陸軍工兵から施設科へ(4) 市ヶ谷台に士官学校が生まれる
ご挨拶
冬が近づいてきました。人と出会う機会が減り、行事や会合も縮小され、ずいぶん暮らし方が変わった方が多いと思います。わたしも例外ではなく、外食することは減り、元から外出も少なくなりました。マスクをすることがいつものことになり、息苦しさにも少し慣れてきました。
心配なのは人の心です。わたしたちはコミュニケ―ションをとって人と生きています。コミュニケーションの本旨とは、情報と感情の交流、共感だという指摘がありました。情報交換や発信はネットでもできて、不自由はありません。ただ、ナマな感情の共有はとても難しい。飲食を共にすることで、他者への寛容度が広がるのも事実です。
宴会や、友人を自宅に招いての交流が不足しています。それが飲食業界の不振につながり、雇用の機会も減らしているのだと今更ながら気付いています。若いころからお世話になってきた横浜の居酒屋が小さくなりました。伊勢佐木に本店があり、支店が横浜駅前に2軒ありました。いまは伊勢佐木町店と駅前店が1つ無くなっています。
残された1店だけを応援しています。
陸軍士官学校発足す
兵学寮の傘下にあった教導団が独立する。教導団は下士を養成するところだ。1873(明治6)年8月13日のことである。つづいて同20日、戸山出張所(現・新宿区戸山)が設けられ、全軍隊の教育訓練を統合研究する戸山学校に翌74年に改称された。
士官学校の独立は74(明治7)年11月2日である。次に幼年学校が兵学寮から離れて陸軍省の直轄となって独立する。翌75(明治8)年5月9日のことである。同日、戸山学校も兵学寮から離れた。こうして、その日、伝統ある兵学寮は廃止された。
「仮」士官学校のことも触れておかねばならない。兵学寮の管轄下に士官学校があった1873(明治6)年10月4日に「非職士官」104名を入寮させたという。非職というのは、官をもっているが補職されない立場を非職といった。フランス式の導入を促進するためである。12月17日には、「仮士官学校」という学校を別につくり、教導団の優秀な者を入学させて速成だが士官教育を行なった。次に全国の各隊から士官生徒を採用し、歩兵93名、砲兵54名、工兵10名を急いで教育した。これが二期生であり、先の一期生も士官学校卒業であるけれど、これを正式な卒業生として数えることはない。
ところで、士官とは当時、「尉官」をいう。佐官は「上長官」といった。律令古代官制に由来する言い方である。前にも書いたが、階級名称については議論があり、古代の武官の官名を復活することにした。
近衛府の長官の將、衛門府の次官である佐、兵衛府の判官である尉である。これらを当初、将官は勅任、佐官は奏任、尉官を判任としたが、列国の制度を考え、尉官も奏任とされた。外国のNCO(信任状をもたない士官)にあたる下等士官は、やはり「軍曹」という言葉を古代兵衛府から採った。下等士官、下士官は大臣に任免権がある判任官になった。
士官学校の独立
1874(明治7)年10月27日、陸軍士官学校条例が制定された。同年11月2日に正式にスタートする。ここから陸軍士官学校は66年の歴史をもつことになった。校舎は現在、新宿区市谷本村町にある防衛省の位置にある旧尾張藩邸である。総武線市ヶ谷駅から徒歩10分、同じく四谷駅からも徒歩10分の位置になる。
12月25日には、生徒たちがここに入った。西には富士山がよく見える。市ケ谷台と今も言われるように、小高い丘の上にある。陸軍士官学校は、1941(昭和16)年までここに存在した。
ところで、市ヶ谷決定についての秘話がある。それは、上野台(現、東京都台東区)がいったん候補地に挙がったことだ。陸士出身の軍制史の泰斗、松下芳男によれば、初代の校長曽我祐準(そが・すけのり)少将が野津鎮雄大佐(のち中将)と御雇教師ジュルタン工兵大尉(フランス陸軍)を連れて、上野まで出かけたという。
そうしてみると、近くにある下谷(したや)という土地が気になったらしい。現在のJR上野駅の北東部にあたり、上野台といわれる高地の下になる。そこから下谷という地名が生まれた。いまもJRの山手線、常磐線、京浜東北線、高崎線、宇都宮線、東北・上越新幹線などは台地の下を大きく回って北に進んでいる。
この下谷は、いまも旧い大正・昭和期の雰囲気を残すところだが、明治初めの当時は町屋が密集し、はるか向こうには官許の吉原遊郭が望めた。これでは士官生徒の育成にはふさわしくないということから、市ヶ谷台に決まったという。
生徒少尉
1875(明治8)年1月28日から2月27日までの間に、数回にわたって生徒158名を入学させた。これを士官生徒第1期生という。この修学期間は兵科によって異なった。歩兵と騎兵は2年、砲兵と工兵は3年だった。歩兵と騎兵は卒業と同時に少尉に任官する。ただちに部隊に赴任した。
対して砲兵と工兵少尉は、さらに1年間の在校が必要とされた。明治9年には、それでも修学が不足ということから、歩・騎兵科は3年、砲・工兵科は4年とされたが、1881(明治14)年にはさらに延長された。砲・工兵科は5年となった。このことは、後に砲・工兵科将校の義務教育となる砲工学校普通科課程の前身になると松下博士も指摘している。
在学中に西南戦争に出た1期生
この士官生徒第1期生の中には、在学中に起こった西南戦争(1877年2月)に出征した人が多かった。初級幹部の不足のために、急きょ任官し部隊に赴いたのだ。7月3日に任官した木越安綱(きごし・やすつな、明治37年中将)は日露戦争では歩兵第23旅団長兼ねて韓国臨時派遣隊司令官として先陣をきって大陸へ渡った。第5師団長としても軍功をあげた。
7月5日に任官したのは、石本新六(いしもと・しんろく、明治37年中将)工兵少尉である。陸軍築城本部長、陸軍次官と進み、1911(明治44)年には陸軍大臣となった。7月18日任官組からは同じく工兵山根武亮(やまね・たけすけ、明治39年中将)や砲兵伊地知季清(いじち・すえきよ、明治33年少将)がいる。いずれも西南戦争を生き延びて、欧州へ留学したエリートである。
また、エリートと言えば、東條英教(とうじょう・ひでのり、明治40年中将)がいる。教導団から選ばれて進学した1人である。戦術や兵要地誌について造詣が深く、陸軍大学校1期生の首席卒業だった。公刊日清戦史の編纂にも力を注いだ。ところが、日露戦争の緒戦で旅団長として不手際を行った。現場の実員戦闘指揮において失態があっては、許されるものではなかった。戦後の記録には、「病を得た」などと粉飾されているが、実際は「机上の戦術の神様だった」という悪名を受けて中将にようやく名誉進級したのである。
彼の子息が、陸士17期の東條英機(とうじょう・ひでき)大将という昭和史、大東亜戦争期の首相、陸相、参謀総長だった。
このときの第17期というのは、プロシャ式の士官候補生時代の期別である。士官生徒時代は学校からすぐに少尉に任官したが、制度改革で陸士に入校するには隊付(たいづき)といわれる兵と下士官の勤務の経験が必要とされた。その17期生である。資料に見られる陸士の期別は注記がない以上は、この候補生時代からになる。また奇しくも、この士官候補生の期別は、その生徒の誕生年が明治の年次と一致することが多い。覚えておくと便利である。東條英機もまた、1884(明治17)年12月30日生まれだった。
日露戦争の時には英機は士官学校生徒だった。卒業は1905(明治38)年3月に卒業し、翌月に少尉任官、近衛歩兵第3聯隊補充大隊付となった。戦争が終わるまで戦地にでることはなかった。在学中に、尊敬する父が戦場の失策で「戦意不足」とされて更迭されては、彼の心に大きな傷が生まれたことは容易に想像がつく。しかも、彼の父も彼も、岩手県の出身であり、長州閥による陰謀と受け止めても無理はない。
第1期生徒の戦死者は32名も出たと松下博士は書いている。秋元書房の「陸軍士官学校」の名簿では、戦死・戦病死者として34名があげられている。なお工兵少尉に任官したのは15名とある。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)11月4日配信)