陸軍工兵から施設科へ(16) 交通兵旅団の誕生──気球隊から航空隊へ
はじめに
明けましておめでとうございます。新しい年が始まりましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。せっかくコロナの感染状態も落ち着いたと思ったら、年末から新しいオミクロン株が見られるようになり、いわゆる第6波がやってきています。感染力がたいへん高いと報道され、沖縄、山口、広島の各県に「蔓延防止等重点措置」も出されました。
わたしが暮らす神奈川県も、東京都も感染された方々が多くなっています。小池都知事はテレビによれば、飲食店での会食をまたまた4人以下に控えるという勧告を出すようです。人が動けば、集まれば、感染は増えるということが分かったからというのですが、芸がないことだと思うのは私だけでしょうか。今回も飲食店だけが悪者にされるという思いもしないではありません。
やはり有効なのは身近な感染対策をしっかりすることなのでしょう。公共の場所ではマスクをする、会食はしても飲食時以外はマスクを取らない、手洗い、うがいの励行などを守ることが大切です。
それにしても沖縄、山口、広島とすぐにピンときたのが米軍の存在でした。アメリカの基準とわが国のそれが違うということなのでしょう。異文化を身近に感じる今回の感染報道でした。
交通兵旅団
日清戦争(1894~95年)の経験から、1896(明治29)年に鉄道大隊ができました。2個鉄道中隊と1個電信中隊が市ヶ谷台に編成されます。この鉄道大隊が東京中野、いまの中野区役所のある所に移りました。電信教導大隊も併設されて交通兵の基礎ができたといわれています。
日露戦争(1904~05年)後には、鉄道、電信、気球といった工兵を主体にした部隊ができました。1907(明治40)年10月のことでした。もともと電信隊には気球部が附属されていて、旅順要塞の攻撃時にも2個の気球が参加しました。砲兵の射弾の観測をしたり、敵陣の様子を写真撮影したりしていたのです。気球のゴンドラから地上への連絡は有線電話でした。
1908(明治41)年には、鉄道隊が分かれて鉄道聯隊(3個大隊)、気球隊、電信隊となります。この3つの部隊を統括したのが交通兵旅団司令部でした。鉄道聯隊は千葉県の津田沼に移ります。交通兵とはよく名付けたもので、たしかに鉄道と電信は縁が深いものでした。また、気球ものちに航空兵に発展することを考えると、よく考えられた名称だと思います。
また、津田沼の鉄道聯隊は演習線路として鉄道を建設しました。現在の私鉄京成電鉄新京成線です。津田沼から松戸(JR常磐線)を結びます。習志野の第1空挺団や、松戸駐屯地にある陸自需品学校に出かけるときに利用していますが、興味深い伝説があります。
それは軍隊の演習線だからグネグネ曲げてあり、直線が少ないというのです。確かに線路はよく曲がりくねり、なるほどわざと複雑にしたのかなどと思いました。
しかし、鉄道建設の専門家によると、それは俗説であり、地形の条件に沿って敷設した結果だというのです。実際に乗ってみると、河岸段丘の線に逆らわず、地形に従って合理的に建設した結果と思えます。
映画『指導物語』
また、鉄道聯隊については興味深い映像もあります。『指導物語』という鉄道映画です。1941(昭和16)年10月の公開です。「加藤隼戦闘隊」などで主役を務めた藤田進さんが鉄道聯隊の初年兵になり、千葉機関区に派遣されて機関手教育を受けています。指導にあたる老機関士が丸山定夫さん、その長女が原節子さんです。
この映画には、いわゆる戦争を賛美するような、あるいは露骨な戦意高揚のような場面はありません。自分に配当された若い兵士にきちんと機関手としての能力を教育しようとするベテラン機関手の誠実さと、それに応えようとする兵士の真面目さが印象に残ります。
映画ファンの評判によると、この映画の主役はC58蒸気機関車ではないかというほど機関車が目立ちます。2台の機関車が列車をひいて並走するところは佐倉の先、総武本線と成田線の実在の直線区間です。出演したC58217号機はたしか千葉県旭市の西の宮公園に動態保存されていましたが、現在はどうなっているのでしょうか。
聯隊の兵士たちが保線の実習をしているところ、線路を担いで枕木の上に運ぶところなども映っています。当時、千葉駅まで電化されているので、自動ドアで開く古い電車も見られるのが楽しいです。
老機関士の家庭の描き方も楽しく、しっかり者の長女、気楽な妹たち2人の様子は少しも戦時下の緊張感は感じられません。これも当時の社会のふつうの様子だったのでしょう。それにしても、「かまたき」といわれた機関助手の石炭くべの様子はみものです。
交通兵団に昇格する
1915(大正4)年には、旅団は交通兵団と格上げになります。今までは旅団でしたから指揮官は少将でした。今度は兵団なので中将が補職されます。初代兵団長は井上仁郎中将です。工兵出身で、明治35年には鉄道大隊長、日露戦争では臨時軍用鉄道監として安奉線建設指揮官、戦後には軍務局工兵課長になった鉄道のエキスパートでした。
また、航空関係の指導にあたる少将がいました。司令部附で山田陸槌(りくつい)少将です。やはり工兵出身で参謀本部通信課長、鉄道聯隊長、チンタオ攻略時の臨時鉄道聯隊長、舞鶴要塞司令官などを歴任しました。1919(大正8)年7月には中将に進み、交通兵団長になります。その後。教育総監部工兵監になる優秀な人です。
気球隊は航空大隊になる
気球隊は手狭になった中野から埼玉県所沢に移転しました。1915(大正4)年12月には気球隊は航空大隊と名前を変え、気球中隊、飛行中隊各1個をもつようになります。翌年にはさらに1個飛行中隊が増設されました。このときの大隊長は鳴滝紫磨(なるたきむらまろ)工兵中佐です。鳴滝中佐は工兵第6大隊長、この航空大隊長のあとは鉄道第2聯隊長、少将に進み広島湾要塞司令官、中将になって運輸本部長になりました。まだ、この頃は航空の専門家は育っていませんでした。
1917(大正6)年には航空第1大隊となり、岐阜県各務原(かかみがはら)に第2大隊が設けられます。このときの初代大隊長はのちの杉山元(すぎやまげん)元帥陸軍大将でした。杉山元帥は珍しい経歴の人で、聯隊長も旅団長も経験していません。その代わり、陸軍省軍事課長、軍務局長、陸軍次官、大臣、参謀次長、参謀総長、教育総監まですべて務めたという大変な人です。ただし兵科は歩兵でした。
1919(大正8)年の秋季大演習では、指揮下の航空第2大隊は活躍します。その功績もあってか、参謀本部附になり国際連盟空軍代表随員、大正10年には大佐になって軍務局航空課長になりました。そうして1925(大正14)年5月に航空兵科が独立すると少将になっており、航空本部補給部長になったのです。異論もあるようですが、「陸軍航空育ての親」とも書かれています。
次回は航空兵と工兵のつながりをお知らせしましょう。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)1月12日配信)