陸軍工兵から施設科へ(12) 日露戦争の工兵の戦い(2)

新年のご挨拶

 明けましておめでとうございます。「めでたさも中くらいなり・・・」などとひねくれる心算もありませんが、わたしも満で古希を迎える歳になりました。友人の中には「終活」という言葉を使い、年賀状はこれで最後にするといった言葉が散見されます。
 いい覚悟だなと感心もし、これから人との関わりも減らしてゆくのだろうなと一抹の寂しさを感じています。
 この1年、自分の学校の仕事でも行事や式典がなくなりました。自衛隊の機関や学校、部隊などでも同じようでした。おかげで季節感のない1年間になった気がします。あっという間の月日の経ち方でした。人は歳をとると、新しいことに出会って「ときめく」ことがなくなり、時間が経つのが速くなるとか。まったくその通りですね。
 とはいえ、このメルマガでも書くように、今年は陸上自衛隊施設科職種と野戦特科職種について調べています。知らないことばかりで、新しい発見や視点の変換があります。少しでもときめいて過ごしたいものです。今年もよろしくご指導、ご感想などをお寄せ下さい。

工兵の平時の教育

 日本陸軍は平時には規模を縮小していた。ただし、戦時になると「動員」をかけて予備役・後備役の人員を召集し、戦時編制に変えた。たとえば、平時1万人あまりの常設師団は、戦時になると2万人を超える規模になった。平時で行なっているのは、主として教育と演習である。だから若い将校はたいして年齢の違いがない初年兵の教育を受け持った。
 よく少尉だから小隊長だろうという誤解があるが、それは戦時のことである。平時の編制にはどこの兵科部隊でも小隊はなかった。少尉や中尉は「中隊付(ちゅうたいづき)」という立場で教育にあたった。だから「教官殿」と下士兵卒からは呼ばれていた。
 工兵の教育は、特技教育の前には基礎作業として、土工(土を相手の作業)、木工(丸太を加工する技術)、植杭(大きな槌や小型の槌で杭を打つ)、連結(杭同士をつなぎ高所作業もする)、漕舟(そうしゅう・櫓による鉄舟の操作法、棹による操作法)、爆破(障害物を破壊する機器の取扱い)、重材料運搬(数人の協同で行う)などの7つであることはすでにお知らせした。
 工兵の初年兵教育の半分は、これらの教育と技能を向上することだった。

師団工兵大隊の平時の規模

 師団の工兵大隊の部隊号は師団番号と同じだった。そこが歩兵聯隊と異なるところで、徴兵検査の結果入隊する大隊は、第6師団なら第6工兵大隊となった。しかも、歩兵のように聯隊区からではなく、全師管区からの選抜である。師管区は数県にまたがるから、多くの入営兵は馴染みの少ない師団司令部のある衛戍地(えいじゅち・陸自では駐屯地という)の大隊にやってくる。各地域の文化や風習の違いが大きかった戦前社会では、自分がまるで知らぬ他国にやってきたと感じた兵士たちも多かっただろう。
 1890(明治23)年の陸軍定員令によると、工兵大隊は本部と3個中隊で構成された。人員は408人と馬匹19頭である。これはやはり3個中隊の騎兵大隊、人512人、馬匹462頭に比べると小ささがわかる。師団全部で9199人、馬1172頭に占める割合でも、人は4.4%、馬が1.6%だから部隊規模はひどく小さい。平時の大隊の軍馬は、ほとんどが乗馬である。

日露戦争の動員下での工兵大隊

 日露戦争開戦時(1904年2月)には陸軍は13個師団体制だった。近衛師団と第1から第12までである。したがって工兵大隊も13個、中隊は38個だった(近衛師団は2個中隊)。ただし、工兵から抽出された要員により「鉄道隊」があった。これは日清戦争での兵站の苦労のおかげである。
 動員にも種類があったが、今回は「本動員」の例を紹介しよう。完全な野戦師団が出来上がるとどういう構成になるかがよく分かる。
 工兵将校と同准士官は17人、工兵下士53人、工兵兵卒600人で合計670人である。これに輜重兵下士が3人と同兵卒が6人、彼らに指揮される輜重輸卒が80人の合計89人になる。また、経理部士官と軍医士官が3人、経理部下士と衛生部下士が2人、それに兵卒3人と従卒・馬卒が21人の合計29人。あわせて788人が1個大隊だ。従卒は将校の身の周りの世話をし、馬卒は乗馬の世話をもっぱらにする。いまの陸自でも幹部(将校)専用車にはドライバーが付く。それと変わらない。
 工兵大隊は自分で行李(こうり)という補給を自前で行なう小部隊を持つ。行李にも大・小があって、大行李は宿営具や機・器材を運び、小行李は弾薬や食糧、馬糧、衛生材料などを運ぶ。輜重兵大隊から出向した下士・兵卒、輸卒がいるわけである。
 なお、輜重輸卒は武装もなく、ただ輓馬によって牽引する輜重車のそばにつき、背に荷を載せる駄馬の轡(くつわ)をとることをする。荷の積み下ろしもした。雑卒(ざっそつ)と呼ばれ、「輜重輸卒が兵隊ならば、ちょうちょ・トンボも鳥のうち」などとバカにされ、今から見れば不当な扱いをうけていた。
 これに対して、輜重兵は最下級の2等卒でも騎兵と同じく乗馬長靴を履き、背に騎兵銃を背負い、軍刀をさげる戦闘兵である。輜重兵は輸卒を指揮し、護衛にあたるものとされた。だから「輜重兵はバカにされた」というのは正確ではない。
 本部には蹄鉄工長(ていてつこうちょう)もいる。馬に機動力を頼る軍隊では、必須の専門家である。病馬や傷ついた馬の面倒を見る獣医務下士もいるし、鍛工、木工、鞍工、電工などの専門特技をもった下士もいた。

戦時に設けられる架橋縦列

 このほかに師団には1個架橋縦列があった。縦列とは特殊な言い方だが、他兵科では中隊の規模になる。興味深いのはこの「架橋」を陸軍でも陸自でも「がきょう」と濁って発声することである。橋を河川に架けることを「がきょう」という。その材料と技術をもって構成した部隊を架橋縦列(がきょうじゅうれつ)といった。
 この架橋縦列も工兵で構成した部隊である。人員は指揮官である工兵将校が1人、同下士は4人、同兵卒が58人の合計63人。これにもやはり輜重兵がついた。輜重兵将校・准士官が2人、下士は7人、兵卒22人、そして輸卒が237人にもなった。この輸卒を指揮するために下士・兵卒が29人もいたわけだ。合計で268人の輜重兵科の人員がいる。もちろん、経理部などの士官(将校相当官)が3人、同下士4人、同兵卒1人、従卒・馬卒が5人の計13人。だから合計は344人にもなった。
 渡河材料は、折り畳み式の軽量な木製舟、同じく鉄製の舟、長大な太いロープ、架柱(がちゅう)という河中に打ち込む杭(くい)、鎹(かすがい)などである。もちろん普通の工兵大隊もこれらを持つが、架橋縦列は渡河の専門家たちだった。
 次回は、日露戦争での出征した工兵の戦いについて調べてみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和三年(2021年)1月6日配信)