陸軍工兵から施設科へ(45) 丹那トンネルの貫通が迫る

原爆の日と台湾情勢

 今年も広島、長崎に原爆が投下された日になりました。「二度と過ちは繰り返さない」という文言には、わたしはお叱りを覚悟でいいますが、ずっと違和感をもち続けてきました。また、これまたお怒りの方もおられると思いますが、毎年くり返される「悲惨さを伝えることが大切だ」という言葉にも違うだろうと考えています。
 まず、「過ち」とは何か。あの原爆投下は明らかに当時の米軍によって行なわれました。最高指揮官の米大統領によって命令を下されたアメリカ軍人が任務を遂行した結果です。それが「過ち」だったというなら、アメリカに正面から抗議をすべきでしょう。あの「過ち」を実行したのは誰なのでしょうか。「無謀な戦争なんかする過ちをおかしたからだ」というなら責任はわが国にあるのか。あの情緒的な文言にはずっと納得できないでおります。
 また、「悲惨な結果」といいますが、これさえ知れば核兵器は使わなくなるだろうという甘い、図々しいものの見方に腹が立ってきます。人はさまざまで、あの凄まじい被害を見て、これは素晴らしい、ぜひ持ちたいものだと思う人間もいるわけです。それを「人間ならふつうに悲惨だと思うだろう」とか、核廃棄につながるはずだと思い込むのは、あまりに身勝手な、未熟な、幼稚な考えだと思います。
 現に隣国では国民の多くが飢えていても弾道弾に核を載せるとか、世界の強国になったとか言っているわけです。またもう一つの隣国はわが国の領土の近海にミサイルを撃ちこんでいます。北方で国境を侵している国は、ウクライナで核攻撃をほのめかしています。
 わたしたちは、そうした現実にこそ目を向けなくてはならないのです。お叱りを覚悟で申し上げました。

丹那の人たちに水を

 鉄道省はさらに貯水池の建設を進めることにしました。三島口から流れ出している地下水を集めて被害地に返そうというわけです。3つの貯水池や水路が計画されました。その予算は31万円だったそうです。昭和戦前期の1円が、いまの5000円の遣いでがあるとすると、約15億円くらいでしょうか。
 別の訴えも出てきました。盆地住民の大切な現金収入だった酪農、牛乳についてです。吉村氏によれば、各戸には平均2頭の乳牛がいて月収も30円ほどになっていたといいます。当時の農家の現金収入の全国平均が60円ほどですから、米も作れない、ワサビ田もなくなるということなら大変です。
 農家は畜産組合をつくり、地区内に搾乳所を設けて、そこで乳をしぼって缶に入れて冷やしていました。そこから馬の背に載せて三島町の練乳会社まで10キロの道を運んでいたのです。その牛乳の冷却に使う水が乏しくなりました。冬季はまだしも、気温が上がる季節になると鉄管の温度も上がり、飲用水用の温度も上がりました。牛乳の腐敗が始まったのです。
 別の用水関係からも苦情が出始めます。函南村、韮山村の一部からです。2年半前の1928(昭和3)年3月のことでした。川の水が減ったので堰(せき)によって貯めた水をポンプでくみ上げていました。その設備は鉄道省が負担しましたが、問題は維持費です。毎年2500円の維持費は住民が払う、そういう約束がありました。
 ところが、この頃の不況です。農業が大打撃を受けました。世界不況のおかげで、絹糸や織物の輸出が低迷します。米価も下がり、農家1戸あたりの借金が全国平均で1戸あたり1000円にもなっている時代です。
 丹那盆地の住民たちが見舞金などを支給されたという話が聞こえ、函南村や韮山村の人たちも心穏やかにはなれません。給水設備の維持費は自分たちで払うという約束はあっても、なんとかならないかと声が上がるようになりました。
 1930(昭和5)年9月1日のことでした。600人もの住民たちが蓆旗をかついで建設事務所に押しかけます。交渉の結果、契約書はあっても鉄道省は7割を負担するということで解決が図られました。鉄道省としては早くトンネルを完成させるためにも、余計な騒動は鎮めたかったのです。

北伊豆地震が起こる

 1930(昭和5)年11月26日早朝に「烈震」が伊豆を襲います。三島町の警察署は半壊し、町内の各所から火災も起きました。丹那盆地を中心にして、箱根から伊豆半島北部を走る大断層線のしわざでした。三島・沼津は震度6、横浜・横須賀は震度5、東京・熊谷・飯田なども同4、名古屋・浜松・宇都宮・静岡各地で同3という揺れが広範囲になりました。
 函南村では死者だけで37、韮山村でも同75、北狩野村同23、修善寺町同22、川西村同16という大きな被害が出ます。1市6町36か村では死者255、負傷者743、家屋全壊2073、同半壊4104、焼失74にもなりました。
 その頃、三島口の坑内では、水抜坑が4本掘られて導坑を切り広げる作業が続いています。その導坑の切端は、ちょうど地震発生時には断層線と一致していました。坑内には大きな音が響き、上下に揺れました。トンネルは地震に強いといわれています。坑外の官舎に住む技師たちも異状はないだろうと信じていました。
 大きな停電が起きています。坑内の電燈は消えて、送風機も止まっています。技師たちはカンテラを片手に坑道を切端に向けて進みました。坑内の揺れは坑外の3分の1といわれていたので彼らに不安はなかったようです。40分ほど歩くと前方から光が見えました。切端近くで水抜坑のボーリングをしていた作業員たちです。
 坑口から3300メートルの地点で土石が崩れ落ちてきていたといいます。関東大震災でもトンネルに事故はなかったので崩落事故とは意外でした。5人の方々が行方不明になりました。必死の救助活動が続き、2人の作業員が救出されます。

三島口の大断層を突破する

 1931(昭和6)年6月25日、三島口からの掘削がついに大断層を越えました。坑口から3625メートルの地点です。つづいて翌年9月、熱海口でも難関を突破します。「貫通まであと1年」という観測も出るようになりました。
 しかし、この頃、やはり住民たちから不満の声が上がり始めます。鉄道大臣への陳情書が出されました。それは5項目でした。(1)地目変換金の増額、(2)前年の米の減収への補償金の増額、(3)なんの補償も受けていない地区がある、(4)田を畑に換える時に小作人にも配慮せよ、(5)水源の所有者になんら支払いがない。こうした要求が出されました。これらの要求をすべて認めると、約190万円ということになります。やはり現在価額では90億円から100億円という巨額でした。
 これは、工事費の1割にもあたる金額で、鉄道省としてはとても対応できる話ではありませんでした。まずは貫通が先だ、これが省内の結論でした。
 1932(昭和7)年末、熱海、三島口の両方から掘った坑道は7139メートルに達しました。残りは665メートルになりました。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)8月10日配信)