陸軍工兵から施設科へ(25) 鉄道網の進展

はじめに

 鉄道の歴史を学ぶと、1872(明治5)年の新橋-桜木町間に初めて汽車が走ったときから1889(明治22)年の東海道線全通までが創業期といえます。続いて、私有鉄道の路線拡充が進む1893(明治26)年から1906(明治39)に大手私鉄を国有化するまでの時代を官鉄と私鉄の競合時代となるでしょう。
そうして1908(明治41)年からの、後藤新平(1857~1929年)が腕をふるい、関東大震災(1923年)で勢いを失うまでの頃が国鉄の興隆時代だと思われます。
 後藤新平は岩手県水沢市に生まれ医師となり、内務省衛生局に勤務しました。1898(明治31)年には台湾総督府民政長官になります。この人事は総督の児玉源太郎陸軍大将によって支持されたもので台湾の民政はたいへん成功を収めたといわれました。
 日露戦後、1906(明治39)年には国策会社である南満洲鉄道株式会社の総裁、2年後には逓信(いまの郵政省)大臣として入閣し、桂太郎系の政治家となりました。その後も大隈重信内閣では外務大臣となりシベリア出兵などでも活躍します。
 今日は、東西両京を結ぶ幹線の採用決定などの話題です。

国内産業の様子

 西南戦争(1877年)は明治維新の総仕上げともいうべき事案でした。莫大な戦費をまかない、全力を挙げて鎮圧に向かった明治政府は戦後処理に疲労困憊します。不換紙幣を整理し、財政を整え、国防にも資金を投じなければなりません。何より、国民生活に配慮しなければ、富国強兵もその前提になる殖産興業も空疎なお題目になってしまいます。
 わが国の当時の主要な輸出品は「生糸」でした。先進諸国の絹織物の原料となり、輸出貿易の周囲です。続いて、茶や蚕種(さんしゅ・蚕蛾の卵)が他の輸出品目を圧倒していました。ひるがえって輸入品は、兵器・船舶・毛織物といった軍需品と並んで、綿糸や綿布といった綿製品が多くの比重を占めています。
 このような農産物や農産加工品を輸出し、工業製品の輸入といった構造は着々と進んでいました。原料品の生糸の輸出が伸び、生糸業が盛んになればなるほど、いわゆるモノカルチュア的になっていきます。
 明治10年代の初め、生糸と茶の国内生産高の8割近くが海外へ輸出され、生糸の輸出額は全輸出額の4割以上を占めていました。これに茶や水産物を加えると全輸出額の7割近くにも達していたのです。
 その一方で、輸入品は毛織物のすべて、綿糸や砂糖は国内消費の6割以上、綿織物も3割以上、鉄は7割以上が輸入に頼っていました。毛織物の代表は、軍服や装備品、毛布などでしょう。また、完成品の綿織物も海外製品とは、ほんとうに国民生活のすべてにわたって生糸などに依存していたわけです。

鉄道を延伸せよ

 鉄道建設を進めよう。鉄道は荷物を運び、人を動かし、さらには文明を運びました。驚かされるのは江戸を朝早く出て、夕方に着いていた開港地横浜に、汽車は1時間弱で着いてしまいました。
 品川-桜木町間が35分と資料にあります。現在の京浜東北線でも32分ですから、ほとんど変わらないといっていいでしょう。途中停車駅は川崎だけなので、汽車はひたすらノンストップで走り続けました。もちろん、明治10年の西南戦争では多くの軍需物資や兵員がこれで運ばれたのです。
 1874(明治7)年5月には大阪-神戸の間、32.7キロメートルが開業します。2年後の7月、大阪と向日町(むこうまち・長岡京遺跡もある現在の洛西ニュータウン付近)の間の36.6キロが開業、約1カ月後の9月には大宮通(現在の梅小路貨物駅付近)に仮停車場が開き、向日町-大宮通りも開業します。こうして神戸と京都は鉄路で結ばれました。
 それでは関東では、開業以来、東京と横浜以外はどうなっていたのでしょう。政府も手をこまねいていたわけではありません。東西の両京を結ぶ幹線をつくろう、そう考えていました。1870(明治3)年から74(明治7)年の間にも、2つのルートを検討していたのです。
 古い言葉で「五畿七道」といいました。律令体制の国の区分です。五畿とは現在の近畿地方のことでした。大和(やまと)、山城(やましろ)、摂津(せっつ)、河内(かわち)、和泉(いずみ)の各国です。大和は奈良県、山城は京都府、摂河泉(せっかせん)とまとめられたのは現在の大阪府とほぼ重なります。
 これ以外の国は「道」という単位にまとめられました。九州などの「西海道(さいかいどう)」、「南海道」、「山陽道」、「山陰道」それに「北陸道」、「東海道」、「東山道」に区分されていたのです。江戸時代になると、道路としての「街道」が整備され、東山道を中山道(中仙道)というようになります。「北海道」というのは明治になって付けられた名前です。律令体制の行政区分による名称の一つになります。
 さて、東京と京都をむすぶ幹線鉄道の候補にあがった1つはいまも主要幹線である東海道ルートでした。もう1つは中山道コースです。政府は両方の可能性を考え調査します。

中山道ルート

 幕末の遣米使節の随伴艦として太平洋を横断した「咸臨丸(かんりんまる)」その乗り組み士官として航海長(測量方)を務めたのが小野友五郎です。小野は1817年に常陸(ひたち)国笠間藩士の家に生まれ、和算から測量術を学び、江川担庵の推挙で幕府天文方に出仕、長崎海軍伝習所に学び、幕府海軍築地軍艦操練所の教授方になります。
幕末には軍艦頭取(艦長)、また勘定奉行並に昇進しますが、鳥羽・伏見の戦いで主戦派とみなされ、役職を罷免されました。その後、新政府に出仕、この東海道筋、中山道筋の実地調査を行ない、両方の比較を詳細にしています。
御雇外国人といえば、破格の給与を受けて明治初めに海外知識を導入した人々ですが、このうちの1人に英国人ボイルという技術者がいました。彼は数度にわたって中山道を調べ、政府に中山道コースが優れていることを主張します。また、幹線から分かれて、信州上田(長野県上田市)から松代(まつしろ)、飯山(いいやま)をつないで、新潟に通じる路線も提案していました。
舟運も発達し、よく整備された東海道より、中山道は悪路で山もあるが、国土の総合開発には遅れた地域こそ優遇すべきであり、太平洋側と日本海側の連絡も考慮すべきだともいうのです。これは確かに、現在でも説得力のある主張でした。
1880(明治13)年11月、財政上の事情から東京-高崎間の認可が取り消されました。この鉄路は現在も高崎線として東海道線との直通路線であり、新潟への通り道として印象づけられますが、当時としては東西両京を結ぶ幹線の一部でした。
こうした中山道ルート停滞の中で、右大臣岩倉具視(いわくら・ともみ)が提唱して、日本初めての私有鉄道の建設を目指す「日本鉄道会社」が発足します。岩倉は明治初めの遣欧使節の一員として欧米を視察し、鉄道の威力を大きく感じていたのです。政府の財源が乏しいなら、金がある大名華族や公債をもつ士族、新興実業家たちに呼びかけて私有鉄道を始めようという企画でした。
 いまも、上野(東京都台東区)の駅の近くに岩倉高校があります。普通科の他に、運輸科というコースをもち、1897(明治30)年の創設以来、多くの鉄道人を育ててきました。この岩倉高校は公卿であり華族だった岩倉公爵家とは関係はなかったのですが、鉄道の恩人を記念して学校名に岩倉を付けたそうです(命名は明治36年)。

山縣有朋の意見

 明治15(1882)年には金が集まった日本鉄道から委嘱を受けて、鉄道局が前橋(群馬県)までの路線の工事を始めました。中山道が有望だ、誰もがそう考えていたのです。東海道には何よりの難所、「箱根の険」がありました。さらには江戸時代からの大河、富士川、安倍川、天竜川などがあり、長大な鉄橋を架けなくてはなりません。
 琵琶湖畔の長浜(豊臣秀吉の城で有名)と岐阜県大垣との間の路線の見込みもついていました。そうなると、後は高崎と大垣を結ぶ路線の建設だけで済みます。ところが、東海道は、横浜から西はまるで手つかずになっていました。
 こんなときに、工部卿代理になっていた参議山縣有朋陸軍中将は、16年6月に太政大臣三條実美に「幹線鉄道敷設ノ件」という意見書を出しました。工部卿は工部省の長官で、鉄道局の直属上司でもありました。
 その意見書を要約します。(1)国の富強を図るには交通の便をよくすること。交通の便を向上するには鉄道の敷設に勝るものはない。(2)人智の開明にも寄与し、国産の製品も勃興する。(3)いざ戦時になっても多くの兵員・物資を遠距離に短時間で運べる。(4)たとえ鉄道が費用ばかりかかって利潤が少なくても、間接の利益が大きいことは明らかである。(5)鉄道建設は喫緊の要件である。
 (3)に注目します。当時、わが国は国内鎮圧に各地の鎮台を設け、有事には他の鎮台から旅団を編成し紛争地に送りこみました。大陸からの脅威を感じていた陸軍としては各地に海岸要塞を建設しながら、少ない常備兵をいかに効果的に運用するかを考えていたのです。
 山縣はこうも言います。欧州諸国のような長大な路線は必要ない。わが国の中央を貫通する1幹線を置けばいい。東西2京の間に1本の幹線を敷き、そこから枝線を左右に伸ばし、東西の海港をつなぎさえすればいい。
 具体的は次のルートを提唱します。東京-高崎-小諸(こもろ)-松本-木曽鳥居峠-木曽谷-加納(岐阜市内)-長浜-大津-京都-大阪-神戸という、まさに江戸時代の中仙道を彷彿させるものでした。枝線については加納から名古屋へ、長浜から敦賀へ、上田から松代、飯山、新潟と3つを挙げています。
 定説になっているのは、陸軍は海岸からの侵攻を恐れ、中山道コースを主張したといわれますが、必ずしもそればかりとは思えません。
 次回は、中山道コースの決定から挫折を調べましょう。
 
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)3月16日配信)