陸軍工兵から施設科へ(32) 走れ超特急!

はじめに

 長いゴールデン・ウィークも終わり、街や観光地では人出が多くなった気がします。それでも遠くへ旅する人は少なく、長距離の移動はあまりなかったようです。コロナ禍の前のように戻るのは難しいかと思いますが、少しでも消費を増やし、ご商売の方々への応援もしたいなと思っています。
 ただいま、NHKの大河ドラマにはまっています。中世という馴染みのない時代を以前は「平清盛」などで描きましたが、今回は史実の新解釈や、学界の新しい研究成果を生かした素晴らしい企画だと評価しているところです。
 とりわけ、義経役の菅田さんの演技が素晴らしい。ああ、やっぱり義経はこうした人だったんだなと思わせる台本と演出。前回でしょうか。梶原景時が法皇様に奏上したのは事実と異なると言うのに、義経は「ヒヨドリ越え」の方が格好いい、こうやって歴史はつくられて行くのだというシーンには思わずわが意を得た思いがしました。
 学説では、一の谷の本陣に突撃するには実際の「鵯越」では難しい。義経隊は大きく鉄拐山を迂回したのではといわれています。そのあたりを三谷幸喜さんはきちんと描かれていると思います。今夜はいよいよ「壇ノ浦」の決戦です。最近の研究では、陸上からの範頼軍の弓射による掩護も大きかったかとされています。
 きちんとした歴史史料は『吾妻鏡』と『平家物語』ですが、いずれも後世の作であり、意図的な曲筆(きょくひつ)もあるといったところが難しい。やはり史料は「同時代性」、つまり起きた事件と同じ時代のものがいちばん良いとされます。貴族の書いた日記『玉葉(ぎょくよう)』などと比較しながら研究者は考えをまとめているのです。
 三谷さんは創作の許される範囲の「時代劇」の名手なんだなと思います。

超特急試運転列車は発進した

 1929(昭和4)年12月4日、試運転が行なわれます。機関車はEF50という電気機関車です。1923(大正12)年に輸入されたイタリア製のものでした。国府津まではこの機関車が牽引し、そこでC51型蒸気機関車に交代します。この東京からおよそ90分の東海道線には1927(昭和2)年4月から電気機関車が運転されていました。
 有名な鉄道記者だった青木槐三氏は、その著書『国鉄』(1964年新潮社)で次のような記事を書いたとふり返っています。
「朝まだき、ラッシュの人波もまだ寄せて来ない静かな東京駅出発ホームは、オレンジ色の初冬の朝の日ざしが流れこんで、とても新鮮な感じだった。緊張した面持の黒い制服にあご紐かけた鉄道人が、続々とその光を浴びて集まって来た。張りきった顔、感激に輝く眼、その顔と顔、眼と眼はこれから始まる大きなテストを期待して声も低くうなずき合う程度の挨拶をかわしていた」。
 昭和4年といえば、今からおよそ90年前です。すでに省線電車はラッシュという言葉とともにありました。東京市内の山手線、東京駅と中野駅を結ぶ中央線、いまの大田区蒲田(かまた)と品川間の京浜線の運転間隔は3分でした(11月から)。
 運転責任者は本省運転課の福井国男技師、機関手は品川機関庫に所属する2人。「試運転の成果はこれからの鉄道の再建にかかっている。このことを銘記して、よろしくがんばってくれ」と江木鉄道大臣は運転手の手を握り締めたそうです。この「再建」の話は後で説明します。
 午前7時30分、東京駅のホームを列車はすべり出しました。蒸気機関車のシュッ、シュッという力強い振動もなく、ポッ、ポッというドラフト音もなく、電気機関車に引かれた列車は走りだします。2分で新橋を過ぎ、6分で品川通過、大森、蒲田もすいすいと通り過ぎて行きました。
駅の構内も時速35マイル(約56キロ)、青木氏の記事によれば、「6秒か7秒の間、ホームに立っている見物人の顔が識別できない。男も女も1つの点となって流れ去って行く。もう3つの電車を追い越して行く。爽快だ痛快だと叫んでいるうちに横浜に到着。24分41秒しかかからぬ」とあります。

最高速度は62マイル

 蒲田を過ぎるところで最高速度は62マイル(約100キロ)を出しました。いまも線路は真っすぐで高低差もない沿岸部を走るところです。ほとんど揺れもなかったといいます。試験車の中には机の上に空き瓶が並んでいました。それが1本も倒れない。8分目に入れてあったグラスの中の水も外にはこぼれない。立っていれば動揺は感じるが、歩くのにはまったく困難がなかったそうです。いまのように高速道路が発達し、誰もが時速100キロに慣れている時代とは違います。
「こりゃお召(めし)列車(天皇、皇后はじめ皇族方の専用列車)ですよ。お召列車より運転はいいですね。特急よりいいです」という専務車掌の言葉を記録しているのも青木さんらしいです。お召列車はとにかく静粛に、動揺がないように走ります。それより良いというのですから大変な感動だったのでしょう。

国府津からC51へ

 8時5分に列車は横浜を出ました。東海道線最初のトンネルを清水谷戸(しみずやと)といいます。保土ヶ谷と東戸塚の間のものです。戸塚、大船、茅ヶ崎、平塚、大磯などを過ぎて国府津に近づきます。8時44分です。横浜と国府津の間を約40分でした。現在の東海道線は経路48.9キロメートル、これを49分で走ります。もちろん各駅停車ですから9つの駅に停まっての数字です。
 横浜から国府津へ無停車ですから平均時速は約73キロメートル。当時としてはほんとうに驚異的な時間短縮です。線路近くの杉林は1枚の壁掛けのようだし、信号機や電柱も数える暇もない、何もかも流れると現在から見れば、大げさとしか言えない記事が残っています。
 国府津出発は9時27分。いよいよ箱根越えの難所です。山北駅と御殿場駅の間の40分の1の上り勾配が待っています。これまでの特急も、この区間では時速32キロまでしか出していません。山北駅では後押しの蒸気機関車が待機していました。超特急試運転車が本線を通り過ぎるとすぐに機関車は追いかけます。走行中には後押しをして、御殿場駅では直線の構内を通過中に切り離されました。
 沼津到着は10時31分、最高速度は神奈川県松田付近(酒匂川流域の足柄平野の奥になる)で56キロメートル。東京と沼津間を2時間8分で走破しました。
 手元の1931(昭和6)年の時刻表によると、各駅停車は東京を朝6時25分に発車、横浜は6時58分発、国府津に8時3分着です。8時8分に発車、御殿場には9時20分に到着、終着の沼津には9時57分です。1時間49分もかかりました。国府津と沼津間は60.2キロです。平均時速は約33キロ。つまり、各駅停車では東京-沼津間約3時間32分です。それをおよそ1時間半も短縮しました。

超特急はさらに進む

 沼津を11時52分に発車すると試運転列車は鈴川、富士、由比、興津と走り抜けます。午後1時42分に浜松に到着。ほぼ4時間で東京から浜松までやってきました。
 記録によると、下り東京と大阪間は8時間14分18秒、上りは大阪と東京間を8時間7分32秒だったそうです。当時の特急より上りは2時間48分32秒、下りは2時間37分32秒と大幅に短縮しました。
 翌5年7月3日、第2回目の試運転が行なわれます。区間は東京から神戸までと延ばします。一般の乗客も300人も公募して乗せることにしました。発表すると、1万2000人もの応募があったようです。
 次回は昭和経済界を揺るがせた「鉄道の危機」についてお知らせしましょう。
 
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)5月11日配信)