陸軍工兵から施設科へ(20) 陸軍の気球の発展

はじめに

 陸海軍の合同機関「臨時軍用気球研究会」は、陸・海軍の路線の違いが明らかになってきます。空を自由に飛べる航空機の発達によるものです。陸軍は陸上から発進する飛行機が主流だし、海軍は水上という大きな飛行場設備の要らないフロート(浮舟)つきの水上滑走機に関心を持ちます。
 そうした発足時の違いは、空軍という独立軍種ができなかったことにも関わりますし、航空母艦の発着を基本とする海軍機と、主に草原から離着陸する陸軍機の運用に違いを見せ、そこから機体の構造にも大きな関係をもってきます。
 今回は、陸軍の気球の発展について見てみましょう。

四三式繋留気球

 繋留気球はその名の通り、地上に繋留され、ただ高く上がるだけでした。当時の用語では上昇することを「昇騰(しょうとう)」という勇ましい言葉を使いました。「騰」という字は「揚がる」という意味で、馬が躍り上がる様子を表すそうです(三省堂『大明解漢和辞典』)。いまも「やかんのお湯が沸騰する」とか「物価が騰貴した」などと使います。
 言葉と異なってなどというと、先人に失礼ですが、気球はけっこうゆったりと上昇しました。気球隊が陣地進入してから1時間もかかったそうです。また、降りるときも繋留索(つなぐためのロープ)を人力で巻いたので、しごくゆっくりと地上にかえったといいます。
 1908(明治41)年6月に、陸軍技術審査部長有坂成章(ありさか・なりあき)は陸相寺内正毅に日本式気球一式の試作について上申しました。有坂は、「三十年式歩兵銃・騎兵銃」を設計した造兵将校です。
この技術審査部は1903(明治36)年にそれまでの砲兵会議、工兵会議が、常設の官衙(かんが)になりました。第1条に、砲工兵技術兵器材料に関する事項を研究調査して陸軍大臣に意見を具申し、また大臣の諮詢(しじゅん)に応じるとあります。また部長は陸軍大臣に隷し、会議の議長となると定められていました。この組織がのちに1919(大正8)年には陸軍技術本部に発展します。
この研究された気球は、「山田式日本凧式気球」といわれました。佐山二郎氏の著作によれば、大きさは全長25メートル、最大中径7.2メートル、高さ9.3メートル、容積は630立方メートルとのこと。現在でいえば、大型トレーラー3台が2階建ての家を運んでいるという感じです。「日本凧」というのも、気嚢(きのう)の下部には大きな「舵」が付いています。
7月には千葉県下志津原(現在の陸上自衛隊高射学校付近の広大な演習地)で気球隊の演習が行なわれました。気球に対する三八式野砲の実弾曳火(えいか)射撃もしたといいます。曳火射撃というのは、榴霰(りゅうさん)弾に時限信管をつけて撃つことをいいます。指向性に優れた霰弾射撃です。直撃を狙うのではなく、おおよそのところで炸裂させて小さな弾子で傷つけるという考え方でしょう。
1911(明治44)年には、審査を終えて制式化しました。そこで「四四式」とされたという資料もあるそうですが、佐山氏によれば公文書では未確認とのことです。興味深いのは上昇する高度で、最大で800メートル。であれば、観測角度は10度として視察距離は8000メートルにしかなりません。当時、ようやく射程が世界水準の8350メートルに達していたわが国の三八式野砲としてはあまり役に立ちません。
当時の国軍砲兵は、一連の「三八式」といわれた新鋭火砲を装備しました。中でも10センチ加農(かのん)は最大射程1万800メートルでしたから、将来を考えれば800メートルの上昇高度は不満をもたれるものでした。

自由気球の発達

 これまでのような地上に固定されて上昇する気球を繋留気球といいました。それに対して、いわゆる飛行する気球を「自由気球」といいます。あの普仏戦争で包囲下にあったパリから飛んだ気球は、望むところに飛ぶ自由飛行をしていました。
 1910(明治43)年9月には、小型エンジン(出力14馬力)を積んだ「山田式第1号飛行船」が東京の空を飛びました。飛んだといっても現在の品川区山手線大崎駅近くから目黒区駒場(こまば)の往復です。途中でガスが漏れて目黒区恵比寿(えびす)に不時着しましたが、修理の上で飛行再開。無事に大崎に帰還します。
 これに先立つこと2カ月前、気球隊は栃木県那須野原下石橋で自由飛行に挑みました。この飛行に使ったのは、ロシアからの鹵獲品の「球状気球」だったそうです。気球といえば丸い物という、そのイメージ通りでした。徳永工兵少佐と伊藤工兵中尉が乗り組み、飛行した距離は900メートル、最大高度は70メートル、時間は20分だったそうです。その頃の正しい名称は「球状気球」で、自由気球と改称されたのは1914(大正3)年のことでした。

操縦学生の前は気球隊付

 時間の進行を速めます。今はMF文庫に入っていますが、1971(昭和46)年にわたしは楽しい本に出会いました。著者は新藤常右衛門陸軍中佐、『あゝ疾風戦闘隊』という題名です。手に取るまでは大東亜戦争中の陸軍四式戦闘機(愛称:疾風)の戦記かと思いましたが、実際は新藤中佐の回顧録でした。
中佐は明治38(1905)年生まれ、陸士第36期生でした。歩兵少尉任官は1924(大正13)年10月です。これは航空兵科創設前の人でした。空色の襟章ができたのは翌14年5月です。いったいいつ転科したのだろう、そうした疑問から読み始めました。
 鳥取県倉吉市の倉吉中学から大阪陸軍幼年学校、陸軍中央幼年学校卒業後、歩兵に指定されて隊付候補生生活は鳥取県濱田町の歩兵第21聯隊でした。詳しい方ならご存じでしょうが、「濱田か鯖江か村松か、飛ばされそうで気にかかる」と陸士の生徒に歌われた「三大僻(へき)地歩兵聯隊」の1つです。
 濱田は日本海に面した田舎町、鯖江歩兵第36聯隊は福井県鯖江町、村松歩兵第30聯隊は新潟県中蒲原郡村松町にありました。いずれも城下町の後でしたが、濱田はポツンと孤立した地、鯖江は大きな城下町の福井よりずっと小さく、村松にいたっては近隣の新発田(しばた)や高田に比べると、ほんとうに寂しい田舎町でした。
 大正時代は中央幼年学校(後に士官学校予科となる学校、東京の市ヶ谷・現防衛省にあった)で幼年学校卒業生と中学校卒業者は集合教育を受けました。その後、兵科、任地に分かれて半年の隊付士官候補生生活を送ります。将校にとって、その発表が生涯を決めるといって言い過ぎではありません。上等兵、伍長、軍曹と2カ月ごとに階級が進められ、軍曹になって士官学校に帰ります。その後、課程をおえて原隊(げんたい・隊付した部隊)に帰り、曹長に進み、見習士官(みならいしかん)の勤務をおえて少尉に任官しました。
 新藤歩兵少尉はすぐに聯隊長に申し出ます。飛行機乗りになりたいという青年士官に賛成する人はいませんでした。先輩、上司からはもちろん、家族もとりわけお母さんが猛反対されたそうです。
大正時代の末のころ、飛行機乗りにはお嫁にやらぬ、今日の花嫁、明日の後家(未亡人のこと)と歌われていたといいます。新藤少尉はそれでも飛行機に乗りたかったのです。

気球教育の思い出

 所沢の気球隊に配属されました。操縦志願だったので、気球隊など眼中にはなく、埼玉県所沢にあることも平時編制表を見るまで知らなかったそうです。着任すると、まず、気球の上からの偵察術を教育されました。乗ったのは水素ガス1000立方メートルが入り、紡錘形で青緑色に塗られていたそうです。2人乗りで1000メートル、1人乗りなら1500メートルまで上昇しました。地上とつながった鋼索の中心には電話線が巻きこんであります。吊籠(つりかご・ゴンドラ)の偵察者はこれで地上と連絡しました。
 風が強くて気流の悪い時には、暴風雨の荒海に漂う小舟のように気球は揺れに揺れたそうです。初心者はたちまち酔っぱらってしまったのです。この気球は、第1次世界大戦の戦時賠償としてドイツから日本に渡されたツェッペリン飛行船の格納庫を所沢に移設したものの中に2個入っていました。
 浮揚する時には気球の周囲に多くの兵隊が取りついて、地面すれすれに飛行場の西北隅に運び出します。繋留索を取りつけて、吊籠(ゴンドラ)をぶら下げました。この吊籠の中と周りには、気球の浮力と釣り合うだけの数十個の砂嚢(さのう)が積みこまれたり、ぶら下げられたりします。
 こうして搭乗者は吊籠に乗り込みました。次回はこの訓練と自由気球の飛行訓練の様子をご紹介します。まあ、今から見れば無茶苦茶としか言えません。
 
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)2月9日配信)