陸軍工兵から施設科へ(15) 旅順要塞への第1回総攻撃の結果

ご挨拶

 テレビは毎日毎日、コロナとワクチン。あまりに情報があふれています。もう何を信じていいのか分かりません。
 ところで防衛省が今まで公開されていない旧い映像をユーチューブで見られるようにしてくれたようです。そうして分かることは、戦後社会で陸上自衛隊施設科は公共工事に貢献し、地方の社会資本の整備に大活躍したことでしょう。
 いまは方面隊ごとに施設団が置かれ(北部方面隊を除く)、隷下には複数の施設群があり、師団・旅団には施設大隊や施設隊があります。その活躍を眼にする機会はありませんが、昔は全国いたるところで、OD色の建設機械が動いていました。
 ドーザー、グレーダー、クレーンなどをいち早く取り入れたのは米軍のエンジニア(工兵)の指導を受けた自衛隊の施設科だったのです。地区施設隊という今ではなくなった部隊が民生協力ということで大活躍しました。予算不足の地方自治体にとってみれば、演習として働いてくれる自衛隊様さまの頃でもありました。
 いまも、地方で根強い自衛隊ファンはこうした実践があったからでしょう。昔の映像を見て、いろいろ思います。次回からはそうした紹介もします。

堡塁と交通壕

 当然、総攻撃の前には偵察をする。とはいえ、接近できるわけではない。双眼鏡や望遠鏡で見えたのは散兵壕に見える敵兵くらいである。ロシア軍の堡塁(ほるい)や掩蓋(えんがい)施設は巧みに偽装、隠ぺいされていたのだ。
 堡塁というのは防衛の拠点になるところで、砲台や銃眼を備えている。また、守備兵が休息したり、待機したりできる居住性もあった。堡塁と堡塁の間は、交通壕ともいわれる塹壕で結ばれていた。塹壕はジグザグに掘られる。直線では万一砲弾が炸裂したら、被害が大きくなるからである。
 塹壕のところどころは、上部を保護する掩蓋で守られていた。兵員が待機し、将校が事務までとれるような施設があった。そのようなところにも銃眼があり、機関銃が備えられているところがある。しかも、そうした塹壕のラインは1本ではなく、3本もあったのだ。
 機関銃については、多くの勘違いした書籍のおかげで、日本軍は初めて知ったというような俗説がある。しかし、それは大正時代の終わりころに戦場体験者たちの言葉から出たことだ。おそらく機関銃に代表される機械力に精神力で立ち向かえるといったことを主張するためだったに違いない。
実際には日本陸軍の機関銃採用は世界の中でも早い方である。すでに日清戦争(1894~5年)に台湾でも使われている。その後は、内地の要塞防備用の火器として輸入、生産もされていた。
 だからロシア軍にも防御用の火器として当然装備されているだろう。そうした想像は誰もがしていた。ただ、その威力がとても大きいということが理解されていなかっただけである。なんと西欧の陸軍ですら、10年後の第1次世界大戦で同じ失敗を繰り返した。鉄条網に守られた敵の塹壕に突進し、機関銃に掃射されて大きな損害を出したことが知られている。

攻撃命令

 乃木大将による攻撃命令は次の通りである。軍命令の実際を知るために漢字は現用のものに改めるが、片仮名はそのままにする。
攻撃正面ハ、二龍山堡塁及東鶏冠山砲台間トス。
三、(略)
砲撃開始ヨリ突撃迄各団隊ノ動作左ノ如シ。
十八日払暁砲撃ヲ開始シ、十九日迄継続シ、二十日払暁突撃ス。
第一師団ハ、砲撃開始ト共ニ椅子山方面ノ敵ヲ攻撃ス。
(略)
第九、第十一師団ハ・・・二十日払暁突撃ス。但シ第九師団ノ攻撃点ハ盤龍山東堡塁、第十一師団ノ攻撃点ハ東鶏冠山北堡塁トス。(児島襄『日露戦争』)
 第1師団に右翼を任せ、第9と第11師団に東北正面を突破させようという計画である。旅順口市街の一番乗りは、第9、もしくは同11師団のどこかの部隊だろう。
 事前の観察ではほとんど鉄条網と散兵壕しか見えなかった。こりゃ、野戦築城に少し毛が生えたものくらいだろう。一気に突進すれば損害を出しても抜けるに違いない。そのように参謀たちは考えていた。

誤算だらけの計画

 三線にもなっていたロシア軍防御。約3万3700人が守り、火砲は488門、機関銃43挺があった。鉄条網は3~4メートルの縦深をもち、高圧電流も流されていた。近づいても簡単に切り開ける鉄条網の重なりではなかった。しかも鉄線鋏(てっせんきょう)を不用意につければ、たちまち感電してしまう。付近には地雷原まであった。陣地間の連絡には地下電線があった。日本軍の砲撃で電線が切られないようである。
 ロシアの守備兵力約1万5000、火砲は約200門というのが第3軍の見積りだった。それに対して、第3軍の総兵力は5万765人、火砲は380門。攻撃する側は守る側の3倍を要するという常識からすれば、優にその原則を満たしている。火砲も門数はともかく、野戦重砲の配属も受ける。負けるわけがないという自信も当然であろう。
 しかし・・・8月13日、第1師団が総攻撃のときに態勢を有利にするため、北大王山と、その左の164高地を後備第1旅団と第1旅団が目指していた。後備第1旅団は北大王山、第1旅団は164高地を攻略と分担がされた。ところが雨と濃霧があり、砲撃の効果も少なかった。
 8月15日、午前6時50分から始まった砲撃は効果があった。9時ころ敵陣に動揺がみられて、9時40分、歩兵第15聯隊に突撃を下令した。10時55分、164高地の頂上に日の丸が揚がった。北大王山も11時30分、後備歩兵第15聯隊が山頂を確保した。
 この3日間の戦闘によって、死傷者1252人を数えた。そうして、ここまでに上陸以来、第3軍の損害合計は戦死1303人、負傷5810人、合計7113人という大きさである。当初の見通しの死傷1万人に近づいてきていた。

後備の諸隊

 さて、ここで日露戦争の記録の中にしばしば登場する後備旅団、後備歩兵聯隊などについて説明しよう。この164高地はのちに「高崎山」と命名される。歩兵第15聯隊と同後備第15聯隊はどちらも高崎聯隊区で編成された部隊であるからだ。
 もともと常設されていた近衛師団以下、第12師団までが動員されて野戦師団になった。平時の師団は、経費を少なくするために現役将兵だけで作られている。そこへ予備役兵を中心した召集兵を集めて野戦師団の定員を満たすのだ。これが生きのいい現役兵が中心の戦闘力が高い野戦師団になる。
 これに対して、逆に少数の現役、予備役兵に多くの後備兵を中心にした後備諸隊がある。平時の現役歩兵聯隊には聯隊付として中佐が1名配当される。戦時の後備聯隊長の要員である。現役の歩兵第15聯隊から生まれたのが後備歩兵第15聯隊である。聯隊旗といわれた軍旗のデザインは変わらず、ただ旗の縁が現役聯隊は紫、後備聯隊は赤であった。
 後備歩兵聯隊は2個大隊編制、つまり8個中隊だった(現役は3個大隊)。そこで3個聯隊(24個中隊)で1個後備歩兵旅団になった。旅団番号は編成担任師団の番号を使った。だから、後備歩兵第1旅団は、後備歩兵第1、同第15、第16聯隊の3個聯隊で編成されていた。
 次回はいよいよ攻撃準備射撃の状況と工兵の緒戦を調べてみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和三年(2021年)1月27日配信)