陸軍工兵から施設科へ(47) 丹那トンネル運転に向けて

マスコミの狙いは何か

 まずお断りしておきますが、わたしは何かの熱心な信者というわけではなく、先祖代々浄土真宗の信徒です。お寺とのお付き合いもあり、親族の葬儀ではお世話になります。もちろん、旧統一教会とわたしは何の関係もありません。
 マスコミはいま一斉に、主に自民党の代議士や議員たちと旧統一教会の関係について大騒ぎをしています。このことにちょっとひっかかりを覚えます。おかげで岸田政権の支持率が下がったり、安倍元総理の「国葬」問題の反対が増えたりしたとのことです。
 おかしいなと思うのはわたしだけでしょうか。信教の自由が保障され、旧統一協会が反社会的集団と認定されているというわけでもありません。政治家が宗教団体と関わるのは悪なのでしょうか。
 たしかにいま最も糾弾されている自民党の山本元防衛副大臣の歯切れの悪い弁解などを聞いていると、どうしようもない。しかし、それは山本氏の品格だけのことであり、政治家と適法な地位をもつ宗教団体が関わること自体は問題があるとは思えません。
萩生田政調会長と生稲参議院議員のことも、しつこく報道を重ねていますが、地盤も、政治家としての実績もないタレント候補です。少しでも支持者を、票を得ようとする行為ではないでしょうか。
 またまた野党はさまざまな論法を使って、国会で話題にするようです。そのために、また防衛予算のことや、憲法改正などの重要な議論が横に押しやられているように思います。政治家も政治家です。「支持者を増やすために適法な団体の会合に顔を出して何が悪い」と言えないのでしょうか。さらに叩かれるのが怖いというような臆病な人が政治家でいいのでしょうか。情けなくなっています。

試運転が始まる

 熱海、来宮(きのみや)、函南、三島の各駅の改修や新設が始まります。いよいよ東海道線が丹那トンネルを走ることになりました。トンネル内の線路敷設、電化設備も完成し、1934(昭和9)年10月1日には、電気機関車にけん引された客車が関係者を乗せてトンネルを走り抜けます。
 12月1日にはいよいよ完全な開通が見込まれました。その日をもって、熱海線は国府津、小田原、熱海、三島を通る東海道本線となります。同時に、国府津から松田、山北、御殿場、裾野、沼津を結んだ線路は支線の御殿場線となるのです。
 第1号の記念すべき列車は、東京駅を11月30日午後10時発の神戸行き急行と決定しました。27日の朝から売り出された乗車券はたちまち売り切れます。そのため、鉄道省は列車を15輌に増やし、当時としては長大な編成にしました。
 使われた機関車はEF53型でした。Eは電気機関車、Fは動輪が6つであることを表します。当時の新鋭高速・旅客型機関車です。編成は機関車の後ろに荷物車1輌、2等寝台車2輌、2等車、食堂車、2等車が各1輌、3等車7輌、3等寝台車、2等寝台車が各1輌という15輌編成になりました。
 乗客は1200人あまりで、改札は9時40分から始まります。発車は10時ちょうど、最初の停車駅は神奈川県の大船駅です。そこで20秒間の停車をし、次の駅は一気に沼津駅でした。国府津駅には停まらなくなりました。しかし、各駅には祝いの文字が入った赤い提灯をもつ人々でいっぱいでした。
 小田原駅でも列車は「万歳」の声を受けながら疾走します。早川、根府川、真鶴、湯河原を過ぎました。各駅とも提灯や幔幕が張られています。私事ながら、夜中でも列車を見に行ったと小学生だった家内の亡父から聞いたことを思い出しました。熱海通過はまさに午前零時でした。

列車は三島へ

 車内では乗客専務車掌が「丹那トンネルに入ります」と言い続けて走りました。零時3分30秒、列車は定時に来宮信号所を通過。トンネルの坑口が迫ります。そこには数十個の提灯が上下していました。熱海建設事務所の所長をはじめ、作業員たちによる歓迎でした。
 零時4分、機関車は警笛を鳴らしトンネルに進入しました。側壁には灯がともり、青色の信号灯も点いています。乗客は誰もが日の丸の小旗をもち、互いに笑顔を交わし合ったそうです。トンネルの通過時間は機関車に同乗した運転主任がストップ・ウオッチで計っていました。三島口に出た瞬間で針を読むと、9分2秒でした。
 函南駅にも提灯が飾られ、三島駅にはイルミネーションが輝いています。列車は速度を落とし、沼津駅に入ります。停車は時刻表通り零時28分でした。ホームには沼津市長をはじめ、市の有力者が正装で迎え、青年団員、在郷軍人の人々が歓声を上げました。乗客たちは窓を開けて小旗を振って応えました。
 機関車に乗っていた東京鉄道管理局の運転局長が駅長室に入り、記者会見を行ないます。それによると、トンネル内の速度は中央付近で時速55キロメートルを出し、揺れもなく、線路はまったく安全だというものでした。
 当時の電化区間は沼津までです。蒸気機関車につけ変えられます。零時34分、列車は走りだしました。続いて、その日の午後10時30分に東京発鳥羽行き、11時26分には大阪行き、11時40分、大阪行きが丹那トンネルを通過します。
 東海道線の新しい駅が造られた三島の町は大いに賑わっていました。江戸時代には東海道の大きな宿駅だった三島は鉄道の開通以来、すっかり寂(さび)れていたのです。
 あらためて確かめてみます。御殿場経由の時代には、国府津と沼津間は60.2キロメートル、最高地点は海抜455.4メートルの御殿場駅です。それが48.5キロメートルと11.7キロメートルもの短縮になり、最高点もトンネル中心で海抜79.6メートルにしか過ぎません。
 
 何より、重量のある貨物列車は海抜107.1メートルの山北駅で2つに分けて、それぞれを機関車が引いて455.5メートルの御殿場まで登りました。東京行の列車も、海抜123.6メートルの裾野から御殿場まで急勾配を上がっていました。輸送力が大きく向上することになりました。
 次回からは現在の新幹線につながる「弾丸列車」計画についてお話しましょう。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)8月24日配信)