陸軍工兵から施設科へ(23) 敵の鉄道打ち壊し
はじめに
ウクライナへの侵攻が始まりました。不審なのはウクライナ軍の抵抗がまるで報道されていないことです。ああ、ウクライナは情報戦でも負けているなと思います。ロシア軍のヘリや航空機がずいぶん低いところを飛んでいる映像を観ました。携帯地対空誘導弾ももってないのかなと思います。
それと戦車の数の多さです。さすが大陸国は違いますね。その点、わが国は陸続きではないので、ああした大戦車群に蹂躙されるということはないのでしょうが。状況を見守り続けるしかないようです。心配なのは原油の高騰が起きて、連動する物価の上昇でしょう。国際情勢の変化はどうにもなりません。
工兵志願の剛のもの
明治37年発行による「日本陸軍」という歌には工兵のことを歌って「敵の鉄道打ちこぼし」という詞が入っています。工兵の兵科の歌では、たしかに「鉄路爆破」という言葉がありました。しかし、実際には敵が爆破した線路や橋を復旧し、あるいは鉄路を敷設して戦勝に貢献したことのほうが、はるかに多かったと思います。
また、陸軍士官学校の若者が歌った「工兵志願の剛のもの」という歌を紹介しましょう。まず、「顔の色はセピヤ(焦げ茶色)とか、どこから見ても土方(どかた)然」、いまは土方などという言葉は使いませんが、もっぱら現場の工事をする人たちのこと。今なら建設作業員のことです。若い将校は先頭を切って、炎天下でも穴を掘り、木を倒し、地面を突き固める・・・そういった姿です。
航空についてもふれていて、「ファルマン式やグラデ式、山田式がどうした」という言葉が四番にあり、山田式とは軍用気球や飛行船を開発した山田猪三郎氏の開発したもののことでしょう。「架橋工事に数学の摘要ひろげて首ひねる」とか、「三角解析重学も一足行けばアカデミー」などとさすがに当時の理系バリバリの若者らしいユーモアでした。
時代をうかがわせるのが、「昇進早い得あるとうまいところへ気がついた どうせ名誉の少佐なら早く大尉になるが良い」という8番です。大正時代、兵科の階級ごとに定員があり、工兵は他兵科に比べて早く大尉になれたといいます。しかし、軍縮期でもあり少佐に進んで予備役編入が普通だったのでしょう。どうせそうなら歩兵や砲兵より早く大尉になれた時代もあったようです。
鉄道と工兵
鉄道の作戦行動への貢献は大きいものでした。一列車で運べる物資・人員の量は自動車中隊数個分、あるいはそれ以上に相当します。自動車による輸送は天候や、道路の状況に左右されることが大きかったのですが、鉄道はあまりそういったことに気をつかわないですみました。また、機関車への補給も自動車よりはるかに簡単でした。
ただし、線路は固定されているために、いったん攻撃されると、機動力を発揮して退避したり、隠れたりすることがなかなかできません。また、線路や橋梁、トンネルなどを破壊されるとその復旧にはたいへんな手間がかかりました。
鉄道資材の所要量がはんぱなものではありません。鉄道隊は一般の野戦工兵と異なり、特別な建設工兵といわれます。建設現場はいまでも多くの資材で溢れていますが、鉄道隊の作業現場も同じです。橋を架けると言っても、荷重は自動車ならせいぜい数トンの自重と、それに物資を加えても10トン未満でした。
それが鉄道となると機関車だけで数十トンという重さです。貨車も積載量だけで15トンが下限であり、それらを支える橋梁は膨大な資材を必要としました。しかし、それはほとんど現地調達をすることになっていたのです。鉄鋼材やセメントなどはほとんど集められず、砂利、木材、軽量の鉄線などで工夫して作業を行っていました。いまも残る記録画像を見ると、中国大陸の戦闘で鉄道が果たした大きな役割がわかります。それを支えた工兵、そこから分かれた鉄道兵の偉業が見えてくるのです。
鉄道のゲージ
鉄道大隊が初めて編成されたのは日清戦争後の1896(明治29)年のことでした。翌年には軍用鉄道材料整備について審議されました。まず、決めなければならないのは、鉄道のゲージ(軌間)です。ゲージとは車輪の間の距離をいいます。並んだ車輪の中心を測って線路の幅も決まるのです。
広いものを広軌といい、狭いものを狭軌といいますが、わが国は1872(明治5)年に新橋-横浜(桜木町)に開通した路線のゲージは1067ミリでした。なんで、こんな半端な数字だろうと思っていましたが、英国式の表記では3フィート・6インチです。つまり、1フィートは12インチですから、ちょうど3.5フィートなのです。世界的には現在も1435ミリ(4.71フィート)が主流で、わが国の一部の私鉄や東海道・山陽新幹線などがそれにあたります。国際標準軌ともいわれ、より広い鉄道を広軌といい、狭いものを狭軌と言ってきました。
ゲージの問題は鉄道設備全体に影響を与えるので、大変、重要なものでした。線路を敷く路線のことを軌道敷きといいますが、地を整地し、地面を固める幅、深さ、枕木の規格などなど。さらには、プラットフォームや駅の面積、並行する鉄道電線、トンネル、橋梁などなど。当然、狭い方が経費は少なくなります。
明治の初め、鉄道建設を担当したのは大隈重信でした。大隈は肥前佐賀藩の出身で、その優秀さで新政府の重職を歴任します。鉄道建設にあたり、彼の頭の中には新政府の財力のことしか頭にありませんでした。英国人技師にゲージを問われて、深いことも考えず、とにかく安く建設したい、わが国は狭いのだからということから、1067ミリという狭い数字を選んだそうです。大隈の回顧録にもそう書いてあります。
大隈という人は早稲田大学をつくったことでも知られますが、たいへんバランスがとれた人なのでしょう。回顧録も率直に、自分の先見の明がなかったことを悔やんでいたそうです。
まず、輸送量が少ない。貨車も客車も規格が小さくなりますから積載量も減りました。また、中国大陸に兵を進めれば、内地の車輌をそのまま持ち込むわけにはいきません。中国大陸の鉄道は欧米資本で建設されたので、ゲージは1435ミリの標準軌間です。異なった規格のレールは使えません。陸続きの欧州陸軍には必要ない苦労が、島国の鉄道隊にはありました。
工兵の軽便鉄道
工兵隊が使う軽便鉄道のゲージは2.4フィート、つまり600ミリメートルにしました。英国からサドル・タンク型機関車2輌、3トン有蓋貨車(屋根付き)3輌、無蓋貨車16輌を買い付けます。鉄道先進国である現在から見れば信じられないことですが、当時はこの程度のものも輸入に頼りました。
強力な蒸気圧に耐えられるシリンダー(気筒)や、駆動力を与えるピストンやロッド、真円形に車輪を切削する装置や技術、みな輸入に頼った時代でした。
サドル・タンク型というのは石炭庫や水槽が缶の両側に振り分け荷物のようにあるから名付けられました。サドルとは馬の鞍のことです。タンク型ですから、炭水車を引っ張るテンダー型のような大型ではありません。レールのことを軌条といいますが、全長2マイル(約3.2キロ)分を発注し、納入されました。
1900(明治33)年には、双合型機関車5輌、炭水車2輌、5トン積載の貨車20輌が鉄道大隊に配備され、ドイツ式の鉄道隊の訓練が始まります。双合型とは、2つの機関車が一体化して、前にも後ろにも前面があるような機関車です。軍隊が敷設する軽便鉄道には終点ごとにターンテーブル(転車台)を造るゆとりはありません。どちらを前にしても進めるという便利な機関車です。
日露戦争が集結した1905(明治38)年には、さらに双合機関車が登場します。天野工場、日本車輌株式会社、汽車製造株式会社などの国産貨車、八幡製鉄所製のレールなどの国産品が登場します。同時に手押し鉄道用の材料等が輸入されますが、これは機関車使用の本格的軌道の前に進む、もっと簡単なトロッコのようなものです。なお、多くの記述は、佐山二郎氏の『工兵入門』(光人NF文庫・2001年)にお世話になりました。
次回は台湾での手押し軽便鉄道の実用について調べましょう。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)3月2日配信)