陸軍工兵から施設科へ(21) 自由気球の話

はじめに

 先日の雪では、公共交通機関も十分な用意をされたせいか、わたしの身の周りでは大きな混乱はありませんでした。コロナの感染者の方々の数も高止まりになっているようです。経口治療薬の認可も間近になり、春に向けて少しずつ明るい見通しになってきたように思います。
 とにかく消費の回復、とりわけ酒食を共にしての仲間とのやりとり、心の交流の機会が大切だと思うのです。皆さまも益々ご自愛ください。今日は、脱線ですが新藤中佐の自由気球の話が貴重なのでお知らせします。

勇躍、気球隊に赴任する

 とにかく飛行機を操縦したい、そう思っていたのに、新藤常右衛門歩兵少尉に発令されたのは気球隊付でした。いったい気球隊はどこにあるのか、平時編制表を先輩と一緒になって引っ張り出します。あった、あった、所在地は埼玉県所沢町、所属は近衛師団でした。やあ、憧れの近衛だったか、さっそく近衛の帽章を買い込んで濱田の聯隊を後にしました。
 近衛兵は当時、それ固有の帽章を付けています。星を桜の枝で囲んだ、現在の陸上自衛隊の帽章も参考にした独特のものでした。一般部隊はとがった五稜星だけです。たしかに気球隊は陸軍常備団体配備表によれば、この時期、立川の飛行第5大隊とともに近衛師団の下にありました。しかし、これは管理面での区処(くしょ)を受けるだけで、近衛部隊ではありませんでした。
 東京九段の偕行社に宿をとると、さっそく同期生から「近衛の帽章はつけられないよ」と指摘され、「田舎っぺえだなあ」と笑われたそうです。少尉任官が1924(大正13)年10月のこと、航空兵科発足は翌年5月でした。新藤歩兵少尉は兵科色の紅の襟のままに気球隊に着任します。
 時代は第一次世界大戦での航空機の発達が著しく、空軍独立論も論議されるようになっていました。気球は要塞戦か都市や要地の防空にしか役立たないだろうと言われていたようです。要塞の内部視察や、攻城砲の弾着観測には確かに繋留気球が有効でした。また、当時の飛行機は上昇限度も5000メートルくらいで、爆弾を積むと3000メートルくらいにしか上がることができません。爆撃高度も1500~2000メートルくらいでした。したがって、飛行経路に高度2000メートルくらいで気球をあげておく、そうして爆撃を避けようという考え方がありました。これを阻塞(そさい)気球といいます。

フランス製気球

 まず、気球からの偵察を修業しました。搭乗したのは水素ガス1000立方メートルを充填した紡錘形(ぼうすいけい)の気嚢(きのう)の下に、吊籠(ゴンドラ)をぶら下げたものです。ゴンドラは縦横1.5メートル、深さが1.2メートルの籐(とう)で編んだものでした。「籐」などというと、若い人にはなじみがないと思います。わたしが子どもの頃には「籐椅子」などといって、ツルツルした丈夫な籐を編んだ夏用の椅子もあり、通気性も良いので籐の枕もありました。
 手元の事典で調べると、籐とはヤシ科の蔓植物の総称だそうです。茎は弾力があって強靭・・・とあります。主に熱帯アジアやオーストラリア北部で生産され、籐細工に使われるとのこと。おそらく、どこからかの輸入品で編んだ籠だったのでしょう。
 気嚢は全体を青緑色に塗り、胴体両側に日の丸が描いてありました。気嚢の前、3分の1くらいのところに鋼索を取りつけて、地上の繋留(けいりゅう)自動車につなぎます。自動車はフランスから輸入したルノーで自重が約6トンもあったそうです。この気球は佐山氏のご著書から調べると、フランス製の「R型繋留気球」と思われます。
 全長27.5メートル、最大中径8.3メートル、重量約480キログラム、吊籠重量は300キログラム、搭乗員は2人です。繋留車はラチール4輪駆動自動車、自重5.4トンとありますから、ほぼこれに間違いないでしょう。
 上昇する時には鋼索を巻いてある繋留車の巻取器(まきとりき)のクラッチを外しました。降下の時には繋留車のエンジンで巻取器を回して引き下げます。乗員が2人では1000メートルまで上がれ、1人では1500メートルまで上昇できました。地上との連絡は鋼索の中心に巻き込んだ電話線で行ないます。

籐製吊籠(とうせい・つりかご)

初めての搭乗は風のない気流の良い日が選ばれました。天候が悪いと初心者はたちまち酔っぱらったからのようです。教官と2人で吊籠に乗り込みます。「砂嚢(さのう)を外せ」の号令で吊籠の周りにぶらさげてあった砂嚢を外しました。ただし、吊籠内にある砂嚢はそのまま、これは繋留索が切れたときに命の綱となるものだそうです。
 「放せ!」の号令で吊籠を支える兵たちがいっせいに手を離すと、気球は5、6メートル前に進み、空中に浮かびました。気球はスーッとしっぽをふって頭部を風に向けます。空中に吊籠が浮かんでみると、『なにか足の下がフワフワしており、いまにも籠の底を踏みぬきそうで気持が悪い』(新藤中佐の原文・以下同じ)
 教官が、「上昇1000メートル」と命ずると、地上指揮官が「上昇1000メートル昇せ」と復唱します。巻取機のクラッチが外されて、水素の浮力で『ざーっと繋留索を引きながら上昇する。5、600メートルまでは、じつに早いが、だんだん上昇力がにぶって1000メートル近くになると、ゆっくり昇り、いつ1000メートルに停止したか分からない。綱一本で地面とつながっているだけだから、四周まるみえである。なるほどこれでは、偵察や砲兵の射弾観測にはもってこいだなと感心した』
 ただ、2、3回搭乗して気球になれるまでには、足の下を踏み抜きそうな気がしたそうです。そのためいつも吊籠のふちから片手を離せなかったと告白されています。また、風速が毎秒15メートル(つまり時速54キロメートル)を超えると、揺れるばかりか30度以上も傾いたそうです。

楽しかった自由気球の訓練

 自由気球の訓練は楽しかったと書かれています。風と共に流れるので、どんな強風でも無風と同じで動揺は少しもなかったそうです。この気球は球形で、800立方メートルの水素をつめた黄色に塗られたものでした。この下に吊籠が下げられます。繋留気球の鋼索が事故で切断されたとき、安全に着陸するための訓練でした。
 これは晴天で風速も10メートル以下の日を選びます。大きさは気嚢容積が800立方メートルのものなので、水素ガスを前部放出するのに時間もかかる、その間、吊籠は引きずられて搭乗者に危険が及ぶからとされていたからです。これも佐山氏のご著書によると、後に「一型自由気球」とされたものでしょうか。
 自由気球を上げる前には、上空各層の100メートルごとの風向、風速などを観測気球を飛ばして情報を集めました。そうしてから、北風のときは「所沢から厚木平地」、南風のときには「宇都宮平地」などとおおよそ着陸の見当をつけました。
 気球が上昇して望んだ風向に合うと、気球のてっぺんについた排気弁を吊籠の中から綱を引っ張って水素を放出します。これも佐山氏が詳しく解説してくれていました。水素を出し過ぎて降下がしそうになると、吊籠内の砂嚢の砂を捨てて調整します。そうやって適当な風向の風に乗って、予定の着陸地点付近に飛びました。
 気球も飛行機も、離陸より着陸が難しかったようです。水素を抜いて、だんだんと高度を下げてゆきますが、抜き方が問題だったそうです。一度に水素を抜き過ぎると、降下速度がつき過ぎて、慣性でどんどん高度が下がってゆきます。あわてて砂嚢から砂を捨てても、降下がとまらない。では水素の放出が少ないとどうなるか。降下速度は遅くなり、その間に風に流されて、危険な場所に近づいてしまう、あるいは電気の高圧線にぶつかりかねません。
 降下の速度が分かるような計器がないので、勘で水素を抜いたのです。水素を抜いて降りてゆく、砂を捨てて降下の慣性を止めます。この操作を何回も繰り返し、初めてジワーッと地面に近づきました。そこで、この砂が気球搭乗者の命の綱になったのです。
 次回は偵察教育を2カ月あまり受けた後、ついに自由気球の訓練に入った新藤少尉の恐ろしい体験。T少佐教育部長との同乗飛行をいっしょに読んでみましょう。
 
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)2月16日配信)