、大久保長官は旗艦である「ゆうちどり」のサロンに、田村総指揮官と各隊指揮官、船艇長を集めました。「国際貢献をかちとろう。それが日本の独立のためだ」と長官は激励しました。ほとんどの乗員は任務を果たすことに納得して出動することになりました。
 7日には1番隊が仁川に、8日には田村総指揮官が率いる2番隊が元山に、17日には3番隊が同じく元山に、同日4番隊が群山へ出港します。そうして12月日に日本特別掃海隊の編成が解かれるまで約2ヵ月間、朝鮮海域の掃海に従事しました。のちに「試航船」とされた「桑栄(そうえい)」の名前も出てきますが、みな海軍に籍があった掃海艇であり、乗員もまた元海軍軍人ばかりでした。
 次回は、いよいよ触雷と犠牲、その後について鈴木氏の論文からご紹介しましょう。また、同時に進行していた「ネービー再建」への動きも付け加えます。
(あらき・はじめ)
(令和三年(2021年)5月19日配信)