特別紹介 防衛省の秘蔵映像(14) 56中業(中期業務計画)の進展 ─昭和57・58年映像─
昭和55年映像の紹介
https://www.youtube.com/watch?v=_WI9udbLsOA
昭和57・58年映像の紹介
https://www.youtube.com/watch?v=hcsC9iFH47c
https://www.youtube.com/watch?v=teJb70AImJI
はじめに
昭和58(1983)年度から昭和62(1987)年度までの装備品調達や、それに関わる部隊改編、新設、運用、演習などの背景を解説します。56中期業務見積りが国防会議の了承を得たのは82年7月のことでした。
アメリカ大統領はレーガン氏になりました(1981年1月)。韓国では全斗煥氏が大統領に就任、エジプトではサダト大統領が暗殺され、ポーランドでは戒厳令が布かれます。
1982(昭和57)年11月に、第71代内閣総理大臣に中曽根康弘氏が就任しました。氏は精力的にさまざまな改革を行ないます。レーガン大統領とは「ロンとヤス」と呼びあうという友好関係をつくり、日米同盟の堅持を表明します。「日本列島不沈空母」という表現で、アメリカの防衛力の下に日本の安全を図るといった方針を明らかにしました。
それまで日米貿易摩擦などでアメリカ人がもっていた日本への不信感も大きく変容しました。そうした中で世界では多くの紛争や戦争が起き続けています。もっとも有名なのは、英国とアルゼンチンがフォークランド諸島をめぐって繰り広げた紛争です。
4月にアルゼンチンによる一方的な武力侵攻がありました。英国首相サッチャー氏はただちに空母を中心にした海軍、海兵隊を派遣します。わたしの印象に残っているのは、英国の原子力推進攻撃型潜水艦の放った魚雷で、アルゼンチン海軍の巡洋艦が沈んだことでした。海中にひそんで、必中の大型魚雷を放つ潜水艦の威力の大きさに驚きました。
また、フランス製エグゾセ空対艦ミサイルの威力です。航空機に積まれて、対艦船あるいは地上目標にも撃てるのがこのミサイル。もちろん、英国海軍も対抗する迎撃ミサイルを放ったものの、防御火網をくぐり抜けたミサイルが英国駆逐艦の艦橋に突き刺さります。爆発はしなかったものの、残りの燃料が漏れて艦の上部が大きな炎に包まれました。
6月にはイスラエル軍がレバノンに侵攻します。そうして10月にはSLBM(近距離弾道弾ミサイル)の水中発射実験を中国が成功しました。
1983(昭和58)年3月には、レーガン大統領が戦略防衛構想(SDI)を発表します。この年9月には新聞の一面に大きく、「大韓航空機撃墜される」という活字が躍りました。場所は樺太付近です。ソ連戦闘機が非武装の旅客機をミサイルで撃ち落としたのです。10月にはミャンマーで北朝鮮のテロで韓国閣僚らが爆死します。同じ10月には、南米のグレナダにカリブ海6カ国の軍隊が米軍とともに侵攻しました。
海上自衛隊掃海隊の始まり
毎年のように海上自衛隊の新造艦艇が登場します。護衛艦、潜水艦、そうして掃海艇が進水する様子が見られます。はて、誰もが派手な護衛艦に眼を奪われますが、このように記録に残って祝福を受ける小型の艦艇は・・・。
まず第1に掃海艇の敵は機械水雷、つまり機雷です。大東亜戦争中には多くの米国製機雷が日本列島の周辺ばかりか、内海や港湾にまで撒かれていました。潜水艦、航空機、敷設艦艇によるものです。そのため、敗戦と同時に多くの船艇が機雷を回収、爆破するために活躍しました。
海上自衛隊のスタートは、掃海隊といっていいでしょう。水上戦力を持つよりもまずは、日本の生命線である海上交通路を復旧する必要が高かったためです。
機雷にはいくつかの種類がありました。鉄製の船体に感応する磁気機雷、エンジンやスクリュー音に感応する音響機雷、水圧に感応する水圧機雷などです。しかも、すぐに爆発するもの、カウンターを内蔵していて複数回の感応で爆発するものが組み合わされていました。掃海具を引いて走り回り、安全だと思ってもいつ爆発するか分からない、そうした危険な敵でした。
乗組員にはEODと略称される爆発物処理の水中処分班といわれる人たちもいます。ウェットスーツにアクアラング(水中呼吸器)を背負ったプロフェッショナルです。ハンドソナー(手持ちの音波発信機)をもち、機雷の安全化に従事します。きわめて危険な仕事です。
戦後すぐの掃海艇
旧海軍には駆潜特務艇と区分される艇種がありました。機雷への対応を任務とし、同時に対潜水艦用の爆雷などをもっていました。1952(昭和27)年に海上保安庁航路啓開本部から、当時の保安庁警備隊に23隻が移管されます。54年に海上自衛隊が発足し、57年から艦種記号と番号が付されます。このときにMSI(マリン・スウィーパー・インショア)となったのは11隻でした。木造で排水量は130トン、乗員は24名、磁気掃海具は旧海軍の五式掃海具を使いました。「ちよづる」から「おおたか」という鳥の名前を与えられています。最後の3隻が1965(昭和40)年に除籍されました。
海自の艦艇区分についていえば、警備艦は護衛艦、潜水艦の機動艦艇に対して機雷艦艇であり、他には哨戒艦艇、揚陸艦艇から改称された(昭和49年)輸送艦艇の4種類になります。機雷艦艇は、掃海艦、掃海艇、掃海母艦、機雷敷設艦です。命名の基準は、掃海艦艇は「島」の名前、掃海母艦と機雷敷設艦は「海峡・水道・瀬戸」となりました。
昭和30年代(1955~64)に活躍したのは同じく10隻、「うきしま」型です。やや大型で230トン、乗員は27名です。「おきちどり」、「ゆうちどり」という旧海軍飛行機救難船から変身した掃海艇もありました。「ゆうちどり」は1943(昭和18)年竣工の300トン型ですが、東京オリンピックで迎賓艇となり、1978(昭和53)年に除籍されるまで活躍します。
米軍供与の戦後生まれの掃海艇もありました。「うじしま」型といいます。排水量310トンで沿岸掃海艇です。40ミリ機銃や20ミリ単装機銃を装備しています。これらも1966(昭和41)年には特務艇に変更されました。「やしま」型4隻も米国製。
国産艇の時代
係維(けいい)機雷、海底から水中に浮いているタイプや、音響・磁気などの感応機雷に対応するのが「あただ」型でした。240トンの排水量では小型過ぎて2隻で建造は打ち切られました。「やしろ」も1隻のみです。いずれも1956(昭和31)年竣工でした。
いよいよ本格化したのは、「かさど」型からです。昭和33年から同43年までに26隻が建造されます。排水量330トン、20ミリ単装機銃1基をもちました。この機銃は防御用でもありますが、主な用途は水上に浮かせた機雷を撃つものでした。
映像に出てくる前のタイプは、昭和42年度から建造される「たかみ」型です。機雷掃討能力が向上し、機雷探知機の性能は向上し、水中処分員も乗り組み始めます。排水量は380トンになり、乗員も45名に増えました。
そうして今回、ご紹介する映像に出てくるのは、「はつしま」型です。外水量は440トン、全長55メートル。エンジンの排気を舷側から出さずに煙突を設けました。特徴は20ミリ・ヴァルカンといわれた砲が新しく搭載されたことです。
松島基地のF1支援戦闘機
宮城県松島基地に配備されたF1戦闘機が見られます。もともと空自はソ連空軍の侵攻に対してこれを要撃する(ほんとうは邀撃)ことが目的でした。したがって、空中戦能力の高い戦闘機を装備しています。それがF15やF16、F18といった戦闘機と異なった味付けの攻撃機を開発しました。ソ連の揚陸艦艇や、その掩護にあたる艦船を攻撃するものでした。
1979(昭和54)年度までに64機の調達が認められて、第3航空団第3飛行隊がまずF1で配備に就き、続いて第8飛行隊もF86Fから機種変更されました。56年度には第8航空団第6飛行隊もF1に改編されて、とうとう懐かしいセイバー・ジェットも任務を終えることになったのです。
この攻撃機(わたしは支援戦闘機という言い方は嫌いですのでお許しください)は、もともと超音速練習機T2の発達型です。対地攻撃や対地艦船攻撃では一流の能力をもっていました。当時は英仏共同開発のジャギュアと比べられています。アドーア・エンジンを2基備えるところも同じで、要求された仕様も似ているところから比較し易いのです。しかし、開発時期がF1の方が遅く、おかげで性能は優れています。
アメリカのノースロップF5はやはり双発の輸出用戦闘機で、空中機動力はF1に勝るものの、対地攻撃などのアタック・ミッションではとても及びません。空自は空中戦にはF15イーグルとF4ファントムでまかない、F1には対艦船、対地攻撃を行わせる計画を立てていました。
F1は爆撃コンピューター、慣性航法装置、電波高度計、ECM装置、レーダー警報装置などを搭載、この頃には社会党を主とする野党も「爆撃装置は周辺諸国に脅威になる」などとは言わなくなりました。また、攻撃機が爆撃もできないのでは意味はありません。
素晴らしいのは全天候型だったことでした。英国のフェランティ6TNJ-F慣性航法装置を国産化し、地上からの管制を受けずに夜間でも目的地に飛べました。パイロットはレーダー火器管制装置との組み合わせで、ヘッド・アップ・デイズプレイに映し出される必要なデータに基づいて航法や攻撃を行なうことができました。
武装は胴体下部と翼下面の5つのパイロンに500ポンド爆弾なら最大で12発、またはロケット弾を搭載しました。機首にはM61―20ミリ機関砲をもち、空対空、空対艦にも威力を発揮します。もちろん、サイドワインダー2発も積めて、対空戦闘もこなせました。対艦ミサイルも装備できます。
航空自衛隊の飛行訓練体系
映像には他にも多くの機体が映ります。創設期の空自の飛行訓練体系はT34メンター、続いてT6テキサンでプロペラ機の課程を終えました。続いてジェット機のT33で高等教育を終えて、実用機課程でF86Fセイバーです。
1950年代後半になると、世界の主流は訓練の初期段階からジェットになりました。そこで開発されたのが、戦後初の国産練習機T1でした。T6の後継として企画され、初飛行は1958(昭和33)年1月に初飛行します。T33を性能的に超えよというのが空自の要求でしたが、戦前の中島飛行機の後身である富士重工はそれによく応えました。
ただネックはエンジンです。国産が間に合わず、試作、量産の43機は英国製エンジンを積みました。A型といわれます。国産エンジン付きは2年後の60年に初飛行。推力が英国製よりずいぶん低く、Aからの改造も含めて22機しか造られませんでした。その後、65年にはJ3-IHI-7がB型の全機に搭載されます。
これの後継機がT2超音速練習機です。1971(昭和46)年に初飛行し、エンジンは石川島播磨重工がライセンス生産したTF40-IHI801A。マッハ1.6の最高速度を誇りました。戦闘機基本操縦課程には前期型、レーダーと20ミリバルカン砲が装備されている後期型が戦闘操縦課程に使われていました。この発展型がF1支援戦闘機になります。
細かいことでは
細かいことでは、当用漢字に「屯」が使えるようになりました。57年の映像には、看板の書き換えがのっています。フランスのミッテラン首相、英国の「鉄の女」サッチャー首相が訪れている様子も出てきます。
陸・海・空自の階級に「曹長」が増えました。これで陸・海・空曹のトップに、陸曹長、海曹長、空曹長が加わり、1曹の進級先になります。
防衛記念章も制定されました。外国軍隊でも戦前の陸海軍でも、その勤務履歴や勲功に応じて軍人はメダルや徽章、勲章を付けています。それを正装に着けるのは当然の礼儀でしたが「軍隊ではない自衛隊」にはそうした制度がありませんでした。そこで、勲章の略綬(本体ではなく、略式になるリボン)に似た記念章を付けることにしました。いまの自衛官はその職歴に応じた、あるいは勲功(表彰を受けた)の印になる色彩豊かなバーを左胸に着けています。
興味深いのが映像のBGM、海自は「軍艦行進曲」、それはまあ分かります。ところが空自の場面では大東亜戦時中の映画、「燃ゆる大空」のテーマが流れます。当時では、気がつく人もいたかも知れませんが、近頃の方には知られていない名曲です。「東亜の空を制する我ら」という歌詞を使った曲を流すとはさすが航空自衛隊と微笑ましくもなりました。
(あらき・はじめ)
(令和三年(2021年)5月12日配信)