陸軍工兵から施設科へ(13) 旅順要塞の激闘(1)

再び緊急事態宣言に

 みなさま、お変わりありませんか。わたしが暮らす神奈川県も、1都2県とともに緊急事態宣言を受けることになりました。おかげさまで、わたしや家族にはまだ感染という事態はありません。しかし、周辺では、陽性者や疑いのある人などの噂を聞くようになりました。
 そこで心配なのは、周囲とのコミュニケーションをとる場所や機会をなくしている方々のことです。わたしには家族があり、職場から帰ればその日の出来事を話し合ったり、いっしょに笑ったり悲しんだりすることができます。
ところが、わたしの職場には地方から出てきて、1人で暮らしている仲間がいます。学生時代から下宿暮らしだから、1人で過ごすのは慣れている。そうはいっても、外出も不自由、帰省もできない、何より職場の人たちと公的な場でしか話ができないのは初めてだと語ってくれました。
わたしも含めて教員というのは、チームで働くのは当然ですが、同時に個人事業主のような側面もあります。報告・連絡・相談ということが重視されています。ただ、それだけでは足りません。学校帰りに一杯やる、食事を共にする、そうした非公式な場が必要です。細かい授業のノウハウや、対人関係のコツ、そういったものを心を開いて伝達する私的な場が大事なのでしょう。
それができなくなって、ほぼ1年が経とうとしています。心を病む人も増えてきました。孤独な若い先生たちの誠実な姿を見るたび、ストレス対策も自分だけでやらねばならない、そういった苦労を思います。もちろん、わたしはいろいろな場で応援していますが。

旅順要塞攻略の工兵

 1904(明治37)年、旅順要塞攻略のために第3軍の戦闘序列が下された。これが5月20日のことだった。すでに第1軍(近衛・第2・第12師団)は韓国の仁川・鎮南浦に上陸し、平壌(ピョンヤン)付近に集中した後に北進し、鴨緑江(おうりょくこう・韓中国境線)を渡河した。
第2軍(第3・第4・第6)は遼東半島(りょうとうはんとう)の塩大澳(えんだいおう)も上陸後、大連港の根拠地を確立するため金州付近の敵を撃破した。有名な南山(なんざん)の戦闘を制し、同地を占領する。これによって、ロシア野戦軍主力と旅順要塞の連絡は断たれた。その後、奉天に続く東清鉄道に沿って北上して遼陽(りょうよう)に向けて進撃した。
 両軍の中間には、5月中旬に独立第10師団が上陸し、北上。この独立第10師団を中心に、第5師団が合流し、6月30日には第4軍が編成された。

乃木大将が率いた第3軍

 第3軍(第1・第9・第11師団)は海軍の要請によって、ロシア旅順艦隊を軍港から追い出す、あるいは無力化するために編成された。第1師団は首都東京を中心とした関東地方、第9同は金沢を中心にした北陸地方、第11同は四国地方全土の兵士で構成されていた。
 乃木が初めて「旅順要塞防御配置図」を見たのは5月13日、東京三宅坂の参謀本部の一室だったという。ロシア軍の堡塁(ほうるい)がうねるように旅順口を取り巻いている。しかし、詳細な情報はまるで記載されていなかった。
そこにどれだけの機関銃・砲が配備されているか、その堡塁のべトン(セメントで構成されたコンクリート)の厚さはどれほどか、どれほどの兵力がこもっているかは、ほとんど知られていなかったのだ。
そのことについては詳しく語る人がいない。乃木の無能、そうして莫大な損害を受けた第1回総攻撃のことに一気に論を進めてしまうのだ。当時の参謀本部も、多くの情報将校を戦前から旅順近くに送りこんでいた。堡塁の配置や、装備、守備隊員の数などを調べようとしていたのである。
しかし、その懸命な努力をはね返したのは、ロシア陸軍の防諜努力だった。要塞建設工事に携わった現地の清国人をはじめとして、ロシア軍将兵にも厳重な監視の目を光らせていた。参謀本部第2部(情報担当)の将校も清国人労働者をよそおって旅順市街に入ることはできたが、市街背面の要塞地帯を見ることすらできなかったらしい。
『明治三十七・八年日露戦史』にも、率直に「その防御上の堡塁砲台の強弱につきて未だ偵察し能はざるも・・・」と書いている。
「まず、強襲して様子を探るべし」というのが、当時の常識であり、世界陸軍の認める「まともな攻撃法」だったことを指摘しておこう。

第1回総攻撃まで

 5月28日、第3軍司令部は東京を出た。広島県宇品軍港から乗船、6月6日、遼東半島塩大澳に上陸する。旅順東方、北泡子涯(きたほうしがい)に軍司令部を設けた第3軍は、ここで未着の第9師団と攻城器材(こうじょうきざい)、つまり重砲、攻城砲、弾薬、鉄道材料、修理・整備用の器材・部品等の到着を待った。
 ここでいう重砲とは、軽快な機動力をもった野砲(口径75ミリ)よりも大きく、およそ100ミリ以上の口径をもつ砲のことである。攻城砲はふつう馬で牽引できず、重量があり、鉄道などで運ぶもののことをいう。また、野砲は榴霰弾(りゅうさんだん・曳火信管によって目標上空で炸裂させ、小さな弾子を放射する)で野外の露出した人馬を攻撃するものだった。したがって、榴霰弾は掩蓋(えんがい・屋根)のある陣地には、あまり効果があがらないものである。
攻城砲は堅固な敵陣や建造物を撃つものである。当時は、10糎(せんち)半加農(カノン)、12糎同、15糎榴弾砲、12糎榴弾砲、15糎臼砲(きゅうほう)、9糎臼砲だった。加農は外来語のカノンへの当て字であり、初速が高く平射(へいしゃ)弾道である。射程、弾の届く距離が長いことを特徴とする。当時は直接射撃(目で観測して目標を撃つ)が加農の特徴だった。
対して榴弾砲は大きな弾を擲射(てきしゃ・ほおりなげる)する大砲をいう。この射撃は多くが間接射撃である。敵から見えない所から、観測所からの連絡で弾着を修正し、山越えなどをして射撃できた。要塞砲からの反撃も受けにくかった。
臼砲というのは、その名称通り、「うす」のような形をしている。大きな口径に対して短い砲身である。弾道は、いまの迫撃砲のようであり、射程は短いが上空に高くあげて、落下させる。これも敵の目にはつきにくい。
次に実際の射撃準備の話である。砲兵が射撃するには陣地占領、観測所の設置、弾薬の集積が必須の手続きになる。この弾薬の話である。
佐山二郎氏の指摘によれば、攻城重砲の砲弾準備がまったく間違っていたのだった。ドイツ陸軍の攻城輜重が砲1門あたり1000発を用意した。そこで日本参謀本部は、800発ほどでいいだろうとした。その理由は、ドイツが攻めるのはフランスである。そのフランス軍の要塞ほどロシア軍要塞は堅固ではないだろうというのだ。
こうして800発を用意し、半分の400発を攻城砲廠(こうじょうほうしょう)、つまり攻城砲兵隊の整備部隊が携行し、残り400発は軍兵站(ぐんへいたん)部に属する野戦兵器廠に預けるように参謀本部は決めてしまったのである。野戦兵器廠はふつう、兵站主地に置かれる。
海上輸送されて揚陸した物資を軍兵站部の輸送部隊が運ぶ。その巨大な集積場所が兵站主地だ。前線からははるか遠い地にある。さらに物資は兵站地に送られ、そこから兵站末地に逓送された。部隊が砲弾を手にするのは、師団弾薬大隊が末地から運んできてからである。
参謀本部から請求された陸軍省担当者は驚いた。そんなに砲弾が要るものかと思い、在庫が少ないこともあったが15糎臼砲弾は300発しか送られなかった。他の砲への残りの400発は攻城の着手までには大連(だいれん)に運ぶと約束されたが、実際には間に合わなかった。
次回は失敗に終わる総攻撃について。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和三年(2021年)1月13日配信)