陸軍工兵から施設科へ(24) 広軌と狭軌の話

はじめに

 ウクライナ情勢はますます混迷を深めてきました。そういう中で、わが国の核兵器の米軍との共有や、防弾チョッキ、鉄帽、迷彩用のバラキューダなどの物資送付が話題になっています。これらについての反応がまた興味深いものがありました。
 わが国は「非核三原則」を国是としているということから、某野党の党首は「そういうことを考えるだけでいけないことだ」と言っています。やはり、彼らの根源にあるのは思想統制であり、優れた者だけがリーダーになれるという思い込みです。そういう人たちが生まれることは驚くことではありませんが、権力をもたせることだけは止めるべきだと思います。
 共産党も某政調会長の女性が、いったん認めたものの、すぐに党内で異論が出たためか「軍需品の供与は紛争当事国への武器供与にあたる」とたちまち意見を変えました。これもかの政党の思想統制の厳しさというか、彼ら彼女らの屁理屈でもなんでも主張を通すといった体質がうかがわれます。
 何を考えるのも自由、議論をするのが大切という民主主義、自由主義の根本原則を認めない人々、その存在は決して珍しいわけではありません。両方の政党の支持者も10人に1人はいると考えると恐ろしくもなります。

ゲージの起こり

 お若い読者もおられることと思い、工兵の軽便鉄道や鉄道兵の歴史ばかりではなく、鉄道そのもののお話をします。国際標準軌という見方がありました。エンジン(機関車)が貨車や客車を引っ張る営業用鉄道の最初は英国のスチブンソンが始めたといわれます。その線路の幅が、1435ミリ(4フィート8インチ1/2)だったということです。
1フィートは12インチですから8インチはちょうど2/3になるのでキリがいいのですが、1/2インチが半端です。これにはいろいろな説があるようですが、カーブの時にゆとりがあるように少し広げたという説が有力だといわれています。
 この標準軌以外の各国の主なゲージは次の通りです。マレーやビルマ、タイなどはメーターゲージといわれる1000ミリメートル(約3フィート3インチ)、ロシアやフィンランドの1524ミリメートル(5フィート)、1600ミリメートル(5フィート3インチ)はオーストラリア、スペイン・ポルトガル・インドや南米の一部に見られる1676ミリメートル(5フィート6インチ)などがあります。
 もちろん、わが国の1067ミリメートル(3フィート6インチ)が珍しいかというとそうではありません。フィリッピンやインドネシア、ニュージーランド、ノルウェー、南米諸国、アフリカの各地、インドやオーストラリアの一部などにもあります。

狭軌は準山岳鉄道だった

 このように狭軌(標準軌よりも狭い)を採用した国は、みな山が多い地形なのです。広軌の国々はたいていが平原の広がる地域でした。山岳鉄道という言葉もありますが、急な勾配を越え、長大なトンネルを通り、多くの大小の川に橋を架ける準山岳鉄道といっていいかと思います。
 鉄道技術史に詳しい友人によると、標準軌ではカーブするときには最低300メートルの曲線半径を必要とするそうです。ところが、狭軌では最高でも時速40キロメートルなら半径は100メートルでよいと教えてくれました。
 ところで世界最大の狭軌路線をもつのは南アフリカ共和国だそうです。もともとアフリカ大陸を南北に貫いてエジプトから南アフリカまで鉄道を造ろうとしたのは一大植民地帝国だった英国だったようです。本来なら、輸送力といい、北アフリカの沿岸国に合わせた標準軌が望ましかったのですが、問題は南アフリカにありました。
 海岸から標高1000メートルないし1500メートルにも達する台地が切り立っていたのです。これを鉄道が登り切るには、どうしても小さなカーブを連続させなければなりません。そこでやむなく、3フィート6インチ(1067ミリ)を採用することになりました。英国では今でも「ケープ・ゲージ」と呼ぶ人もいるそうです。ケープタウンのケープでもありましょうか。
 機関車マニアの方にはよく知られているでしょうが、南アフリカ共和国の鉄道はガーラット型といわれる機関車が多かったところです。2台分の機関車の走行装置、つまりシリンダー、フレーム、動輪やロッドの部分を1つの大きなボイラーの前後にボギー台車のように取りつけたものでした。長所は急カーブに強いことで、車輌重量も分散できて、細い、軽いレールの上でも強い牽引力が出せます。わが国ではこれは発達しませんでした。

鉄道の発展は軍用優先から

 わが国の鉄道の発展期はというと、いろんな意見が出るでしょう。そのいずれも十分に説得力がありますが、わたしは明治20年代後半、日清戦争(1894・明治27年)の頃だろうと思います。それはそれまでに、幹線が全国の各師団や歩兵聯隊の所在地を通るものになったということからです。
 1890年代以降、軍隊は大陸を戦場にするという大方針を立てました。外征軍の出発地は広島県の宇品(うじな)になります。各地の聯隊から宇品までどれほどの時間で移動できるかが最大の課題になりました。日露戦争(1904・明治37)年頃には、第1師団(東京)の部隊は50時間で、青森県の弘前第8師団は94時間かけて宇品に着きます。
もちろん、東海道線・山陽線を使ってのことです。途中には難所がいくつもありました。中でも「天下の険」と歌われた箱根連山をどう越えるかが課題でした。丹那トンネル(熱海から三島)は昭和9(1934)年の開通ですから、明治・大正・昭和の初めまでは東海道線は今の横浜・小田原・三島とは違っていました。
神奈川県の国府津(こうづ)から汽車は北に進路を変えて松田に向かいます。松田から山北を抜け、急勾配を機関車は喘ぎながら登り御殿場へ抜けました。これが今はローカル線になった御殿場線(国府津と沼津を結ぶ)です。わたしが子どもの頃には、国府津には大きな扇形機関庫があって、大型機関車D52が並んでいました。また、今はすっかり寂れた山北駅にも大きな機関庫があったものです。

京都と大津を結ぶ

 新橋(当時の東京駅)から横浜(現在は桜木町)までの鉄道開通は明治5(1872)年のことでした。政府は主要幹線をすべて官営にすると方針をもっていました。鉄道の建設はなんといっても殖産興業、中央集権にもっとも有効だと認識されていたからです。東西両京を結ぶ路線は何より重要とされていました。しかし、問題は財源がないことでした。
 明治維新の総仕上げともいえる西南戦争(1877年)が終わりました。翌年4月、内務卿大久保利通の建議で起業公債を財源として、京都-滋賀県大津、滋賀県米原-福井県敦賀の間の建設費と東京-群馬県高崎間の建設費を調達することにします。
 京都と大津の間の線路は1878(明治11)年8月に始まりました。その距離は英国風に11マイル26チェイン(約18.2キロメートル)です。翌々年の7月15日には営業運転を始めました。
 さて、その経路ですが、いまの東海道本線とはまったく違います。京都から南に、現在の奈良線を通って稲荷(いなり・現京都府伏見区)の先で北東に向かい大津に抜けました。当時の大津停車場は、現在の浜大津駅になりました。現在の大津駅より琵琶湖畔に近いところにあります。逢坂山(おうさかやま)隧道(ずいどう)は日本人による初めての手彫掘りトンネルとして有名です。
 次回は、陸軍が要求した中山道コースについて調べましょう。
 
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)3月9日配信)