陸軍工兵から施設科へ(35) 丹那トンネルの建設
ご教示へのお礼
SS様、加藤氏の説のご紹介ありがとうございます。確かに現場写真を見ると、客車の天井部が破壊され、線路の損傷など見当たりません。下から爆砕されたのではなく、内部からの爆発とも思えます。また、昔の映画だったと思うのですが、鉄道が交差するところで上部の線路が爆発する演出になっていました。河本大佐の証言もなく、たしかに真相はいまだに闇の中ですね。ご教示、ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。
箱根の山を越えろ
東海道新幹線が開通したときに、その工事額が話題になりました。2000億円弱でできると当初予算を計上しましたが、実際には約3800億円かかってしまいました。当初予算の約2倍です。
それでは、1934(昭和9)年に開通した丹那トンネルはどうだったのでしょう。この大工事の詳細は、吉村昭氏の小説『闇を裂く道』に明らかになっています。トンネル全長2万5603フィート(約7800メートル)、予算は770万円、7年で完成する予定で1918(大正7)年に工事に着手しました。
ところが完成したのは正味16年間もかかり、工費は予算の3倍にもあたる2600万円にもなったのです。
初めてこのトンネルが企画されたのは1908(明治41)年のことでした。東海道線の箱根越えをやめて、国府津-小田原-真鶴-熱海と海岸線を進み、そこから三島に抜ける現在のコースの調査を始めたのは後藤新平(1857~1929年)の指示です。
後藤は岩手県水沢に生まれ、苦学しましたが医師となり、内務省衛生局に勤めたのが官歴の始まりでした。1898(明治31)年には台湾総督府の民政長官となり児玉源太郎総督のもとで働きました。日露戦後には南満洲鉄道総裁、1908年には逓信大臣となっています。このときに現在の東海道線、同新幹線の丹那トンネル越えを構想したのです。
大きな工事は、その事前の調査費がかかります。工費の1割くらいともいわれますが、予算はたいていオーバーします。その上、長い時間がかかるので、用地買収費も上がることが多いし、もちろん工費もあがります。また、調査では明らかにならなかったトラブルも珍しいことではありません。
動力を確保せよ
まず、トンネル掘っていくうちに困難は増しました。それは予想にもしなかった地下水の大量発生です。現在のリニア新幹線も静岡県内の水資源の問題が争点になっています。なにぶん、「国策」の優先度が現在よりもはるかに高かった大正時代でした。ここからは吉村昭氏の労作のお世話になります。
トンネルは熱海口と、三島口の両方から掘削されました。1918(大正7)年3月21日のことでした。起工式が行なわれます。熱海の梅林の近くです。熱海線建設事務所長は鍬を手にして儀式を終えました。
工事は1884(明治17)年に完成した柳ヶ瀬トンネル掘削で確立した削岩機で穴を開けてダイナマイトで岩盤を破壊する工法を採用しました。ところが、ここに問題が起きました。削岩機を動かす力、電気が高かったのです。富士水電株式会社の申し出は、通常の2倍というとても高額だったそうです。
そこで、機械力に頼らずに人力で、照明もカンテラで行なうといった昔ながらの工法でトンネルは掘られることになりました。熱海口の土も粘土質で、工夫たちがツルハシで掘り進むこともできました。掘削の手順はオーストリアの方式を採ることにしました。まず、細い導抗(どうこう)を掘り、それを十分に固定してから上方や左右の方向にトンネルを広げてゆくやりかたです。
底設導抗といわれる最初の穴は、幅3メートル、高さ2.5メートルのものでした。土が崩れてくる恐れがあるので、支保杭(しほこう)という太い松でできた鳥居のような構造物を造っていきます。その下にトロッコのレールが敷かれ、掘りだした土石を運び出しました。
その鳥居の列が数百メートルに達すると、後ろから本来のトンネルの大きさの穴に広げてゆきます。より太い丸太や板で、高まる土圧から穴を支えて煉瓦を積みました。
入口から60メートルほど進んだところで地質は粘土から黒い岩に変わりました。安山岩です。これは三島口の安山岩と同じで、電力がないために機械掘削ができないことも相まって工事は大変遅れだしました。
蒸気の力を使おう
それなら火力発電所を造ろうという意見が出ました。それが良いとなりましたが、発電所の建設には時間がかかります。その間は、やはり手掘りで進むしかありません。そこで、鉄道の特技である蒸気力を使おうという意見が出ます。ところが、ここでも思わぬ障害が生まれます。
世界大戦の好景気です。蒸気汽缶はひく手あまたで品不足。おかげで大変な値段がついていました。さんざん苦労した結果、古い蒸気機関車の汽缶を使うことにしました。それを仮動力所として、据え付けが始まりました。10月に入った頃でした。
そうして11月になると、世界大戦は終わりを告げました。1914(大正3)年に遠い欧州で戦争が起こると、わが国には深刻な不況が訪れます。わが国から欧州への輸出は途絶えました。工業製品等の輸入もできなくなり、経済はたいへんなダメージを受けることになります。
これが一転、好況になったのは翌15年夏のことでした。欧州各国から軍需品の注文が殺到し、同じく好況だったアメリカからの生糸買いつけが増えました。また、欧州各国からの輸入に頼っていた東南アジアや南アメリカの各国から、欧州製品に代わってわが国に雑貨等の注文が入るようになったのです。
好景気になれば物価は上昇します。指数でいえば、戦前に比べて物価はほぼ2倍になりました。カネの価値が下がり、インフレが始まります。平均賃金が2倍になれば問題はありませんが、給与は5割増しにしかならなかったのです。庶民の暮らしは厳しいものになりました。
有名な富山県の漁師のおかみさん達が立ちあがった「米騒動」はトンネルの工事が始まってすぐの1918(大正7)年7月23日でした。米の価格が1升(1.8リットル)で40銭という値段がつきました。戦争前には12銭とか13銭でした。漁船に乗った漁師たちは1日に1升の米を食べました。これではとても、家族が6人もいれば米代だけで月に40円ほどにもなってしまいます。月収が20円から30円という暮らしでは、ほんとうに大変でした。
9月27日には、立憲政友会総裁の原敬(はら・たかし)に組閣の大命が降下します。庶民は爵位をもたない士族原を「平民宰相」として期待をもって迎えました。
次回は落盤事故が起きた1921(大正11)年の出来事をお知らせします。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)6月1日配信)