特別紹介 防衛省の秘蔵映像(19) 防衛医科大学校と防衛大学校
昭和61(1986)年の映像紹介
https://www.youtube.com/watch?v=vNF7PzwbhCo
昭和62(1987)年の映像紹介
https://www.youtube.com/watch?v=n7988LvYfL8
はじめに
「防衛庁記録」では、毎年必ず防衛大学校と同医科大学校の卒業式と入学式の様子を見ることができます。防衛大学校(以下防大)には本科といわれる一般大学の4学年制にあたる課程、防衛医科大学校(以下防医大)は同じく6年制の医師養成課程が設けられています。また、研究科といわれる幹部(士官)が学ぶ修士課程もあり、今は博士課程のコースもあります。
今回の昭和62年映像には防大本科31期生の卒業と同35期生の入校が見られます。また、防医大では14期生の入校です。この年の卒業生である防大31期、防医大8期生の方々は昭和39(1964)年と同40年に生まれた人が多いようです。昭和39年は第18回東京オリンピックが開かれた年でした。
防大31期本科卒業生には、現在の陸自総隊司令官前田陸将を筆頭に、北方、西方、東北方の各総監、富士学校長、防衛装備庁装備官、2人の師団長、そうして防医大8期生には自衛隊札幌病院長鈴木陸将という方々がおられます。
自衛隊にはよく知られている中央病院(世田谷区三宿駐屯地)の他、多くの地区病院があります。陸上幕僚長の直轄される札幌、仙台、富士、阪神、福岡、熊本の各病院、富士以外は総監部所在地です(別府病院もありますが年度内に廃止のようです)。
海上幕僚長の下には大湊(青森県)、横須賀(神奈川県)、舞鶴(京都府)、呉(広島県)、佐世保(長崎県)です。これも地方総監部所在地。ただし、大湊、舞鶴、佐世保はこの年度内に診療所化します。航空幕僚長の下には三沢(青森県)、岐阜(岐阜県各務原市)、那覇(沖縄県)と3つの病院があります。三沢と岐阜は診療所化、そうして那覇病院は陸上自衛隊に移管する予定とのことです。
ただし、埼玉県狭山市には空自入間基地があり、そこに仮称入間病院が建設中で、宇宙高空医学研究などの中心地になると同時に、一般傷病患者も受け入れるとのこと。
こうした自衛隊の医療機関を支える防衛医官(幹部自衛官であり医師免許をもつ)を育てて来たのが埼玉県所沢市の防医大です。所在地名からでしょうか、学生祭を「並木祭」といい、一般公開もされています。
防医大の画期性
よく知られているように江戸時代には医師は免許制ではありませんでした。漢方であろうと蘭法(洋法)であろうと、医師が医師であるためには特に資格は要りませんでした。もちろん、実績のある医師に弟子入りをしてそれなりに医書を読み、修業を積んだ人はいました。あるいは幕府の医学館で教育を受けましたが、それらはむしろ少数派だったようです。
明治になって、まず医師の免許制度に手を着けたのが陸海軍でした。検定を行ない、自己申告で医官になっていた人たちを排除し、医学校を建てて軍医を養成しようとします。だから最初期には陸海軍ともに軍医の養成を自前で行なっていたこともありました。
民間医師への対応は、厳密には制度として確立された明治16(1883)年の「医術開業試験規則」と「医師免許規則」です。苦学力行で高名な医学者野口英世氏はこの開業試験の通過者でした。北里研究所に入ってみたら、帝大医科大学卒業の医師たちから差別や迫害を受け、不公正な扱いを受けたとされています。
その野口氏は高等小学校を出ただけで、上京して医学予備校の「済生学舎(さいせい・がくしゃ)に通い、難関の開業試験を突破し、医師の免許も得たのです。しかし、正統な医学を学んだ研究者たちからは異質な存在でもありました。いまは学歴による差別は正義ではないとされますが、時代はそうは進んでいませんでした。
国家試験も受けずに医師免許を取れた人もいました。帝国大学医科大学(現在の医学部)の出身者です。森鴎外をはじめとして、多くの軍医はその出身でした。また、府県立医学校を卒業した人たちも同じです。帝大出身者が教師を務める府県立医学校は、同じような扱いを受けることができました。
明治の中ごろ、有名な医学校では大阪府立医学校や愛知県立医学校がありました。もっとも、両校ともに帝国大学が整備されると、それぞれ大阪帝国大学医学部に、名古屋帝国大学医学部に吸収統合されてしまいます。唯一生き残ったのは京都府立医学校です。現在も府立医科大学として伝統を誇っています。
自衛隊にもおられる薬剤官にもふれておきます。薬剤師も近代日本では重要な技能者でした。明治初めには東京医学校、東京大学医学部(帝国大学医科大学の前身)には製薬学科が設けられ、明治22(1889)年に「薬剤師試験規則」が公布されます。また、詳しくは述べませんが、高等中学校医学部に併設された薬学科卒業生が免許を持ちました。
このように、医師は大学医学部や医科専門学校の卒業生が資格を取りました。しかし、大正時代の中ごろまでは、開業試験合格者が医師として認められていたのです。
陸海軍の軍医学校は医科大学や大学医学部卒業生などの免許保持者を採用し、短期間で軍陣医学などの科目を教え、軍医として採用していました。他に戦時の動員確保のために、予備役の軍医官や薬剤官も採用しています。大正時代には大学学部出の医師は軍医中尉に、専門学校卒業生は軍医少尉に任官していました。薬剤官も同じです。また、依託学生の制度もありました。大学や専門学校在学中に志願し、考査に合格すれば、学費の他にも給与を支給され、卒業と同時に現役軍医になる道も開かれていました。
したがって軍隊(自衛隊)が現役医官を自ら養成するといったことは防医大が初めてだったといっていいでしょう(もちろん、ごく初期の陸海軍軍医養成学校は別として)。
医官が足りない
平時には自衛隊の部隊で、隊員の健康管理・保健衛生、傷病者の治療にあたり、戦時には戦場で傷病者を救護する総合臨床医が自衛隊医官です。もちろん、高度な医学研究にあたる人もいます。まだ自家養成はないのですが、歯科医官もおられます(一般公募による)。陸自の医官は襟にギリシャ神話の名医アスクレピオスの蛇杖をデザインした徽章を着けているのですぐ分かります。もっとも蛇は2匹で頂上には翼があるのが異なっています。職種のカラーは昔の陸軍衛生部と同じ濃緑です。
1975(昭和50)年8月に所沢キャンパスが開かれました。自衛隊は発足以来、医官不足に悩んできました。その理由は、やはり民間よりも給与が低い。対象とする患者の範囲が狭く、多様な症例と出会わないだろう、それによって臨床経験が不足する。そういったことが医師志望の学生の不安が大きくもしたのだろうと思います。
医官の充足率(定員に対しての実員)は低く、とくに地方では医師不足とあいまって、部外の医師に業務を委託しなければならなかったという話もあります。
1971(昭和46)年のことでした。中曽根康弘氏が防衛庁長官時代に、日本医師会長の武見太郎氏(1904~83年)を座長に迎え懇談会が開かれます。約半年にわたった話し合いの結果、西村長官に答申したのが防医大の設置意見でした。
武見太郎氏はその強引な手法から、あるいは言動から「ケンカ太郎」などとも呼ばれ、その業績にも毀誉褒貶がありました。私事ですが、わたしの母校の先輩でもあります。在学中に大病に罹り、慶応大学普通部に転学、同医学部を卒業されて医師になりました。陸軍軍医中尉の経歴もあり、その閲歴も人脈も興味深いものです。
中でも有名なのは医家の世界を評された言葉でした。「わが国の医師の3分の1は学問的にも人格も高い、3分の1はノンポリである。残る3分の1は欲張り村の村長さんだ」というものです。武見さんは世界医師会長も務められ、ご自身のクリニックでは患者の気持ち次第で診察料や治療費を払うというシステムをとっておられました。
開学のときには、武見さんは医師には高潔な人格と広い識見を求め、学生には自衛隊医官としての高い使命感を期待する言葉を寄せられています。
大学校として
戦後の制度では医師国家試験を受験するには大学医学部を卒業することが要件です。その原則を崩したのが自治医科大学校でした。へき地医療に危機感をいだく地方自治体が教育費用を負担する、文部省や厚生省に働きかけて特例を認めさせ大学校を開設しました。防大、海上保安大、気象大などと同じく、文部省認可ではない大学「校」のシステムです。
1983(昭和48)年9月には、防衛庁設置法の改正が国会で成立し、11月に施行、すぐに学生募集が始まり、翌84年4月に第1期生が入校しました。キャンパスは昔の陸軍飛行学校跡地の一部でした。校舎の建設は間に合わず、仮校舎として入間基地の施設が使われます。1期と2期の医学科学生は入間に入校し、所沢には85年8月に移りました。
学生たちに与えられたのは、文部省の定めた一般の医科系大学の設置基準に準拠したカリキュラムでした。修得単位数と時間数は一般大よりもかなり多いものです。進学課程は2年間で116単位もありました。一般大では64単位です。また、時間数ですが「訓練課程」として500時間が計上されています。もっとも、訓育・基本教練・部隊実習となっていて、防大生のような戦闘に直結する訓練はありませんでした。
制服は防大生と同じですが、帽章とボタンが異なります。中央観閲式でも防大生が執銃・帯剣し、指揮官役の学生が指揮刀を帯びるのに対して、白い医療嚢を肩からかけ、指揮官も杖をもつことです。
勤務への義務制度
防大生は任官を辞退、マスコミ報道では拒否することができます。卒業時には陸・海・空曹長、幹部候補生に任命されますが、それをさまざまな理由で辞退して入隊しない自由があります。それであっても学生として受けて来た給与やさまざまな経費を弁済することはありません。
ところが、防医大生には法律で定められた義務年限と「償還金」があります。勤務義務は9年間です。多くの費用や手間をかけて医師にしたら、「では任官しません。民間に行きます」では社会的な批判も多いだろうと思われました。これは自治医科大学校の卒業生も同じです。9年に満たない場合でも退職は許されますが、自己都合の場合は償還金として決められた金額を国家に返す義務があります。
同じような気分からか、毎年3月に蒸し返される議論に防大生の任官しなかった者も償還金を払えというものがあります。しかし、わたし個人はそうした見方には納得がいかないことが多いのです。
まず、学生はどちらも自衛隊員であり、その上で防医大生を、防大生を命じられ、修学も訓練もすべて仕事です。給与のことも言われるむきもありますが、あれは手当てでしかありません。24時間で自由な時間もないのです。権利も制限され、義務も多い。一般の大学生のようにアルバイトをする時間も、授業をさぼる自由もありません。
学習をし、身体を鍛え、将来の立場に備え、総合的に学ぶことが仕事なのです。冗談のような計算ですが、24時間拘束され、月が30日だとすると合計720時間。当時の学生手当ては6万8000円、時給で割れば94円余り。食費が均して2万円、住居費も当時の学生下宿より条件が悪いのですが多めに見積もり、ガス・電気・水道込みで2万円、被服費も5000円くらいでどうでしょう。合計を多めに13万円とすれば、時給は180円くらいになりますが。
防大生よ胸を張れ
もう20年近くも昔になりますが、庁内紙にコラムを連載したことがあります。学生たちが学校祭を終えた11月のことでした。「防大生よ胸を張れ」と題して駄文を載せました。以下はその要約です。
そのはるか昔、院生であったわたしの恩師たちは、多くが陸海軍の予備将校・士官でした。学徒から陸軍予備士官学校に入ったり、海兵団の予備学生課程に入ったりした人たちです。あるお一人は、わたしたちに「学問をする人間は、同時に肉体をフルに使う生活をしなくてはならない」と言われました。
そうでなくては健全な判断力も育たない、人間としての自分の限界を思い知らない、学問が薄っぺらになると語るのです。それに反発する学生もおりましたが、それは恩師の体験からきた言葉でした。高等師範学校生だった恩師は戦争の進展により召集され、陸軍の下級兵士の生活をし、その後、予備将校としての猛訓練を受けました。
限界まで身体を使うような猛訓練、野外で地べたに寝ころび、不眠不休で重い荷物を背負って行軍する。自分の限界を知り、無力さに涙する。ろくに火も通らない食糧をかじり、仲間と助け合って任務を果たそうとする。便利なこの社会の中で、まさにそれが自分を見つめる経験なのだ。防大生は学問をしながら、そうした暮らしも経験する。それは人間中心の学問をする人間には貴重な経験になるのだと先生は語られました。
短大扱いだったのに
防大生には普通の大学生より多くの履修科目を与えられます。一般教育の社会科学では、政治学、法学、経済学、人文地理があり、自然科学では数学、物理学、化学、気象学に地形学、人文科学では哲学、心理学、史学、国語国文学となっています。学生は各系列からそれぞれ12単位を学ばねばなりません。さらに専門科目があり、これは理工学と人文・社会科学の2コースに分かれます(昭和の終わり頃です。現在は少し変わっています)。
人文・社会科学専門の学生は、管理学、国際関係論(昭和末年の頃)のいずれかを専攻します。78単位を修得しなければなりません。理工学専攻の学生は外国語を1科目8単位、人文・社会科学の学生は2科目12単位もあります。理工学の学生は、これまた81単位を学びました。体育も9単位、防衛学は28単位、その他に陸・海・空要員ごとの選択科目14単位、合計で185単位を文系・理系を問わず履修します。
一般大学の文系学生は、4年間で124単位を取得すれば卒業することができます。バイトをしながら社会経験を積み、仲間と議論し合って学問を深める、そういった一般大学の青春もありましょう。しかし、演習場で草を食み、地べたに寝、海上要員なら乗艦実習で揺れや波浪に苦しみ、航空要員なら基地の格納庫で汗と油にまみれる青春もあります。
不条理な事にも敢然と立ち向かい、自然の中で自分の体力、気力の限界を知る。その過程では見たくもない自分を見ることもあり、知りたくなかった人間の弱さを知ることもあるでしょう。でも、それが人間のする学問に血を通わせることになるのだと思います。
しかも、昭和の末年当時の防衛大学校は、卒業しても学士号は取れませんでした。発足当時から新制の短期大学扱いです。月々のわずかな手当てに目くじらを立て、入隊しなかったら償還金を出せというのはあまりに無理解だとわたしは思っています。
任官を辞退した人を差別する気持ちは、任官者の中にはありません。むしろ、一般社会の中で、さすがにといわれる実績を挙げている任官辞退者は、民間と自衛隊の大きな架け橋になっています。
次回はいよいよベルリンの壁の崩壊、そうしてソ連の崩壊が近くなる時代です。
(あらき・はじめ)
(令和三年(2021年)6月16日配信)