陸軍工兵から施設科へ(53) 昔の汽車旅(映画『張り込み』から)

昔も今も

 安倍元首相の国葬儀が終わりました。一般献花に参加された方が数万人、行列はいっとき北の丸公園から四ツ谷駅まで延びたそうです。わたしの友人も列に並んで3時間かかったと言っていましたから、数万人というのは間違いではないようです。テレビで中継を見ても列になった方々が延々と並ばれていました。
また、反対する方々は、国会前で某党の委員長をはじめとして1万5000人だったと反対運動の主催者は言っていました。いや、せいぜい300人だったという記事もあり、いつものことながら反体制運動者の方々の発表はいつも大げさなようです。
テレビに出演(敢えて偶然出た一般人とは思えませんので)された通りがかりの(これがあやしい)初老の女性は語っていました。「国民の過半数が反対なのにどうして強行するのでしょう」。過半数とは50%以上のこと。ただし、それはマスコミの出したテレビや新聞のアンケート結果の数字ではありませんか。
さらに国葬儀の経費のことを口にされ、「暮らしに困る庶民からすれば納得いかない」などともおっしゃる。そうですかね。国際儀礼から言っても、元総理ですから外国からも弔問客が来ます。その警備や、会場の整備に経費がかかるのは当然です。明日の食費にも困るような人には見えませんでしたが、おかしなことを言う方でした。
世論調査と言いますが、聞かれた人は「どっちかなぁ」と迷ったところに、「おかしいですよね、反対ですよね」と言われれば、なんとなく「まあ、反対かな」と答えてしまう。そんなものを積み重ねれば反対は賛成を上回るに違いありません。ただ、わたしはああいったアンケートの数字はまったく信じません。本当かどうか、確かめようがないからです。
それにしても、政治活動というか政治運動に熱心な人はウソツキが多いような気がします。昔のことですが、ある組合運動の役員と話したことがあります。県内にある米軍基地に反対をするために人が手をつないで包囲したというのです。
そりゃ、数キロになるからたいへんな人数でしょうと聞くと、「いや、いいんだ。3万人と発表するから」と言う。「ほんとうは何人集まったのですか?」と聞いたら、「いや、3万とこっちが言うからそれでいいんだ」とにやにや笑いながら答えます。
ほんとうのところは下部の組合員に「動員」をかけて数百だったに違いありません。それが驚いたことに新聞には3万人となっていました(笑)。組合運動家と新聞記者はいつも仲間だったのです。愚かな民衆を善導する・・・そういった思いあがった使命感が彼らにはありました。今回も反対派の参集を1万5000人とウソをつくのは、きっと同じ構図に違いありません。
 いま、日曜日ですが、ネットによれば、また有名な玉川氏がモーニング・ショーで放言し、翌日に発言取り消し陳謝したとのことです。菅前総理の故安倍氏への弔辞でした。内容は素晴らしく思いました。その中で驚かされたのは、やはりテロの凶弾に倒れた伊藤博文公への思いを山縣有朋公がつづった詠草に触れたものです。それを玉川氏は「大手広告代理店が作ったものだ」と断言し、翌日はそれを取り消すといった醜態を見せました。
 得々と、わたしは裏側を知っているのだ、ああやって体制側は世論操作をするのだと語る驕った表情と口ぶりには、ほんとうに腹が立つものです。
 今日は昔の映画から見た汽車旅を書かせてください。寄り道です。

ホームの洗面台

 昔、大きな駅のホームには必ずタイルで作られた、蛇口がいくつもある洗面台がありました。亡母の故郷、木曽谷の外れにある小さな町に行くには新宿から中央線に乗りました。朝の7時に発車する急行「白馬」に乗ります。牽引機はたしか運転台の外側にデッキがあったEF58でした。朝早いので客車の中は快適です。窓をいっぱい開けて、扇風機が天井では回っていました。
 大月を過ぎ、長いトンネルの笹子峠を越えると甲府の盆地が見えてきます。その頃から車内は暑くなりました。甲府で長い停車時間を過ぎると、煙が流れて来るようになり、牽引機は蒸気機関車になったのです。上諏訪に着いた頃には、顔や首筋はじゃりじゃりとした煤や石炭の粉で汚れていました。機関車がつけ替えられる5分以上の長い停車時間、周りの大人はハンカチやタオルを手にして洗面台に行きました。

映画「張り込み」

 1958(昭和33)年、公開された映画です。夏の汽車の旅の様子が分かります。強盗殺人犯が田村高廣、その元恋人が高峰秀子さんでした。脚色が橋本忍、監督は野村芳太郎です。原作が松本清張でした。全編、暑い映画です。
 思い出に残る映画ですが、わたしよりちょっと年長の鉄ちゃんである関川夏央氏もこの映画のことを書いていました。関川氏の書かれたものにわたしの感想もつけ加えてご紹介しましょう。
 警視庁の刑事2人が主人公です。若い方が大木実さん、年長が宮口精二さんでした。2人は逃走する田村高廣さんの恋人がいる佐賀へ向かいます。このスタートから見せてくれました。ホームの駅名板が「横濱」なのです。小さなバッグだけを持った2人は、窓が3枚のガラスでできた葡萄色の国電、京浜東北線の桜木町駅行きから降りて地下道を駆け下り、駆け上り、すでに動いている急行「薩摩」に飛び乗ります。
 当時のダイヤでは「薩摩」は横浜発22時19分でした。次の停車駅は大船、そのアナウンスが聞こえてきます。終着駅は鹿児島です。当時の西へ向かう急行には、「薩摩」の他にも「西海(さいかい)」、「玄海」、「霧島」、「阿蘇」、「安芸」、「瀬戸」などがありました。関川さんによると、長距離を走る列車ほど混んだといいます。「薩摩」はその最も長距離を走りますから、案の定、満員です。同じ列車に犯人の故郷山口に向かう刑事2人も乗っているはずでした。2人は東京から乗れたので、座席を得ているに違いありません。
 
 大木刑事と宮口刑事は通路に新聞紙を敷いて座ります。乗客はみなワイシャツを脱いでいます。中にはズボンを脱いでしまい、ステテコだけになっている男性も見られます。誰もが扇子を使っています。窓はどれも開けっぱなしでしたが、あの夜汽車でも暑い空気は懐かしいです。

東海道線全線電化

 東海道線の電化工事の最後は米原(まいばら)-京都間でした。1956(昭和31)年11月の時刻表大改正は、そのおかげです。特急の「つばめ」と「はと」は東京と大阪の間をこれまでの8時間を7時間半として30分の短縮をしました。
 丹那トンネルが開通した1934(昭和9)年には特急「つばめ」が9時間で結びます。映画「アルキメデスの大戦」で櫂主計少佐が大阪まで往復に使いました。それが戦後になって浜松で機関車をつけ替えながら8時間で走っていたのです。高度経済成長の時代の前夜、昭和30年代初めに7時間半に短縮され、全線を電気機関車が最速を出した記録でした。
 だから2人の刑事は機関車の煤煙に悩まされることはなく、ひたすら熱気に耐えるだけで済みました。もちろん、2人とも半袖開襟シャツは脱いでしまい、下着だけの姿です。「さつま」の京都到着は朝の7時36分でした。そこで東京からの乗客が1人、ボックス席から降りて行きました。年長の宮口刑事はそこに座り、空いた車内を大木刑事は2人の同僚を探します。別の2人組の刑事たちは、容疑者の故郷山口に向かうのです。
 夏の朝の風が吹き込んで、ほっと一息、観客の私たちもなごみます。大阪到着は8時26分でした。東京から10時間41分もかかっています。夜行急行は決して速くありませんでした。人々の活動時間もありました。あまり早く着いたところで乗り継ぎがうまく行かなかったり、街も動いていなかったりということもありましょう。コンビニはなかったし、終夜営業のお店も少なかったのです。
 また、夜行急行は大きな駅ごとに長い間の停車をしました。関川氏によれば、浜松5分、名古屋6分、京都12分という長い停車時間があったからです。これは電化された後になっても乗客にホームでの洗面を保証するといった慣習が続いていたからだとのこと。
 次回も話を続けさせてください。
 
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)10月5日配信)