陸軍工兵から施設科へ(54) 昔の汽車旅・2(地方都市の暮らし)

統合火力のお話

 先週は陸上自衛隊富士学校特科部のご厚意で貴重な研修をさせていただきました。烈しい雨がときたま降りましたが、研修した装置は建物内にあります。建物はごく普通の四角い自衛隊の隊舎ですが、入口・玄関ホールには陸海空の装備品、航空機や艦船、戦闘車両などの模型がたくさん展示してありました。
 階段を上がって、部屋の扉を開けると天井や室内の左右いっぱいまで届くスクリーンが広がっています。目の前に広がる景色は海岸で、手前には民家や道路が並んでいました。
敵が上陸してきます。戦車が2輌、果敢に道路を進撃し、わが陣地に迫っています。そこへ空自のF2支援戦闘機が襲いかかり、続いて護衛艦から艦砲射撃がされ、さらには陸自の対戦車ヘリコプターがミサイルを撃ちました。その臨場感も素晴らしいものでした。
敵の位置、目標を確認し、その時点で使用可能な、もっとも合理的な打撃力を用いるという陸・海・空戦力の統合指揮を行なう訓練です。観測手、連絡手、誘導手によるチームワークの素晴らしさを見ることができました。
戦い方は明らかに進化しています。ウクライナの地上戦も野戦火力の有効性を示してくれました。
陸上自衛隊は、わたしの若い頃には中距離火砲を1000門、装備していました。戦車も1100輌を誇りました。それが現在、300門と300輌です。ロシアもこの30年間、軍縮に次ぐ軍縮で火砲は減らされてきたように思えます。わが国もまた、同じように2007(平成19)年から次々と機甲、火砲戦力を削減してきました。
先日も、ウクライナでの対戦車ミサイルの戦果を見て、やはり戦車は要らないという素人の意見が聞かれました。以前にもアラブの戦争の結果、戦車をミサイルで撃破したときにも同じような主張がありました。でも、やはり火力は必要です。
ある陸自砲兵の方の一言、「サイバー戦では、直接人は死にません。やはり人的、物質的損害を与え、敵の士気を阻喪させるのは火力です」といった言葉にも目からうろこが落ちました。

未電化の山陽線の旅

 急行「さつま」は大阪で機関車をつけ替えました。電気から蒸気牽引になります。当時の急行旅客用電気機関車はEF58でした。Eは電気、Fは動輪が6つあることを表します。敗戦直後の1946(昭和21)年に製造されました。最初は運転席に上がるためにオープンのデッキが付いていましたが、51年にはデッキはなくなります。のちに、「青大将」とあだ名された全車輌ライト・グリーンの「つばめ」、「はと」の牽引機になりました。
 このグリーン特急は、電車特急の「こだま」の登場まで旅客列車の王者でした。列車編成は3等(いまの普通車)荷物合造車1輌、3等が4輌、2等(いまのグリーン車)5輌、食堂車と展望車が各1輌といった12輌でした。3等車と比べて2等車が多かったことから、当時の特急利用客の階層が見えてきます。
 刑事たちの旅は続きました。「さつま」は大阪から蒸気機関車C59に牽かれて快走します。昭和の初め(1920年代後半)から東海道・山陽本線の急行列車は、もっぱらC53という機関車が使われていました。マニアには有名な3シリンダー(機関車の多くはシュッポ、シュッポという擬音で分かるように2気筒です)の複雑な構造をもっています。
 1940(昭和15)年から戦時のための輸送力増強がいわれ、大型のC59が造られました。当時では最大級のD51(貨物用蒸気)より50センチ長い大型ボイラーを備え、足回りはC57型よりもシリンダーを大型化しました。このC59機関車が駆逐されたのは最大の旅客用蒸気機関車C62(1948年製造)のためです。
 大阪到着は朝の8時26分、岡山で昼になり、倉敷、福山、尾道と瀬戸内海を車窓に見ながら「さつま」は走ります。午後3時40分、2人は広島で弁当と酒を買いました。このときには大木刑事はホームに降り、合流した先輩刑事2人の分と合わせて4つの駅弁を窓から差し入れています。
 岩国近くで陽は傾き始め、宮口刑事は疲れて眠っていました。窓から吹き込む風が下着の半そでシャツをはためかせます。小郡(おごおり)到着は午後6時38分、犯人の出身地である山口方面に行く列車に乗り換える2人の刑事。「元気で」、「お元気で」と言い交わす、今から見れば、いささか大げさな別れの言葉と、いつまでも窓から身を乗り出して手を振る大木刑事。当時の列車の旅の苦労がしのばれる思いがします。

佐賀に着く

 関門海底トンネル(約3600メートル)は煤煙対策で電化されています。1942(昭和17)年に開通したときにはEF10という直流電機が下関-門司の間の約6キロメートルの区間を牽引しています。刑事たちはトンネルを夜の8時半ごろに通過しました。のちに機関車はEF30に更新されますが、門司駅でやはりC59につけ替えられて、博多駅の発車は10時40分です。大都会の駅の賑やかさが分かります。
 次の停車駅は佐賀県鳥栖(とす)でした。「さつま」は長崎本線には乗り入れないので、2人は午後11時9分に鳥栖で乗り換えです。もっとも関川氏の指摘によれば、ほんとうは佐賀方面の列車はなく、映画は架空のダイヤで2人を深夜の佐賀駅に送ります。
 「さつま」の鹿児島着は翌朝の5時46分でした。夜遅くに東京を発ち、1日中走り、もう1つの夜を越えました。総走行時間は32時間と1分です。東京-鹿児島間は1495キロメートルですから、停車時間を入れて平均時速は46.7キロメートルです。
 ちなみにわたしの乗り換えアプリで調べると、午後9時50分に寝台特急「サンライズ出雲」に乗り、岡山に8時間37分後に到着。新幹線「みずほ601号」に乗り換えて2時間55分、9時46分に鹿児島中央駅に降り立てます。1463.8キロ、11時間56分です。
 同様に佐賀までは1228.5キロ、博多で「みどり11号」に乗り換えて、朝9時16分に着きます。11時間26分です。
 もっとも現在の方法なら、2人の刑事は朝6時の「のぞみ」に乗り、博多まで4時間52分、佐世保行きの「みどり23号」に乗り換え、12時16分に佐賀へ着くでしょう。つまり6時間と少しで旅は終わります。飛行機を使えば、佐賀空港まで約2時間です。
 この1958(昭和33)年11月1日、電車特急「こだま」が走ります。映画の時点から2カ月あまり後になりました。ビジネス特急といわれます。東京と大阪を6時間50分で結びました。「大阪に日帰り出張ができる」というふれこみでした。
 朝7時発の第1こだまで午後1時50分に大阪に着きます。午後4時発の第2こだまに乗れば2時間10分で用事を済ませて、午後10時50分に東京駅に着けるということです。
 わたしも小学生の頃に1度だけ「こだま」に乗って名古屋まで行きました。電話が付いており、食堂車ではなくビュッフェといわれた軽食を出す店がありました。ビジネスデスクとかいう設備もあったようですが、それは子供には関係がなかったせいか記憶にはありません。
 この頃から、体力と忍耐力を必要とした汽車旅行は明らかに変わってきました。
 映画にはボンネット・バスやローカル線も出てきます。次回は映画の後半の紹介をしましょう。参考・引用、『豪雨の前兆』関川夏央、2004年、文春文庫。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)10月12日配信)