特別紹介 防衛省の秘蔵映像(21) エア・ランド・バトルの計画─平成元年映像─

1989(平成元)年の映像紹介
https://www.youtube.com/watch?v=e7kDD5iCqW8

はじめに

 北海道の演習場で、わが戦車と米軍歩兵が共同で演習を行なう様子が映ります。ナレーションは「空地同時攻撃」とさらりと言いますが、米軍の新しいドクトリンに基づいた戦い方でした。北海道に侵攻するソ連軍を、日米両軍が協力して海に追い落とす訓練です。
 空自には、アメリカから最新の地対空誘導弾パトリオットが導入されます。また、米国との協定で、新しい支援戦闘機の開発が決まりました。海上自衛隊も瀬戸内海と青森県の陸奥湾で掃海訓練をし、つまりソ連の原子力潜水艦へのデモンストレーション。
 この背景を考えつつ、映像を見てみましょう。

宇野短命内閣

 政権の主催者はリクルート献金問題で退いた竹下氏から宇野宗佑(うの・そうすけ)氏でした。ただし、短命内閣でたしか70日に満たない総理大臣です。宇野氏は滋賀県野洲郡守山町に1922(大正11)年に生まれます。実家は酒造業も営む旧家です。
 県立八幡商業学校(近江八幡市)、彦根高等商業(現滋賀大経済学部)から官立神戸商業大学(現神戸大学経済学部)に進み、文系学生の徴集猶予の停止から陸軍に入ります。経理部幹部候補生に採用され、満洲新京の関東軍経理学校を出て主計少尉に任官しました。敗戦でソ連軍に武装解除され、シベリヤに抑留されます。のちに、その体験談をつづった手記も発表しました。
 当時の典型的な進学コースの1つをたどっているところが興味深いです。中学ではなく商業学校に進む。そこから高等商業、商科大学へというレールにのっています。これが戦前の教育制度、いわゆるフォーク形になっているのです。
あくまでも原則ですが、商業に行けば高等商業、工業に進めば高等工業、農業であれば高等農林、師範学校からは高等師範。それぞれ、さらに進めば商科大学、工業大学、農業大学、文理科大学に進むとなっていました。中学から高校へ、そこから帝国大学各学部へという主流ではありません。
宇野さんは復員、帰還後、神戸大学に復学せず、中退してしまいます。そのため「学士号」をもたない総理などともいわれました。
 竹下内閣では外務大臣も務め、天安門事件(中国共産党が改革を望む国民を弾圧した事件)では制裁を発表する欧米諸国に反対し、「中国を孤立させない」という声明を出しました。のちに中国共産党の指導者江沢民(こう・たくみん)から感謝の言葉をもらったくらいです。

女性スキャンダルで失脚

 宇野さんの愛人契約問題には驚きました。サンデー毎日がすっぱ抜いたのです。神楽坂の美人芸者さんに「指3本(30万円か)」で関係を迫ったといいます。
ふつう、わが国のマスコミは現職総理の下ネタは扱わないという黙契があったそうです。それをサンデー毎日の編集長、鳥越俊太郎氏は敢然とそれを破りました。真相は不明ですが、わが国マスコミ各社は当初無視をしたようです。それがアメリカのワシントン・ポストなどの海外の新聞報道が大きな評判を呼んで、一気にわが国のマスコミも大騒ぎ。
宇野さんは文人の傾向があり、石原慎太郎氏とも親交が深かったようです。後継首班には海部俊樹(かいふ・としき)氏です。防衛庁長官は山崎拓(やまさき・たく)氏、政務次官は鈴木宗男氏(のちに新党大地を立ち上げた)でした。
この頃の自民党は逆風の真っただ中で、リクルート株の黒い金、消費税導入、オレンジ輸入の自由化などで批判され、参議院選挙ではとうとう過半数割れ。有名な社会党党首・土井たか子氏が「山は動いた」と叫んだマドンナ旋風も短い間だったとはいえ、画期的な出来事だったのです。社会党もまさか30年で、ここまで衰亡するとは思いませんでした。

FTX純国産ならず

 これまでの対地攻撃機(わが国では支援戦闘機という)F1の後継機選定は1982(昭和57)年に、56中期業務見積もりで62年度、つまり87年には24機を整備することが決まっていました。しかし、このスケジュールでは国内開発案が陽の目を見る可能性がありませんでした。そこで、F1戦闘機の耐用年数見直しが行なわれ、約4年の猶予が与えられます。
 1985(昭和60)年4月には「国内開発可能」という答申が技術研究本部からも出されます。この年10月に、対立候補は米国製のマクダネル・ダグラスF/A18ホーネット、ジェネラルダイナミクスF16ファイティングファルコン、それに英国のパナビア・トーネードの3機種が浮上しました。
 細かいいきさつは省きますが、結局、アメリカからの要求で、全部の40%をアメリカが開発した技術を使い、純国産とはなりませんでした。これが今も飛ぶF2支援戦闘機です。

地対空ミサイル、パトリオット配備

 現在も、わが国の対空防衛の要として配備されるパトリオット・ミサイルが登場します。米陸軍はそれまでのホークとナイキ・ハ―キュリーズの後継としてパトリオットを1965年に着手します。72年から開発が始まり、82年から生産が開始されました。
 空自はナイキJの後継として60年度予算に調達を決めます。1セットはフェーズド・アレイ型目標捜索/追尾/ミサイル誘導用レーダー1基と、迎撃管制ステーション1基、発電機1基、発射機1基で構成されています。1セット当たりで4連装発射機を最大で8基まで配置できて、合計40個の目標に対して同時追尾/攻撃が可能だそうです。
 ミサイル本体は全長5130ミリ、直径410ミリで、最大速度はマッハ5といわれます。レーダー誘導されて目標に近づくと、最終段階ではTVM方式に切り替わります。レーダーから発振されたビームが目標に反射したものを捕捉し、それをミサイルからレーダーに送り、レーダーから正確な誘導信号をミサイルに送ることになります。
 その命中率はたいへん高く、湾岸戦争(91年)ではイラクのスカッド弾道ミサイル迎撃で威力を発揮しました。

対ソ連、必勝のエア・ランド・バトル

 この年の陸上自衛隊演習では、北海道で行なわれた日本戦車と米軍歩兵が共同で行なったものが目立ちました。攻撃ヘリAH-1Sが飛んでいます。これは1987(昭和62)年に帯広で編成完結されたばかりの北部方面隊の第1対戦車ヘリコプター隊でしょう。機首下部には20ミリ3連装機関砲、短固定翼(胴体から突きだしたハードポイント)にTOW対戦車ミサイル8基、70ミリロケット弾ポッドを取りつけられます。
 ナレーションでは「空地同時戦闘」と言っていますが、これはアメリカ軍が対ソ連戦用に構想した、「エア・ランド・バトル」の直訳でしょう。アメリカ軍は広大なヨーロッパの戦場で長大な縦深態勢(じゅうしん・たいせい)をとって突進してくるソビエト連邦軍、ワルシャワ条約機構軍を、自由陣営の北大西洋条約機構軍で迎え撃とうとしていました。
 その事実認識は厳しく、「劣勢な兵力をもって戦い勝利する」というものでした。ソ連はこのころ、国家予算の15%以上を軍備に投じていました。国民の生活より核弾頭付きミサイルに、戦車、潜水艦、装甲車にという国です。自由主義陣営国家では考えられないほどの軍備への傾斜ぶりでした。
 そうしてアメリカ軍がたどり着いた結論とは、次のようなものでした。陸戦の王者は戦車である、機甲戦闘こそが現代戦の中心的役割を果たすというものです。次々と前進してくる東側陣営の部隊に対し、地理的な交戦地域を拡大して、戦域全部で統合された空地同時攻撃を大切にしました。戦闘梯隊を叩く、続いてくる敵第2梯隊との連絡を断つ、それぞれを次々と各個に撃破する。近接戦闘、縦深作戦、さらには後方作戦も同時に指揮するように指揮官に求めました。
 数的に優勢なワルシャワ条約機構軍に対して、質の面で優位に立とうと考えたのです。こうした戦い方をアメリカ軍は陸上自衛隊に伝えようとします。ちなみに米軍の装備は、当時はビッグ5といわれたものに代表されます。
 第1はM1エイブラムズ主力戦闘戦車、ブラッドレイ装甲戦闘車、対戦車ヘリコプター、MLRS(多連装ロケットシステム)、そして地対空誘導弾パトリオットです。この戦闘法とそのための装備品がいかに正しかったか、それは湾岸戦争で証明されました。
(あらき・はじめ)
(令和三年(2021年)6月30日配信)