陸軍工兵から施設科へ(19) 代々木で空に浮かぶ前に

ご愛読のお礼

 毎日の感染者の数が速報され、報道はまたまた過熱気味です。KMさま、いつもご愛読をいただきありがとうございます。このたびは力強いご賛同のお言葉、重ねてお礼を申し上げます。テレビにもちょっと出られた現場の医師の方が、「インフルエンザと比べれば、危険性は亡くなった方々の数を比べてみればいい。過剰な恐れ方はあぶない」と言われたことが印象的でした。
 コロナ禍以前は、毎年、学校やその他の公共施設ではインフルエンザの蔓延がいわれ、学校でも学級閉鎖や学年閉鎖、はては休校までされていました。今回は、オミクロン株の学校での流行が言われるようになり、そうした措置が行なわれています。問題は、やはり社会機能の正常な運営であり、経済を回すということを考えていきたいものです。
 私事ですが、わたしの孫も小学生。入学以来、給食はいつも無言で黙々と摂っているとのことです。こうしたことの影響をどう考えるのか。教育学者や、心理学者からぜひ、お考えを伺いたいものです。怒られるかもしれませんが、感染症学者や公衆衛生学者の方々のお話は少し聞きあきてきました。経済や、人間の発達、コミュニケーションなどの専門家の方々のお声もうかがいたいものです。
 さて、今日も、初期の航空界と工兵の関わりについて、「回想の日本陸軍機」の記事からご紹介しましょう。

やってきた飛行機(器)

 当時の新聞記事などでは、「飛行器」と表記されていました。徳川工兵大尉がフランスで買い付けたアンリー・ファルマン機は1910年型といわれます。同機は1910(明治43)年11月に横浜港に到着しました。ただし、荷造りされたまま小型の艀(はしけ)で品川に回航されます。
 長さ12メートル、縦・横各2メートルの主翼を収めた大きな箱です。これをよくもまあ、無事に中野にあった気球隊の格納庫に運び込みました。胴体は数本の梁(はり)材ですから、組み立てたままの主翼がもっとも大きな包みでした。
 いざ梱包から出してみると、どうやら取り扱い説明書もなかったようです。いまなら、トリセツもないのか、ネットでダウンロードかと大騒ぎになるだろうが、メーカーにも特に悪意はなかったでしょう。あるいは単に忘れてしまったのか。
当時の飛行機は、強度を保つために張線(はりせん)というピアノ線が必須でした。この張線のつなぎ方も、どうやら徳川大尉もおぼろげな記憶しかないということで、やっては試す、違っていたら張り直すという連続だったそうです。

発動機(エンジン)は回転式

 この頃の航空機のプラモデルを作ると分かることですが、まっとうな模型ならエンジンは固定しないように指定があります。つまりプロペラとエンジン(シリンダー・気筒)がいっしょに回りました。クランク・シャフトがプロペラに固定されています。気筒の外側には空気にふれる面積が増えるようにフィン(ひれ)が付いています。回転させることで冷却の効果を上げるための工夫です。
 エンジンはノーム社で造られた空冷7気筒50馬力エンジンでした。中央にクランクがあり、放射状にシリンダー7本が見えます。ほんとうなら、一度完全に分解して再組み立てをするのですが、整備員たちにはその能力がありません。軽量で、当時としては大出力の航空用エンジンなど、とても貴重なものでした。錆止めの油をふき取って試運転を始めました。
 試運転は前進しないように、飛行機の車輪に丸太をかませて、動かないようにしました。始動の手順が紹介されています。まず、パイロットが「クーペ!」と叫びます。フランス語で「切断」の意味です。スイッチを切ります。そこでプロペラに取りついた整備員がゆっくりと手まわしをして(数回になるといいます)、シリンダーの中にガソリンと空気の混合気を送りこみました。
 頃合いをみて、整備員がプロペラを水平位置にすると、パイロットは「コンタック!(接触の意味)」と大声を出してスイッチを入れます。整備員はプロペラを力いっぱい回してエンジンがかかるそうです。調子が悪いとエンジンは動かず、何時間もかかったことがあると思い出話が残っています。

エンジンがかからない

 12月12日、中野から代々木練兵場の天幕でつくった格納庫に人力で運びこみます。主翼は50人、尾翼は20人でかついで、寒気の中を深夜に運んだというのですから大変だったことが想像できます。13日には組み立てが終わり、エンジンもかかって、地上滑走から始めました。
 この地上滑走中に事故が起きます。修理を急ぎ、プロペラを交換しました。さて、16日になって万全だと思ったら、なんとエンジンがかかりません。寒すぎるのではないかと露出しているシリンダーを湯で温めたり、気化器(ガソリンを霧状にして空気と混ぜる機構)のノズルに電流を通してみたりしても動かないのです。結局、マグネット(磁石)が良くないのではという結論になりました。着火するための火花が出ないということでした。
 マグネットの予備がないので、希硫酸を入れた蓄電池を使ったらどうかと技術者から意見が出て、同乗者席にそれを縛り付けてやってみます。電圧不足は解消されて、どうやらエンジンはかかりました。17日、18日は天候に恵まれませんでした。強風だったのです。
 そうして19日に初飛行が成功します。徳川好敏中将は、のちに「発動機が回転していてくれて、飛行機が飛んでいるから、それにただ乗せられていたというのが正直なところでした。天佑神助(てんゆうしんじょ)によるものと今も信じている。それと、この公式飛行の関係者の指導・援助によるもので、決して私ひとりの力だなどと思っていない。そう考えることは傲慢(ごうまん)というものだ」と謙虚に語り続けたそうです。
 アンリー・ファルマン複葉機1910年型は、乗員2、全幅10.5メートル、全長12メートル、自重500キログラム、翌面積50平方メートル、総重量600キログラム、速度時速65キロメートル、航続4時間。そうして、当時の価格は1万8825円95銭だったと記録されています。
 いまのいくらにあたるのかは難しい問題です。当時のインテリだった二葉亭四迷は朝日新聞の中堅記者でしたが月給はおよそ100円、東京で下宿すれば10畳(16平方メートルほど)で2食付き20円くらいだったと当時の新聞記事にあります。日露戦後の不況が続いていた頃です。1円をだいたい現在の8000円とすると、アンリー・ファルマンは1億6000万円くらいでしょうか。

日野大尉が乗ったグラーデ機

 グラーデ機は複葉の大型だったアンリー機に比べると、単葉で軽量の小型機でした。エンジンもグラーデ式空冷4気筒24馬力です。1人乗りで、全幅こそ10.5メートルでしたが全長は7.5メートル、翼面積は25平方メートル、総重量330キログラム、速度は毎時58キロメートルでした。
 12月14日には、地上滑走中に高度1メートル、距離30メートルにわたって浮揚し、10メートルの高度で距離60メートルを飛んだという説もあります。では、なんでこれが飛行第1号にならなかったかというと、公式記録員もおらず、高度、距離ともに目撃者となった新聞記者による話だからです。
 徳川大尉が華族出身だったからとか、心ない噂が当時もありましたが、そういうことはありません。あくまでも飛行条件も、飛行記録のとり方も、突発事故のようなものだった日野大尉の「飛行」は公式ではありませんでした。
 15日には滑走中に草の中に突っ込んで転覆するといった事故もありましたが、すぐに修理もできて、翌日も試験滑走は続けられました。ところが、本番の19日、エンジンの調子が悪く、4気筒のうち3気筒しか動かず、この調整にひどく手間取ります。そのため実際に飛んだのは午後1時30分、北風が風速6メートルのところを50メートルの滑走後、浮上し、高度20メートル、距離1000メートル、時間は1分20秒という公式記録を残しました。
 徳川大尉は、3分間、高度70メートル、距離3000メートルを飛びました。
 次回は気球と工兵隊について。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)2月2日配信)