特別紹介 防衛省の秘蔵映像

お詫びと訂正

 1月はたちまち過ぎ去って、もう2月です。2月は逃げるといわれるように、これまた早く過ぎ去る気がします。コロナ禍の始まりから、ほぼ1年間が過ぎていきます。皆さま、くれぐれもご自愛ください。
 さて、先週では恥ずかしい間違いをしてしまいました。陸自の方面隊ごとの施設団です。2016(平成28)年には北部方面隊にも施設団が復活しています。すぐに施設科の元自衛官の方々から指摘をいただきました。お詫びして訂正します。
 また、連載ではいよいよ第1回の総攻撃の準備砲撃と突撃についてとなりますが、取り急ぎ防衛省から公開されたユーチューブ映像について紹介いたします。昭和30年代、40年代、50年代と国際情勢や国内の経済・思想動向に挟まれて発展してきた自衛隊。その姿を映像で追いかけることも大切です。
□防衛省のユーチューブ映像の公開
 防衛省ではこのたび秘蔵映像の公開を始めました。どなたでもみられるユーチューブで観ることができます。今日はその第1回の見どころ解説をしたいと思います。まず、1957(昭和32)年、自衛隊発足から3年が経った記念式典などの映像です。
https://www.youtube.com/watch?v=JR7JtUGba6w

街の風俗や社会の様子

 9月26日、陸・海自衛隊音楽隊が都内を演奏行進、新橋、上野、浅草、新宿といった「盛り場」の様子を見ることができます。行きかう街の人々が懐かしい。女性の多くが和装です。男性も「サザエさん」のお父さんで分かるように、帽子をかぶっている人がふつうに見られます。車も、通称「ダルマ」、トヨタのクラウンが走っていて、都電の線路に懐かしさを覚えました。
 歴史年表を見ると、経済白書は前年31年に「もはや戦後ではない」という有名なフレーズを出して、経済復興がいよいよ進んで来た頃です。ちなみにわたしは1951(昭和26)年生まれで、このときは両親が「共稼ぎ(ともかせぎ)」で保育園におりました。今では両親が働き、子供が預けられるのは当たり前という時代です。当時は、まだまだ両親がそろって正規の仕事で働くというのは珍しいことでした。
 9月28日には青山青年会館で、一般の方への広報活動が行なわれています。ゲストとして、男性四重唱のダーク・ダックス、女優の河内桃子(かわち・ももこ)さんが出て、ここでも和装の女性と、詰襟の学生服、ダブルの背広といった姿が目につきます。
 映像から見る限り(もちろん、当時の防衛庁の編集ですから)、大きな反対運動も目立たず、むしろ手を振り、拍手する人たちが多かったようです。折しも、内閣官房調査では「青少年の愛国心や防衛意識形成」を強調する頃でもありました。戦後、10年あまり、再軍備だ、右旋回だ、対米従属路線だという大声の批判もありましたが、実は当時から自衛隊は決して日蔭の存在とだけでは切り捨てられないものでもあったのです。

明治神宮絵画館前の行進と装備

 記念式典は10月1日、信濃町駅近くの神宮外苑絵画館前で開かれました。観閲官は、ときの内閣総理大臣岸信介(きし・のぶすけ)氏でした。人員4200名、車輌150、航空機150機が参加しています。
 栄誉礼の音楽は、いまは更新された昔の勇壮なイメージが高いものです。儀仗隊は今も変わらずきれいな揃った動きを見せますが、サーベルは帯刀していません。オープンカーに乗った首相の巡閲は今も変わらず、ただし行進はずいぶん今と変わります。
 観閲行進の徒歩部隊は陸自中央音楽隊、続いて受閲部隊指揮官中野陸将、防衛大学校学生隊です。その後はM1ガーランド小銃を担う普通科部隊でした。あれれ、陸士の階級章のシェブロン(山形)が今と逆さまです。アメリカ軍と同じ着け方なので、陸士長の3本はまるで米軍軍曹のように見えます。その後ろに続くのは旭日の自衛隊旗。そうでしたね。連隊に交付される自衛隊旗は戦前陸軍軍旗の旭光の数を減らし(16条から8条に)、昭和29年に制定されました。
 自衛隊旗の後ろは少年工科学校生徒隊、空挺部隊が歩きます。どちらも担うのはM1ガーランド小銃です。空挺は軽い小銃装備かと思っていましたが違うようでした。
意外なのは、空いている左手の振り上げ方がひどく低いことです。まさにアメリカ軍式の行進でした。20年近い前のことですから時効ですが、ある陸将補がこのことを批判していました。「身体が小さいものだからといって、無駄に手を振り上げさせている」というのです。なるほど、部隊の精強さを示す統制がとれた行進は見ていて勇ましいものです。しかし、近頃の陸自の行進は腕を上げ過ぎ不自然になっていないかということでしょう。
 海上自衛隊音楽隊は高らかに「軍艦行進曲(マーチ)」を演奏して登場します。続いて戦前の帝国海軍の伝統を引き継いだ16条の旭光の「自衛艦旗」が行進しました。そうして航空自衛隊員の徒歩部隊です。しかし、全員が武装していません。通常の一種制服での行進でした。

車輌部隊の行進、マニア必見!

 婦人自衛官部隊がジープに乗って行進しました。いまは女性自衛官といわれていますが、当時は婦人警官(ふけいさんと愛称された)と同じく、婦人自衛官です。このときは、陸自だけでした。続いて今も使われる行進曲で機械化装備が進みます。
 おお、と驚いたのは先頭が施設科(工兵)部隊だったことです。まず、モーターグレーダー(路面を均〔なら〕す車輌)、続いてトレーラーに載せられたブルドーザーやバケット車でした。それからいよいよ野戦特科(砲兵)の牽引された火砲です。クローラー(キャタピラー)付きの牽引車につながった105ミリ榴弾砲M1A1、155ミリ榴弾砲M1A2、155ミリ加農M2といった米軍供与の強力な火砲群でした。
 航空部隊はヘリコプターH19でしょうか。そして固定翼はL19A/Eかと思えます。いずれも陸自航空の初期を切り開いた懐かしい機体ばかりです。
 お楽しみは特車(戦車)部隊の様子。軽戦車M24チャ―フィー、そして中戦車M4A3シャーマンの登場です。ピカピカに磨きあげられ、砲塔には大きく日の丸が描かれています。この後には、新橋から昭和通り、池袋を通って川越街道を行進し、練馬駐屯地まで戦車部隊は走りました。
 実は数年後、わたしはこの車列を亡父といっしょに観に行きました。小学校の中学年ですから昭和34年頃でしょう。池袋から川越街道を走る父の運転する車で追い抜きながら、開けた車窓から見上げながら手を振ると、隊員さんがみんな笑顔で手を振り返してくれました。ひどく嬉しく、頼もしく思ったものです。

空自の展示と海自の観艦式

 同じころ、空自は羽田空港で機材の展示と体験飛行を行なっています。F86Fセイバー戦闘機と輸送機のC46が映っていました。一般の方を迎えて体験飛行に飛びあがるC46、見応えがある映像です。それにしても羽田空港が閑散としていて時代を思います。
 翌日10月2日には、羽田沖では海自が戦後初の観艦式を行なっていました。観閲官は警備艦「ゆきかぜ」に乗り、東京湾内を巡航します。この「ゆきかぜ」は、大東亜戦争の幸運艦、駆逐艦雪風の名前を継承しました。この艦は、1953(昭和28)年度計画で、海自が発足後に初めて建造した大型護衛艦です(「はるかぜ」型)。その頃は甲型警備艦といいました。
 基準排水量は1700トン、全長106メートル、最大幅10.5メートル、蒸気タービンを2基・2軸、出力は3万馬力、速力は30ノットというものです。兵装はすべて米海軍からの供与された、5インチ(127ミリ)単装砲3基、40ミリ4連装機銃2基、ヘッジホッグ2基、K砲8基、爆雷投下軌条2条、乗員は240名でした。
 ヘッジホッグは対潜水艦戦闘用の投射爆雷、同じくK砲も潜水艦対策です。現在では見られない爆雷投下軌条も珍しい。艦尾にあった爆雷を落とすレールです。巡航するゆきかぜ艦上からは、舷側に平仮名で艦名を書いた貸与されたPF(パトロール・フリゲート)や、警備艇(LSSL)などなど、艦艇ファンには見逃せません。
 また、翌日、3日には東京港祭りにも4隻の艦が参加した様子も観られます。時代だなと思わされるのも、護衛艦に乗り込むのに和装の女性が多いことです。懐かしい子役女優の小鳩(こばと)くるみさんが1日艦長を務められています。
 長い紹介になりました。皆さまのお声をお待ちしています。映像から観ただけのわたしの曖昧な機・器材の名称についてなど考証のお便りがあれば嬉しいです。
(あらき・はじめ)
(令和三年(2021年)2月3日配信)