陸軍工兵から施設科へ(34) 昭和初めの日々

満洲事変を間近にして

 1928(昭和3)年6月4日に「満洲某重大事件」が起きました。いまではその「真相」も明らかになっています。関東軍の幕僚による陰謀による暗殺事件でした。当時は北京(ぺきん)にいて大元帥を自称していた満洲軍閥の統領だった張作霖(ちょう・さくりん)が満洲へ帰ろうとしたところ、進行中の列車が爆砕されて死亡しました。
 首謀者は関東軍高級参謀だった河本大作(こうもと・だいさく)歩兵大佐です。実施したのは朝鮮軍隷下の竜山工兵隊の一部でした。鉄道の爆破などは工兵の専門であり、他兵科の人では確実にはできないということからです。ただし、爆薬や電線などのセットまでは工兵隊が行ない、爆破スイッチを実際に押したのは奉天駐屯の独立守備隊の中隊長東宮鉄男(とうみや・かねお、1892~1937年)大尉でした。
 この事件がきっかけになって、昭和6年の満洲事変になっていきます。その頃の時代の気分を知るために、定説を述べておきましょう。関東軍司令部はただちに真実を隠すために嘘をつきます。爆破現場の近くには中国人の死体がありました。死体のそばには爆弾と国民党軍との関係を示す書類もあり、彼らは便衣隊(べんいたい)であり、犯人の一部だと発表しました。便衣隊とは正規の軍人ではなく、制服も着ることなしに戦闘行為をする人間です。
わが国の首相は、「おらが大将」で有名な田中義一(たなか・ぎいち)でした。真相が政府にも、陸軍中央にもなかなか分からないうちに、満洲の貴志弥次郎中将から「日本軍人が関係している」という通報を受けました。
この貴志中将は陸士6期生(1873年和歌山県で生まれる)で陸軍大学校在学中に大尉、中隊長として日露戦争に出征し偉勲を立てた人物です。また、田中義一とは深い関係がありました。
日露戦争後に陸軍は内務書を改定しますが、このときの主務者が田中義一歩兵第3聯隊長、そして聯隊付になっていたのが貴志少佐でした。2人は協力して陸軍生活の基礎である内務書を作り上げたのです。
 
その後、貴志は歩兵聯隊長なども務めますが、大正時代の後半は奉天特務機関長で過ごしました。田中との関係はいつも緊密で、両者は深い信頼関係を築いていたのです。
 当時、貴志は予備役に編入されていましたが、張作霖の第2子を預かっていました。その貴志が現地を検証し、起爆装置と爆薬を結ぶ誘導電線がひかれた跡を発見します。爆薬の質や量から見ても、とてもゲリラ(便衣隊)などが使えるものではないと判断したのです。
また、第2報は小川平吉(おがわ・へいきち)鉄道大臣からもたらされました。満洲の大石橋にいる知人から聞いた話だというのです。もし、爆殺に失敗したら抜刀斬り込み隊を率いて張作霖を確実に倒して欲しい、それを軍人から頼まれたという話でした。
関東軍の幕僚や、それと気脈を通じる陸軍中堅将校たちは満洲や内蒙古を独立させて、都合のよい政権を操ろうとしていました。しかし、張作霖は言うことを聞かなくなっています。邪魔者は消せといった、今から見ればずいぶんとお粗末な茶番劇でした。
政治は混乱していました。そこへ不景気の波が押し寄せます。昭和初年の日々はデフレ状況が続く中で、国民は漠然とした不安と生活苦に追われていました。

昭和初めの暮らし

 公示地価で比べると、昭和6年の銀座4丁目実勢地価が坪6000円だったそうです。2018(平成30)年の公示価格は1平方メートルで5500万円。坪にすれば約1億8000万円ですから、ざっと3万倍になります。
昭和6年の6000円は帝国大学総長の年俸です。帝国大学総長は月収500円、今に直せば200万円の月給でしょうか。現在、東京大学総長は年収約2500万円ですから、1円が4000円という見立ては間違っていないと思います。
住宅事情はどうかというと、東京市内中心部の家賃はおよそ月額40円くらいが平均でした。いまでいえば16万円。30円から40円で2階建ての1戸建てを借りるのも夢ではありません。住宅ローンもありませんし、働いている間は借家で済ませ、退職してから家作を建てて賃貸収入で暮らすという人が多かったようです。
自動車はフォードやゼネラルモータースの輸入が多く、5人乗りセダンが3600円、現在に換算すると約1400万円、フォードの大衆セダンが2450円だから、同じく約1000万円というところ。国産の日産のダットサンが1350円で大人気とあるけれど、約540万円になります。
まあ、ちょっと無理すれば買えるじゃないかと思うのは、やはり現在ベンツやアウディといった1000万円を超える高級車を買える階層でしょう。

日本の様子

 国内総生産(GDP)は前回も書いたように、約150億円でアメリカの7分の1、世界貿易においてのシェアも3%ほど。国防費はGDP比の1%の3倍、3%くらいです。人口は約6400万人、就業者の総数は約2900万人でした。この就業者のうちの農業人口は1370万人で47%にもなります。いまでは漁業等を含めても5%です。
 製造業は全体の16%の470万人、サービス産業は8%の250万人といった社会でした。国民の多くは小学校6年を出ると高等科に半分くらいが進み、中等学校に進学する人は30%にも満たず、サラリーマンも多くが中学や商業学校を出ているだけという社会。逆に、いまのように子どもへの教育費が負担になるというのも珍しかったのです。
 鉄道省の若手幹部まで巻き込んだ俸給引き下げ反対運動でしたが、そのキャリアにあたる技師や法学士だった奏任官がどれくらいいたのでしょうか。なかなか、正確な数字は難しいのですが、1929(昭和4)年の『俸給生活者論』(小池四郎、青雲閣書房)によれば170万人から200万人くらいだろうとしています。就業人口の7%くらいにあたります。
兵役の徴兵検査時の調査では、大学や専門学校を卒業した人が5%くらいですから、そんなところかも知れません。というのも戦前社会は案外、抜け道があって、資格試験を突破してホワイト・カラーになる人も多かったからです。

鉄道は一家だ

 高等官35人、判任官45人が集まって減俸反対の決議をしました。彼らの言い分は次の通りでした。鉄道の仕事は、現業非現業の区別がつかない。たしかに管理職や現場職、一般企業のように総務・事務を扱うホワイト・カラーと、工場労働者のブルー・カラーのような区別が鉄道にはない。たとえ、帝国大学出の技師でも、事故があったら運輸事務所から飛び出して現場作業員の先頭に立ちました。
 とくに判任官の9割は現業員であり、部下の雇員や傭人の方が手当てなどで高給を取っている場合も多い。しかし、あくまでも現場の中堅はベテランの判任官たちであり、彼らの生活を苦しめるのは鉄道全体の力を大きく損なってしまう。そんな主張が多くの鉄道人の同意を得ることになりました。鉄道一家、上から下まで一丸になるという気分が「官鉄」にはあったのです。

21万6000人の辞表

 ついに本省の局長、課長までがガリ版で刷られた辞表に署名捺印をするといった事態になりました。しかし、現場は動き、ごく当たり前にダイヤ通り列車は走り続けておりました。騒動から1週間が過ぎ、鉄道大臣も反対運動の統制委員たちもくたくたになりました。大臣から妥協案が出ます。
(1)退職金の制度を恒久的なものとする。(2)積極的な人員整理はしない。(3)諸給与を減額しない。(4)新俸給令による退職賜金と旧俸給令によるそれの差額は適当な方法で支給する。
こうして鉄道のストップは避けることができました。辞表はたった1枚を除いて撤回されました。その1枚は、あの「つばめ」実現のために働いた鉄道省運転課長結城弘毅だったのです。結城は鉄道を去りました。
 この大騒動がどうして鉄道だけで起きたのか。興味深いことを青木槐三氏は書いています。実は、鉄道員は減俸そのものに反対というより、政党政治そのものへの反抗にあったのではないかというのです。
 鉄道員は鉄道を改良し、安全な輸送力が高い鉄道を造ろうと思っていました。ところが大正中期から力を得て来た政党は、鉄道側の広軌改良案を潰し、自分の選挙の人気取りのために新線を次々と建設した。自分の都合のよいことを画策することを「我田引水」といいましたが、大正時代から昭和の初めの政党は「我田引鉄」、自分の票田に赤字が分かっていても鉄道を走らせたという意味です。
 しかも言うことをきかない官吏は左遷する。官吏も現在のような権利で守られた人たちではありませんから、政党が任命した大臣の権限で簡単に首のすげかえもできたのです。
 高級官吏ばかりか、下の身分の人たちも大変な目に遭いました。各駅にあった売店や、ガード下の権利の使用も政党幹部のやりたい放題でした。鉄道で事故にあって負傷した公傷者が救われたのはそういった場所です。連結器の作業で片手、片足を失った人が駅の構内で売店を営むということもありました。それも政党関係者が利権の種にしてしまったのです。
 大正時代は政党政治の時代だ、日本のデモクラシーの発達だったと今も褒める人がいます。当時は政友会、民政党という2大勢力が争って党利党略に明け暮れていた時代でした。政党政治への不信もあったのが大正末から昭和の初めの時代でした。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)5月25日配信)