特別紹介 防衛省の秘蔵映像(6) 3次防の時代-(2)空中機動力の時代

昭和43年映像の紹介
https://www.youtube.com/watch?v=JCHuK8tuq70

ヘリコプターの増勢

 この3次防の5年間をふり返ると、国産装備の開発・取得が進んだことでした。そして陸自では空中機動力の増強が唱えられます。ヘリコプターによる兵員、物資の輸送だけではなく、対地攻撃力まで備えた他用途ヘリが整備されました。
すでにアメリカ軍はベトナムで海兵隊による「Air Assult(空中強襲)」が行なわれました。米陸軍もヘリコプターによる強襲を研究し、「エア・マニューバー・オペレーション」、空中機動作戦と名付けています。
陸上自衛隊も新たな部隊改編が行なわれ、ヘリコプター団が発足しました。茨城県の霞ヶ浦から千葉県木更津駐屯地に移った映像があります。霞ヶ浦駐屯地はいまも航空学校霞ケ浦分校があり、広大な関東補給処の敷地の一部です。
木更津駐屯地から発着する陸自のヘリは、東京湾をまたぐ高速道路からも見られます。神奈川県川崎市から海底トンネルに入り、人工島「海ほたる」に出て海上の橋を使って千葉県に渡る自動車専用道路です。向かって右の海岸沿いに木更津駐屯地があります。
戦争前から戦時中は海軍航空隊が置かれ、双発の陸上攻撃機部隊がいました。おかげで長い滑走路がありました。いまは陸自第1ヘリコプター団と特別輸送隊(皇族や国賓を送迎する)、対戦車ヘリ隊などの部隊がいます。
陸自のヘリにはOH(偵察)、UH(多用途)、CH(輸送)、AH(対戦車)と4種類があります。映像では当時の主力輸送ヘリ、バートルV107を見ることができます。正確には川崎・バートルKV107IIといい、タンデム・ローター(前後に2つの回転翼がある)の全長25.7メートルの大型です。当時は53機を保有していました。
自重は約6トン、最大速度は144ノット(約270キロ)毎時です。タンデム・ローターの利点としては、胴体の前後に揚力(ようりょく・上に押し上げる力)が働くために、重心位置の許容範囲が広く、胴体の容積をフルに荷物搭載に使えることでした。また、その姿の大きさ(ローターの直径は15.54メートル)から想像すると動きは鈍重に思えますが、意外な事になかなかの運動性があります。
後継機種である現用のCH47チヌーク(やはりタンデム・ローター)が富士の総合火力演習で機敏な動きを見せると観客から大きな嘆声が上がることが多いようです。しかし、実際は前後両方のローターが機体重心から遠いので、ローターの推力のわずかな変化だけで鋭敏な操縦ができるといいます。
ヘリボーン(空輸挺進行動)では武装した隊員を25メートル載せることができました。ところが、105ミリ榴弾砲(重量2.3トン)を吊りあげると、兵員を載せることができなくなります。人員と弾薬、砲はそれぞれ別々に運ばねばなりませんでした。

ベルHU-1B/H

 映像の中で北部方面隊の演習が撮られています。そこには多くのヒューイと呼ばれる、この中型の多用途ヘリが乱舞しています。この米軍が1959(昭和34)年に採用した多用途ヘリは現在も改良を重ねられながら使われ、傑作タービン・ヘリと言われるほどです。わが国では富士重工、すなわち戦前の中島飛行機(傑作戦闘機「隼」、「疾風」などを送りだした)の後身がライセンス生産しています。
 1963(昭和38)年から装備を始め、昭和46年までに90機が生産されました。映像の中のヘリはB型でしょう。最大搭載人員は10名といわれます。北部方面隊所属機のほぼ半数は、地上攻撃用の重機関銃などを装備していたそうです。
 設計のねらいは簡潔な構造、高い信頼性、容易な整備とされました。揚力を生み出すメインローターは直径14.3メートル、最大速度は116ノット(約215キロ)です。何度か乗せてもらいましたが、パワーは十分、軽快な機動性が印象的でした。座席は燃料タンクの前に3列で最大搭載力は14人といわれますが、キャビンは決して広くはありません。

WAC幹部の採用

 この年から一般職の女性自衛官(当時は婦人自衛官)が採用されました。一般職というわけは、それ以前の女性自衛官は看護官に限られていたからです。最初のスタートは、陸曹(下士官)や陸士(兵)になる隊員たちの教官要員だった11名の幹部(将校)でした。採用受験の倍率は6倍といわれますから、現在と比べるとずいぶん人気がありません。しかし、採用された11名全員が当時の女性としてはたいへん高学歴の4年制大卒でありました。
 ついでに看護官の話ですが、看護学生(ナース要員)第1期生は1961(昭和36)年に採用されました。この受験倍率はなんと75倍です。3年間の在学中に陸士長に進み、看護師(当時は婦)免許を取得すれば2等陸曹に昇任しました。その後は部内幹部候補生も受験できるし、当時はもっとも恵まれた女性技能者でもあったわけです。
 愛称はWAC(ワック)といわれました。米陸軍のWomen’s Army Corpsから略称を採用したのです。「軍隊」ではないのにArmyはおかしいと思われましたが、マスコミもすっかりスルーしていました。この後、空自はWAF(ワッフ)、海自はWAVES(ウェイブ)という女性自衛官制度を造りますが、どちらも米空軍、海軍の翻訳語です。正確には海自の発音は「ウェイブズ」になるはずですが、これは女性に「ブス」はないだろうということから、敢えて波に通じる「ウェイブ」にしたとか聞いています。 
 この年の幹部1期生の前田米子1等陸尉は後に1佐に進まれ、婦人自衛官教育隊長も務められました。

施設器材が見られる

 西部方面隊には第5施設団(複数の施設群を隷下にもつ)があり、その駐屯地福岡県小郡からほど近い筑後川の架橋(がきょう・「が」と濁るのが伝統)演習が見られます。まず驚かされるのが、米式の巨大なゴムボートです。正式には「浮のう(嚢)橋」セットといい、水深1.2メートル以上の河川に対して戦車などを通過させるものでした。
 幅は約2.6メートル、長さ約10メートル、高さ約80センチメートル、浮力は約16トンというものです。この上に、アルミでできたポーク(普通・短・傾斜の3種類がある)を適当に組み合わせて、床状になるように敷き並べて橋にしました。
 これが35トンから50トンまでの戦車・車両等を通過させます。映像には105ミリ榴弾砲を軽々と引くクローラー(キャタピラー)付きの牽引車が、偽装した戦車が通る姿が映っていました。
 また開発中の、おそらくのちに「70(ナナマル)式自走浮橋(ふきょう)」とされる水陸両用車が紹介されています。水深約1.5メートル以上の深さの河川に乗り入れて、フェリーボートのように車輌や戦車を運んだり、つなげて橋になったりしました。
 73式装甲車の試作型も見ることができます。1973(昭和48)年に仮制式として採用されます。これも水中に乗り入れて進む姿が見られます。

昭和天皇、皇后陛下が「三笠」を初訪問

 短い時間ですが、横須賀市に保管されていた戦艦「三笠」に天皇・皇后両陛下が初めて訪問されている映像もあります。1905(明治38)年5月27日、対馬沖で戦われた日本海海戦を戦った殊勲艦でした。日本海軍聯合艦隊とロシア海軍バルチック艦隊が激突したこの海戦は、日本海軍の大勝利に終わりました。
 高名な東郷平八郎海軍大将が、この吹きさらしの艦橋トップで指揮を執り、その提督の靴跡の形が床板には描かれています。三笠は英国製の当時、最新鋭の戦艦であり、その後には事故で爆沈もしましたが復旧され、退役後は記念艦として現在の場所(現・三笠公園)にありました。
 戦後は米軍に接収され、ダンスホールなどにされましたが、有志の努力によって昔の姿に戻ることができました。そこへ両陛下が戦後23年経って、初めて行かれたとは驚かされます。

国立競技場前の行進と世相

 当時の陸自の人員は17万3000、海自は3万6000と艦艇15万トン、空自は4万人と1000機の航空機という勢力でした。さっきご紹介した陸自のWAC隊も行進し、偵察用オートバイが初めて行進します。もっとも、現在のようなモトクロス・バイクではありません。大型の、バイクに詳しくはない筆者には分かりません。
 映像の中には「檜町警備隊」という変わった名称の部隊が編成されたことが出てきます。なるほど、この翌年には「70年安保」の年になります。10年ごとの日米安全保障条約の見直し、調印の時期が近づいていたのです。この60年代の後半は「大学紛争」の時代でした。
 そうした中で、赤坂桧町(六本木)にあった防衛庁に過激な学生が突入するといった事件がありました。そのため警衛がヘルメットに帯剣、小銃をもつといった姿に変わり、その任務にあたる警備隊がつくられたのです。
 若い方々には遠い話に違いありません。この年に「日大闘争」が始まりました。学生運動という荒れた時代の始まりです。元々は日本大学の経理の中で不透明な20億円もの支出があったことからでした。
 学費の値上げ反対闘争といい、学生の暴力は大きな社会問題となりました。なぜ、学生は暴れたか、当事者の回想を見聞きすると、ずいぶん純粋な真面目な動機に裏付けられた行動のようになっています。でも、わたしのような「政治的意識の低い」同世代(やや下ですが)から見える景色とはずいぶん違っています。
 「国を憂える」、あるいは「社会の現状を否定し理想を語る」というのは、旧い知識人、あるいはそれを自負する人だけの特権でした。大学、いわゆる高等教育への進学率が10%くらいなら、まだ大学生はそうした知識人ともいえたでしょう。社会に出ても、まだエリート扱いをしてもらえた人たちです。
 現に、1963(昭和38)年の某大学の卒業式では、その総長が「諸君は社会に出たその日から指導者、知識ある人と思われるが・・・」と送辞を述べ、それをあからさまに否定する人はいませんでした。
 ところが、この40年代の半ばになりますと進学率は30%を超えました。卒業しても、前のような扱いは受けられない。わたしはそうした怒りや苛(いら)立ちが、ああした過激派の学生たちの心の底にあったと思います。
 わが国の史上最大の経済成長とはいつか、その答えは第1次世界大戦の戦中と戦後にありました。1910(明治43)年から1920(大正9)年の10年間で、わが国の名目GNP(国民総生産)は4倍に膨れ上がります。しかし、1960(昭和35)年から70(昭和45)年の10年間はどうだったか。16兆円から76兆円にもなりました。実に5倍近くです。
 もう少し詳しく見ると、1964(昭和39)年は東京オリンピックの年でした。東海道新幹線が走り、首都高速道路も開通します。ホテルも開業がラッシュ、そして過剰投資のおかげでいったんは不況になりますが、66年には回復します。これから1973(昭和48)年の第1次オイルショックまで、わが国の高度経済成長は続いてゆきました。
 国内の平和と豊かさの増進とは別に、アジアは混乱を続けています。ベトナム戦争は1973(昭和48)年に停戦しますが、アジアの貧しさは豊かな日本の若者にとって「きまりの悪い」ものだったようです。そのアジアの停滞とベトナムの戦争のおかげで、わが国は豊かになっている。だから・・・といった思いは、真面目な青年の看板の多くがもつものでした。
 次回は一気に第4次防衛力整備計画(昭和47年度~51年度)、1972年から76年度のみどころを見ましょう。
(あらき・はじめ)
(令和三年(2021年)3月10日配信)