陸軍工兵から施設科へ(46) 丹那トンネル貫通す

77回目の「終戦記念日」

 もう何回も、いや何十回とわたしはこの日を迎えてきました。戦後生まれですから当然です。自分が生まれるわずか6年前に戦争があって、物ごころついた時にも、街には戦争の傷跡がけっこう残っていました。何より、都電荒川線で大塚駅から早稲田に向かって帰ってくると、線路の脇に「渡洋爆撃記念」と弾体に刻まれた航空爆弾が立っていたのです。いつの間にか取り払われていましたが、当時はあまり関心ももっていませんでした。
 皇居の千鳥ヶ淵に面した竹橋に行くと、立派なレンガ建ての建物がありました。あれが近衛師団司令部で、終戦の時にはあそこで師団長が殺されたのだと父親に聞かされました。当時は、近衛部隊とか師団とかの意味も分からず、気味の悪い建物があるものなんだなと思ったくらいです。
 事件の概要を知ったのは映画です。三船敏郎さんが敗戦時の阿南陸軍大臣を演じた『日本のいちばん長い日(1967年・東宝)』でした。ほかにも陸軍省軍務局員畑中少佐を黒沢年男さんが熱演しました。彼らは「國體を護持するために」、上官を殺し、偽の命令まで出して軍隊を動かしてしまいます。
いまでは「国体」といえば、国民体育大会の略称を思い浮かべる方が多いのではありませんか。1945(昭和20)年の当時では『國體』には特別な意味がありました。わが国のあり方を表し、万系一世の天皇陛下を中心にした国の仕組みそのものを指したのです。
8月14日午前10時過ぎ、陛下の発意による御前会議が開かれます。終戦の断が下りました。阿南陸軍大臣は最後まで抗戦を主張しますが、涙をのんで敗戦を認めます。その夜のこと、自刃されました。午後11時には大詔が発せられ、ポツダム宣言の受諾が決まり、その発表は翌15日の正午となります。
陸軍省の主戦派将校たちは、天皇陛下の裁断をひっくり返そうとしました。そのためには陛下のお言葉の録音盤を奪い、放送を中止させることが必要でした。一方で近衛師団長に決起を強要し、東部軍までも動かそうとします。
陸軍省軍務局の井田中佐、椎崎、畑中の両少佐、これに応じた陸軍航空士官学校教官上原大尉の4人は14日の深夜、竹橋の近衛師団司令部に乗りつけます。森師団長に決起を呼びかけますが、中将は賛成しません。とうとう畑中少佐は拳銃で師団長を撃ち、たまたま居合わせて、師団長をかばった第2総軍参謀(森師団長の義弟でした)も射殺します。
そうして彼らは偽の近衛師団命令を出してしまいました。宮城(きゅうじょう・江戸城のこと)と放送局を遮断し、陛下を守護する。近衛歩兵第1聯隊は待機。近衛歩兵第2聯隊は現状に加え1個大隊を宮城内に増派し、宮城内の通信網を遮断する。近衛歩兵第6聯隊は2個大隊で大宮御所を守護する。近衛歩兵第7聯隊は主力を宮城前広場に集め、1個中隊で放送局を占拠する。こうして彼らは上官を殺し、偽の命令で軍隊を動かすといった暴挙に走りました。
東部軍は田中軍司令官以下、「承命必謹(しょうめいひっきん)」、「陛下のご聖断が下った」という厳しい態度を崩しません。午前4時ころ、田中大将は副官塚本少佐と2人で坂下門から宮城に入ります。そうして決起した将校たちは多くが憲兵隊に逮捕され、中には自決する者もおりました。
この他にも航空士官学校、水戸の陸軍航空通信学校、埼玉県の飛行第88、同89戦隊の航空兵団の暴発があり、小さなものでは予科士官学校の教官と生徒が埼玉県川口にある海外向けの放送局を占拠するといった事件もありました。
連合国に降服すれば「國體」が破壊され、日本が滅びると彼らはそう考えていました。さまざまな事情で、天皇陛下は退位されることもなく、現在のような「平和な国」になりました。いろいろなことを考えた8月15日でした。

トンネルの貫通迫る

 1933(昭和8)年の6月、残りの距離が90メートルとなりました。お互いのダイナマイトの炸裂する音が聞こえています。ダイナマイトをつめる孔を掘る削岩機の音も岩盤を伝わってきます。三島口の工事の方がやや進んでいました。お互いの水抜き抗がつながれば、それはもう貫通と同じです。その予定が決りました。おそらく6月25日になるだろうと予想されました。
 6月16日のことでした。熱海口から掘った水抜き坑は坑口から3891.5メートルに達します。三島口からの水抜き抗の先端から10メートルになりました。貫通日を繰り上げて19日と予定します。
8月には丹那地区の住民たちへの補償も実行されます。静岡県知事がまとめた請求総額は117万5000円というものでした。あまりの巨額に鉄道大臣は驚きますが、すぐに小切手を振り出しました。8月18日には買収した土地、貯水池、鉄管、ポンプなどを無償で譲渡することにもなります。補償の総額は200万円にものぼりました。もちろん、被害にあった住民たちにとっては、なんとも複雑な心境だったと思えます。

ついに貫通

 導坑の貫通は8月25日でした。次は坑内のコンクリート貼りです。熱海口では中心点まで280メートル、三島口は同じく250メートルまでトンネルは完成し、補強工事が続いていました。
 貫通祝賀式は10月21日、慰霊祭のあとに挙行されました。熱海口で行なわれます。すでに1928(昭和3)年2月末には、東京と熱海間の電化は完成していました。そのため、東京方面の観光客は増えていましたが、丹那トンネルの完成で関西方面からの訪客も期待できるようになります。国府津から小田原、湯河原、熱海といった「盲腸線」はとうとう東海道本線の一部となりました。
 1934(昭和9)年3月10日、コンクリートの貼付も完成し、トンネルはいまと同じ姿になったのです。後は坑内に線路を敷き、電化のための工事を残すだけになりました。1918(大正7)年4月1日に起工され、15年11カ月10日の時間をかけて2500万円の工費を費やしました。従事した人は延べ人数で250万人を超えました。
 線路の敷設と電化工事は7月末までに終わり、10月、11月を試運転にあてて、12月1日を開業日にすることにします。
 もう地下水が減ることはないだろうと思っていた丹那盆地を中心した住民たちは失望することになりました。水は涸れたままだったのです。吉村氏の記述によると、トンネル工事で失われた水の量は、箱根山上の芦ノ湖(あしのこ)の貯水量の3倍にもなったといいます。トンネルの水抜き抗を流れる水は、日量で10万トンにもなっていました。鉄道省は水抜き抗の中に堰を造って、熱海へ4万トン、三島に6万トンの水が流れるようにします。
 当時、函南村の年間予算は8万円、渡された補償金は117万5000円です。水田を奪われた方々は田方平野に新しい土地を手に入れることができました。酪農も冷却装置を買い入れることで三島町への搬送も安全にできるようになりました。牧草地も整備され、ホルスタイン種の乳牛が飼われるようになりました。
 次週は列車の試運転のお話を調べましょう。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)8月17日配信)