陸軍工兵から施設科へ(7) 師団の中に工兵大隊がおかれる

はじめに

 陸軍という組織について、長い読者の方々は当然ご存じのことと思います。何をいまさらと思われる方もいるかも知れませんが、今の陸上自衛隊でも、この明治半ばの陸軍が創りだした仕組みを踏襲し、引き継いでいることを興味深いと思われませんか。
 陸軍は、大きく分けて4つのグループに分かれます。まず、武装し、訓練し、戦う集団である狭い意味での「軍隊」です。この軍隊は、平時では大きい順に、軍-師団-旅団-聯隊(れんたい)-大隊-中隊などとなります。これに戦時になると、動員された軍隊では中隊の下に小隊や分隊という組織が加わります。だから8月によくある反戦・反軍をテーマにしたドラマなどで、平時の軍隊なのに「小隊長」がいたり、「分隊長」がいたら、それは間違いです。
いまの自衛隊では、「軍」という言葉を使えないので「部隊」と言っています。
 陸自では方面隊-師団-旅団-団-連隊―大隊-中隊-小隊-分隊なので、そっくりと言っていいでしょう。気がつかれた方がいると思います。陸自には小隊や分隊があります。つまり、陸自はいつでも戦闘態勢にあるのです。自衛隊ですから、不時の事故・事件にも対応できるように、いつでも行動できるようになっているからです。
 次に官衙(かんが)です。軍政をあずかる陸軍省、軍令をになう参謀本部、被服廠や造兵廠、また地域の中で活動する聯隊区司令部など、あるいは平時の要塞司令部などいわゆる陸軍の中の役所のことをいいます。
いまの自衛隊でも、防衛省や統合幕僚本部、そうして3幕(さんばく)といわれる陸海空の各幕僚監部があります。制服を着た自衛官と背広の勤務者がいるのも同じです。地方にはやはり広報や、退職隊員のための就職援護などを行なう地方協力本部があります。また、物品などの管理にあたる補給処(ほきゅうしょ)があるのも同じ。
 軍隊は巨大な教育組織ですから学校もありました。これは2つに分けられます。1つはふつうの人間を教育し、軍人にする補充学校、陸軍士官学校や下士官を育てる教導団などです。もう1つは、軍人を入校させ、さらに資質を向上させる実施学校があります。野砲兵学校や歩兵学校、工兵学校など、主に兵科ごとにありました。入校する下士官以上を学生といい、決められた教育課程に沿って一定時期に教育を受けました。
 陸上自衛隊には防衛大学校(陸海空がいっしょになっていますが)や高等工科学校(高等学校と連携した中学校卒業者が入学します)といった昔でいえば補充を担当する学校があります。また、兵科にあたる職種ごとに学校があるのも同じです。たいていが職種の名前、たとえば化学学校(埼玉県さいたま市)、高射学校(千葉県千葉市)、需品学校(千葉県松戸市)などがあります。また、複数の職種の教育を行う地名を冠した学校、富士学校(静岡県駿東郡小山町)は普通科(歩兵)、特科(砲兵)、機甲科(戦車・偵察)の職種学校です。東京都小平市にある会計、語学、調査、人事管理、警務などの教育のメッカ、小平学校もあるのです。
 最後は特務機関といいます。これは戦後史の陸軍を悪くいうときの定番、陰謀や工作、諜報行動などをする特務機関とは違うのです。ここでいう特務機関は軍隊・官衙・学校以外の組織をいいます。元帥府(げんすいふ・天皇の諮問に応じる陸海軍元帥の集まるところ)、軍事参議院(天皇の諮問機関、戦時の軍司令官要員の軍事参議官が集まる)、侍従武官府、東宮(とうぐう)武官府、外国駐在員などです。陸軍将校生徒試験委員などもこの特務機関になります。士官学校などの入学試験の担当です。
 前書きが長くなりましたが、こうしたことが理解できて初めて師団の創られた意味がお分かりになるでしょう。
 

鎮台から師団へ

 鎮台というのは、軍隊の司令部、軍隊の指揮をする機関というより役所のようなイメージだったといっていい。補給廠や軍事裁判所、軍病院、徴兵署といった機能を備えていた。指揮官は司令長官といい、陸軍少将が補任されている。西南戦争(1877年)では、この鎮台から「旅団」が臨時に編成されて戦場に向かったのである。
「旅」というのは動くという意味があるそうだ。鎮台の鎮が「しずめる・とどまる・とどめる」という意味があることから対比して移動する軍隊の意味だったのだろう。さらにいえば、聯隊などの上部構造として団という言葉が選ばれた。「かたまる・1つになる」という意味である。
 思い出すと、日華事変(昭和12年以降の日中武力衝突の名称、正確には変遷がある)のときの中華民国軍(蒋介石の軍隊)でも、同じ漢字文化圏だからよく似ている。ただし、日本がレジメントを聯隊と訳したが、中国では団としたことだ。ほかにもわが国の師団は師、旅団は旅、聯隊が団、大隊は営、中隊は連、小隊は排(はい)、分隊は班というのが支那軍の構成だった。ちなみに昔は団を「團」とした。意味はやはり集まる、1つになるという意味になる。
 いまの自衛隊では、師団は昔と変わらない諸職種連合の大組織だが、旅団はその小型版、団は隷下に連隊や大隊をまとめる将補(しょうほ・外国軍の少将にあたる)を指揮官とする部隊である。第1特科団は昔風にいえば、野砲兵旅団にあたるし、第1空挺団は普通科大隊、特科大隊、施設中隊、通信中隊、落下傘整備中隊などをもっている。なお、いまの普通科(歩兵)で大隊編制をとっているのは空挺歩兵だけのはずだ。一般の普通科連隊には中隊を直に連隊長が掌握することになっている。
 さて、師団の話である。1885(明治18)年にプロシャ陸軍参謀少佐メッケルが来日した。陸軍大学校の教官としてである。日本ではモーゼルワインが飲めるかと聞き、大丈夫だと聞いて、来日を快諾したという伝説がある。翌86年には、「臨時陸軍制度審査委員会」が開かれ、児玉源太郎大佐(日露戦争の満洲軍総参謀長)が委員長となって、軍政の改革に乗りだした。その第1番が鎮台から師団への改編だった。

師団のなかみ

 鎮台はそれまでは、有事には2個歩兵聯隊で旅団を編成し、鎮台司令長官を旅団長にすることになっていた。また2個旅団で1個師団を編成する。その師団長には1878(明治11)年から置かれていた東部、中部、西部の各監軍部長(中将)をあてることを予定していた。これが総兵力5万人余りになっていた1885(明治18)年頃には、鎮台司令長官が師団長に、監軍部長が師団2~3個を指揮する「軍団長」にあてられるようになってきていた。
 メッケルはこの計画を見て意見を述べた。このような小規模な兵力で軍団をつくることはない、鎮台を戦時に師団にするのではなく、平時から野戦に向いた師団を最大単位にすればいいと言うのである。師団の上に軍団を設けずに、師団長は最高指揮官の天皇陛下に直隷(ちょくれい)すればいいとのことだ。それを補佐するのが参謀本部長だいう仕組みを提案したのである。
 1888(明治21)年には監軍部は解散され、鎮台司令長官は師団長と名前が改められた。ここに全国に6個師団が生まれたのである。各師団は歩兵2個旅団(歩兵聯隊4個)、砲兵1個聯隊、騎兵、工兵、輜重兵各1個大隊が付いていた。
 明治21年に制定された「陸軍常備団体配備表」によれば、近衛と第1から第6までの6個師団、12個歩兵旅団、24個歩兵聯隊がある。備考欄には、要塞砲兵、警備隊、憲兵隊、屯田兵の配備は別に定める、歩兵第5聯隊(青森)の1個大隊は北海道函館に分屯する、各特科隊(騎兵・工兵・輜重兵)は師団番号と同じ、衛戍地(えいじゅち)は各師団司令部と同じ、ただし工兵第4大隊のみは京都府伏見(ふしみ)に置かれるとある。
 工兵は必須の訓練として架橋がある。東京の第1工兵大隊、近衛工兵大隊は荒川のそばに衛戍した。仙台(第2)、名古屋(第3)、広島(第5)、熊本(第6)もそれぞれに大河がそばにある。大阪師団の第4工兵大隊だけは、京都近郊の伏見にいたのだった。
 1889(明治22)年には徴兵令を改正し、予備役・後備役の制度も新たに改正し、戦時には平時の3倍以上の人員を集められるようにした。

明治23年の師団定員令

 1個師団の平時人員を明らかにする「定員令」がある。師団は総人員数9199名で軍馬の数が1172頭である。
 歩兵聯隊は人1721、馬14頭。したがって旅団司令部と合わせて、旅団は3449名と馬は33頭である。砲兵聯隊は野砲大隊2個、山砲大隊が1個で人員722名と馬匹は輓馬(ばんば・砲車を牽引する)、駄馬(だば・山砲を分解して背に載せる、ほか荷物を運ぶ)の合計が311頭になった。騎兵大隊は3個中隊で人員512名、馬は462頭、工兵大隊は3個中隊で408人と馬匹19頭である。輜重兵大隊は2個中隊、人が622人、馬は298頭だった。
 もちろん、これが戦時になれば「動員」がかかり、約2万人の野戦師団になる。
 次回はいよいよ日清戦争の工兵について調べてみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)11月25日配信)