特別紹介 防衛省の秘蔵映像(20) 冷戦崩壊間近の防衛計画─昭和63年映像─

昭和63(1988)年の映像紹介
https://www.youtube.com/watch?v=WPYztNS72Sk

はじめに

 いよいよ昭和が終わりに近づいてきました。昭和天皇陛下は波乱万丈の運命を生き抜いてこられていたのです。第1次世界大戦が終わり、軍縮・平和への希求が世界中で高まっていた時代に青年であられ、関東大震災の悲劇をご覧になりました。1926年に先帝陛下の跡に即位された後、波乱の戦前、戦中、そして未曾有の敗戦。奇跡的な復興。
 わたしが陛下を身近に感じたのは、1964(昭和39)年の第18回オリンピック大会のときでした。陛下の開会宣言は初めて聞く肉声で、「第18回オリンピアードの・・・」というお言葉に訳もなく感動しました。
 昭和の御代は翌年に終わるのですが、この年はどんな風だったのでしょうか。
 まず、内閣総理大臣は竹下登(たけした・のぼる)氏でした。氏は1924(大正13)年に島根県に生まれ、県会議員から1958(昭和33)年に衆院議員、要職を登りつめた方です。お若い方にはタレントのDAIGOさんのオジイチャンで知られているのではありませんか。消費税導入や「ふるさと創生」などの施策で有名です。防衛関係では、やはり対米関係の重視、レーガン大統領とも会談しています。
 社会全体では、依然としてソ連の脅威がいわれていました。しかし、景気の上昇傾向はあまり変わらず、私立大学の初年度納入金が平均100万円となりました。県庁所在地の最高路線価を国税庁が発表。なんと前年比、23.8%も上昇していました。慶応義塾大学はアメリカのニューヨーク州に海外駐在日本人の子供を対象にしたニューヨーク学院を設けます。わが国の高校の海外進出は初めてでした。
 世界最長の海底青函トンネル、瀬戸大橋が開通しました。青函連絡船は、これで80年の歴史を閉じ、宇部と高松を結んだ宇高連絡船も廃止されます。和食が健康に良いとされ、ファミレスにも和食のメニューが出るようになりました。禁煙への指向も高まります。中華街では薬膳料理を出す店が注目されました。健康に良いとうたわれた食品の中に、ヒ素や鉛が含まれていたことも判明。
 二世代同居より、「スープの冷めない距離」の別居が言われるようになりました。もともとは1948(昭和23)年に英国のシェルドン氏が作った言葉らしいのですが、わが国では「味噌汁の冷めない距離」になるということから東京都老人総合研究所が実験しました。結果は約2キロメートルということになりました。高齢化社会の進行が見えて来たのでしょう(「昭和家庭史年表」のコラムより)。
 横浜で国際博覧会が開かれました。いまの「みなと・みらい地区」です。そこに野外の道路としては初めて「動く歩道」がお目見えします。リニアモーターカーの展示などもあり、たいへん賑やかなものでした。
 羽田空港の国内線利用者が3200万人になりました。アメリカへ旅行するときに査証(ビザ)が不要になります。観光・商用目的の旅行者が増えて、行政事務の簡略化がアメリカから申し出られました。
 子供たちの間の流行ではローラースケートが目立ちます。アイドルグループ「光GENJI」の影響でした。

後方支援連隊の誕生と第7師団の増強

 そうした中でも、ソ連の脅威は依然としてつづき、国際関係も不安定。複数方面で紛争が起きる可能性があるとされ、米軍の来援が遅れることへの対応がいわれます。継戦能力の向上がいわれました。映像にも北鎮(ほくちん)師団といわれた第2師団(旭川)が一部改編され、初めての後方支援連隊が編成される様子が映っています。
 それまで師団には管区隊のころから輸送隊、衛生隊、武器隊、補給隊の職種(兵科)ごとのロジスティック(兵站)を主に担当する部隊がありました。輸送隊は輸送科、衛生隊も衛生科、武器隊は武器科、そして補給隊は需品科職種の部隊でした。それを一まとめにして、兵站を一体化して指揮するということから、後方支援連隊ができたのです。
 第7師団にも動きが出ました。3個の戦車連隊(第71・72・73)は4個中隊だったものが5個中隊編成に拡大されます。他の師団(第2・第5・第11)のすべてが、各1個普通科連隊が装甲車化されてゆきました。
 そうして、少し後の話になりますが、1991(平成3)年には本州以南の戦車大隊を縮小し、北海道へそれらを移す「戦車の北転事業」が行なわれます。

ジェット練習機T4の進空

 防衛庁は1981(昭和56)年4月に、これまでのT1、T33A練習機に代わる次期中等練習機(MTX)の提案要求を行ないました。9月には川崎重工が、三菱、富士重工の提案を押さえて採用されます。それに川崎、三菱、富士重、新明和、日本飛行機からも設計者が加わり、チームを編成し、生産も分担されることになりました。
 1984(昭和59)年4月から1号機の試作が始まり、合計6機の試作が行なわれ、1号機は翌年7月末に空を飛びました。12月には岐阜基地の航空実験団に納入され、後に加わった3機とともに、88(昭和63)年3月末まで実用試験を行ないます。
 6月28日に飛んだ量産型1号機は、晴れて浜松基地の第1航空団に配属されました。第1航空団では10月1日付で臨時T4教育飛行隊を編成し、年度内に10機が納入され、翌年には第31、その翌年に第32飛行隊を編成します。
 技術的には世界最先端といって問題なかったようです。純国産のF3-IHI-30ターボファンエンジンは推力1600キログラム、新複合材、損傷許容設計、デジタル・データバス、リング・レーザージャイロ姿勢方位基礎装置、機上酸素発生装置など、練習機としてはなかなか贅沢な仕様です。
 T4の導入とともに、T1で行なっていた第2初級操縦課程と、T33Aで行なっていた基本操縦課程を1つの機種でこなせるようになりました。つまり訓練生の飛行時間を短くすることができたのです。あわせてT2への移行がT33と比べて楽になったという指摘もあります。T2による戦闘操縦基礎課程の時間が減ったと言われます。
 主翼、胴体下にはハードポイントが5箇所も設けられ、ガンポッドや、標的曳航装置、ECMディスペンサーなども搭載できました。最大速度はマッハ0.9、航続距離約1300キロメートル。いまも曲技飛行チーム「ブルーインパルス」の使用機として目にしやすい傑作機でしょう。

基地防空隊と移動監視隊

 空自の装備品には陸自と共通のものが少なくありません。とくに基地防空隊の地対空ミサイルは同じものを使っています。それは師団・旅団の高射特科大隊に装備される81式短距離地対空誘導弾です。ふつう陸自では「短SAM(サム)」と呼んでいます。SAMというのは、Surface(地表)to Air Missile の略称です。
 現在、陸自には地対空ミサイルは射程の長い順に、中サム、短サム、近サム、Pサムと4種類があります。中サムは03(2003年制式)、短サムにはこの81(1981前同)と11(2011年前同)、近サムは93(1993前同)、Pサムは91(1991前同)のことをいいます。PはPortable(ポータブル・携帯)のことです。
 したがって、この88年の映像には、81式地対空誘導弾しか登場しません。この他に1963(昭和38)年から導入されているアメリカ製のホーク・ミサイルがありますが、この後継が03式中サムです。
 航空自衛隊は基地を防御するシステムを持たねばなりません。敵の航空攻撃を受けたら基地の機能は失われ、戦えなくなってしまいます。地域の師団の高射特科(砲兵)大隊から支援を受けたくても、もともと陸自高射は師団防空を任務とする。そこで自前の防空能力をもつ必要がありました。
 81式は純国産です。レーダーで目標を捜索します。すべての方位を見るためにレーダーを回転させます。航空目標を発見すると、射撃統制装置(FCSと略します)が敵味方を識別します。味方ならばそれを通報する電波を出し、敵は沈黙。敵と識別すると、レーダーは追尾を続け、射撃統制装置は脅威(危険)度を判断し、複数目標なら順位をつけて迎撃目標を判断します。
 ミサイルは赤外線パッシブ・ホーミング形式による空中ロックオン方式です。そのため指揮所(FCS)では、ミサイルを撃ってしまえば、他の目標に対応することが可能になります。つまり撃ちっぱなしです。超低空で侵入してくる敵が、機動性が高く、同時攻撃をすることが常識化した防空の現場では、命中まで1発ずつ面倒は見ていられないのは当然です。
 対空ミサイルは1つのシステムです。まず、レーダーを搭載したFCS車1台があります。車輌はいわゆるサントンハン(陸自の標準型の6輪トラック)。そうしてミサイルは2連装ランチャーを載せた2台です。合計3台で1個小隊となります。操作人員は4名です。
 ミサイル本体の長さは2.7メートル、直径16センチ、重量約100キログラムです。射高は3000メートル、射程は7000メートル、速度はマッハ2.4になります。採用時には国会で議論もされました。機動性がないとか、赤外線ホーミングでは目標が雲の中に入ったり、太陽を背にしたりしたときには目標を見失う、あるいはECM(かく乱用の電子妨害)に弱いといった欠点が指摘されたのです。現在では、アクティブ・レーダー方式に切り替わっています(64年度から本格的開発が始まりました)。

90年代の国際環境と自衛隊

 冷戦は突然の終わりを見せました。1987(昭和62)年にはゴルバチョフがソ連の指導者に就任、いわゆるペレストロイカ(再編・立て直し)政策を推進します。88年にはアフガニスタンからソ連軍が撤退。89(平成1)年には中国で天安門事件が起こり、90年には東西ドイツが合体、91年には連邦は解体されました。そうして湾岸戦争です。
 国内の政治状況でも社会党が政権に参加し、村山富市首相が自衛隊を容認します。自衛隊が国際連合平和維持活動、いわゆるPKOへの参加なども起こりました。かつては誰も考えていなかった状況が起きたのです。このような情勢の中で、1990年代の自衛隊の装備には、どのような特性が要求されたのでしょうか。
 しかし、兵器や装備品の生産は、過去のつながりから自由にはなれません。冷戦期、対ソ連軍からの持ちこしている装備や、新しい状況に対応しようとする装備がありました。言いかえれば、日本の領土上で、あるいはその近くで従来型の戦争を行なう装備と、日本から遠く離れた地域で、停戦監視や難民救援、治安維持などの活動を行なうための装備です。
 対ソ連軍でいえば、90式戦車とそれらに関連する施設器材、この63年版に出る次期支援戦闘機(FS-X)、E767空中警戒管制機、海自では「こんごう」型のイージス護衛艦などが挙げられるでしょう。海外派遣用では軽装甲機動車、高機動車、装輪装甲車などでしょうか。
今後の映像も期待できます。
(あらき・はじめ)
(令和三年(2021年)6月23日配信)