陸軍工兵から施設科へ(66) ベトナム戦争と60年代

新年のご挨拶

 謹賀新年 遅くなりましたが、今年もよろしくお願いします。いつもご愛読いただき、読者の皆様には感謝しかありません。コロナについても大きな変化がありました。毎日のテレビの感染者数の報道も、いい加減にしてくれという声もあがっています。同感です。かたや、中国からの入国者に歯止めがかからない。水際対策強化と政府はいいますが、今度は中国からの訪日客の医薬品の爆買いが始まっているとか。
 アンバランスな大国があるものです。軍備に金を注ぎ、富裕層もいるのは分かります。自動車産業は高価な新型車を出す。台湾への侵攻も疑われ、航空母艦も造りだす。ところが、その国から来た観光客がごく普通の風邪薬や解熱剤を買い占めてゆく。どう考えても、わたしたちが「常識」とする近代国家、「市民国家」ではありません。
わたしたちは高齢になれば後の世代からの援助を受けることは当たり前だし、高度な医療も保険制度のおかげで負担が少なく受けられます。そうした「常識」はいつからできたのか、そんなことを考えているところです。

70年代の団塊世代は

 昭和1ケタの時代、つまり1926年から34年までの社会の様子を思います。短かった大正時代(1912~26年まで)が終わり、社会は不況で満洲に暗雲がたれて、とうとう張学良軍と武力衝突が起きました(1931年)。
あっという間に満鉄線警備のための関東軍は満洲を占領し、わが国は国際的非難も受けました。国際連盟からの脱退も1933(昭和8)年のことでした。
 昭和1ケタの時代は今よりもっと「人の死」が身近でした。40歳までに100人のうち38人が亡くなっています。50歳を過ぎれば、同級生の中で生きている人は半数になりました。もちろん、これを安易に戦争のおかげだろうなどと思ってはいけません。昭和1ケタ時代は、1905年の日露戦争から20年くらい経ったころです。戦死や戦傷による死者はむしろ少なく、多くの人は病気で亡くなっているのでした。
 つまり、20代、30代で病気で亡くなる人が多い社会です。40代にもなれば職場でも年長者、責任も多く負わされたでしょうが、周囲の尊敬も受けています。戦前の平時の陸軍将校の平均寿命は47歳くらいで、海軍将校は45歳という数字も見たことがあります。
 では、1945(昭和20)年の敗戦後ではどうなったでしょう。よく語られる「団塊の世代」を例にとりましょう。わたしより少し先輩であられます。1947(昭和22)年生まれは約268万人、翌年も同じく268万人、49年には同270万人、50年は234万人、わたしが生まれた51年は同214万人とやや減少します。52年が同201万人、53年には同187万人、54年には同177万人、55年が同173万人となりました。47年から50年生まれまでの方々は合計で1040万人ということです。最近、発表された昨年、2022年の出生数が約80万人でした。
1960年代は子供が多かった時代です。東京オリンピックの開かれた1964(昭和39)年には「団塊の世代」は高校生から大学生だったことになります。
 この方々は40歳では100人に4人が亡くなっているそうです。1987年(昭和が終わろうとする)になっても4%しか死亡していません。ただし内訳をみると、4人のうち2人の方は幼年期(昭和20年代)の死亡です。
疫痢だ、ジフテリアだ、破傷風だというように、感染症による幼児死亡が1950年代には多かったのでした。では残る2人はどうかというと、半分は事故や自殺、残りの1人は大人になってからの病死です。この変化は大きなものでしょう。昔は死病といわれた結核も怖くなくなりました。
 60年代後半から70年代初め頃、このおよそ1000万人の若者は学び、働き、社会に大きな活気を与えてくれました。

「何でも見てやろう」

 小田実氏を覚えていますか? 氏はフルブライト基金によってアメリカに留学した若い学生の1人でした。1959(昭和34)年秋から翌年の4月まで西欧、南欧、北アフリカ、イラン、インドと旅をします。当時、流行したのがアメリカ青年による『1日5ドル世界旅行』という本でした。それにならったものと彼も書いていました。
 ただし、彼の旅の予算は「1日1ドル」でした。1ドルというのは当時の固定相場によれば360円でした。わたしが子供の頃は、まだそんな時代です。大卒の初任給が1万2000円で、自家用車は日産が1959年に売り出したブルーバードが1000ccのスタンダードが64万円でした。おおよそ現在の購買力にすれば1ドル360円が20倍になったとして、1日7200円でしょう。ブルーバードは1300万円ほどになります。今でも1000万円超のベンツに乗れる階層がいるのと同じです。
ついでにいえば、国民車構想によって1961年に発売されたトヨタのパブリカは39万円でしたから、今ではおよそ780万円になります。ローンを組むには頭金が30%以上で残金は24カ月以内、この「月賦販売」があたりました。
1960年にはわが国のGNP(国民総生産)は約16兆円、国民一人あたり17万円、ドル換算で470ドルになりました。ギリシャやキューバに並んだといいます。
 小田実氏によれば、当時の1ドルは外国では実感として100円くらいの購買力だったといいます。すると、今でいう2000円です。さきほどの7200円とはだいたい3倍半くらいの違いがあります。ここに当時の経済成長のカギがあると経済史の本には書いてあります。
 また、当時のわが国は「ビザ相互免除協定」を各国から結んでもらっていませんでした。だから入国ビザを各国ごとに出してもらわねばなりません。その発行料が5ドルから10ドルでした。どうしても厳しい旅になりました。
 「アメリカを見たくなった」と氏は書いています。それだけだったと言いますが、彼が帰国後1961年に出した『何でも見てやろう』はベストセラーになりました。これが当たった理由は世界に目を向けるという大胆さが好まれたのでしょう。核の傘の下で平和を祈り、国内だけに目を向け、ひたすら生活を豊かにしようとしてきた戦後の日本人。それが1人の若者によって「いま世界はどうなっているのか」に目を向けさせられたのです。
 小田氏はたぶん、南アジア各国と西欧各国との違いに圧倒されたのでしょう。アメリカはなおさらでした。文化的には西欧の支店、そうして豊かさでは大きく欧州をしのぐ経済大国です。それを当時の中進国(今風では発展途上国と言い換えますが)にしか過ぎなかった国のそこそこ中流階層の大学生が見て歩いたのでした。彼はのちにアメリカ帝国主義を糾弾する立場になります。ベトナム戦争ではひたすらベトナム側に立ちました。

こだわった若者たち

 団塊の人たちは「おしゃべり」でした。それは幼いころに受けた学校の「特別教育活動」、なかでもホームルームのおかげでしょう。ここではアメリカ型民主主義が真似られました。勝つのは正論であり、結果で生まれるのは多数決でした。1学級が55人とか60人という小さな社会です。大きな声を出し、屁理屈でも主張し続ける、そうすれば強者になれる、そういった習慣をつけた人たちと言っては怒られるでしょうか。
 「こだわる」ことが好き。すぐ上の先輩たちと付き合ってきたわたしはそういった印象をもっています。「こだわる」とか「こだわり」は本来は頑迷、かたくなな自分の主張を表すマイナスのイメージがあった言葉です。それをあたかも正論を堅持し、少数派であっても主張が大切だというプラスイメージの言葉にしようと彼ら、彼女らはしました。少数の異見でも大声を出して主張し、行動することで自分を大切にするといった気分でしょう。
 自衛官が迷彩服を着て行進すると、反対の幕を掲げたり、戦争を思わせると合唱したり、安倍元総理の国葬儀を川柳で茶化したりするのもそれです。あきれたのは防災訓練で自衛隊が炊き出しをすることも反対する、それでいて救援物資は要求する、こういった人たちはどうも映像や画像でみると団塊の世代の人に見えます。
 次回はベトナム戦争に対する当時の「文化人」や学生たちを見直しましょう。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和五年(2023年)1月18日配信)