陸軍工兵から施設科へ(56) 新幹線走る!

驚いた権利の侵害

 驚きました。立憲民主党の打越某という参議院議員が19日に山際大臣に「世界平和統一家庭連合」の信者かどうか質問したのです。わが国の憲法では、その第19条で「思想および良心の自由」をいい、第20条では「信教の自由」を保障しています。それを平然と踏みにじって、相手に信仰の告白をさせようというものです。
 今朝、土曜日〈22日〉の産経新聞の記事によれば、その所属政党の「立憲」がほんとうかどうかという反響があるといいます。代表の泉某は「公人として聞かれるべきかは、実際の国会の中で判断されてゆくことだ」などと意味不明な答弁をしたとか。社会に悪影響があると思うがという質問には「御意見として承っておく」とのこと。
 正直に言って、そうしたことは驚くことではありません。あの旧民主党の流れを受けた「立憲」民主党の人たちは、自分たちは絶対正しいという集団ですから当然です。多様性は認めない、人の権利は無視する、自分の利益のためなら口から出まかせに適当なことを言う。私たち反対意見をもつ人々を愚民扱いして、正しい道に導いてやろうという人たちです。もちろん、彼ら彼女らは愚民の意見など聞く気もありません。それが代表の、「承っておく」という言葉に明らかです。
 あの悪夢の民主党政権時代、それは「思想傾向」を調査された経験をもつ私には経験済みです。わたしは講話内容や著作の中身についての報告書をあげられました。当時の防衛○○官からの指示だったそうです。もちろん、私だけではありません。多くの防衛省に関わる人たちすべてに調査、統制の手は及びました。そんなことは自民党政権ではあり得ないことでした。指示された担当官たちの、たいへん申し訳ないといった口調には苦渋が溢れていました。

所得倍増の時代

 戦後復興の時代、昭和30年代、つまり1955年からの10年間は熱い時代でした。『日本の戦後まるごとデータ博物館』(日下公人監修、1995年、日本文芸社)によれば、1956(昭和31)年の都市勤労者世帯の平均月収が約3万1000円、それが1966(昭和41)年には、約7万5000円となっています。実に10年で2.4倍です。
 よく使われたエンゲル係数、つまり全支出に対する食費の割合も豊かさの指標の1つになるでしょう。昭和31年には42.9%、約2万7500円が、同41年には35.1%に下がり、約6万3400円になっています。
食事の内容も大きく変わりました。1人1日当たりの摂取カロリー量が約2200キロカロリーは同2500キロカロリーに増えて、しかもカロリー構成も動物性食品が割合を増してきました。穀類・いも類が74%を占めていたのが63%に減って、ウィンナーやハム類の消費が増えて、6%から10%に変わります。
楽しいのはラーメン・ライスです。今の若い読者の方々には、理解しにくいかも知れません。主に醤油味のラーメンは庶民の味方でした。正確には昭和30年代後半から40年代の初めでしょうが、ラーメンは40円から64円に価格があがりました。それでもラーメンを半分食べた頃にライスを入れて、雑炊風にして食べる姿がよく見られたものでした。
最後に「家電の三種の神器」という言葉がありました。白黒テレビに、冷蔵庫、洗濯機です。この家庭への普及率が興味深い。まず、白黒テレビは昭和31年には2.1%、冷蔵庫は0.6%、洗濯機が5.2%でした。それが10年後には、それぞれ94.1%、61.6%、75.5%になりました(いずれも全世帯数での普及度です)。
1953(昭和28)年にシャープ(当時は早川電機)から発売されたテレビジョンは小さな奥行きのあるブラウン管に映し出すものでした。チャンネルの切り替えはガチャガチャと回すダイヤルです。これがカラーテレビに変わるのが、「オリンピックをカラーで見よう」というキャンペーンで1964(昭和39)年のことでした。テレビで情報を得る次代の始まりです。これまでは新聞、ラジオ、そうして映画館のニュースが世の中を知るアイテムでした。
冷蔵庫はまた庶民の憧れです。手に入れたばかりのテレビに流れるのは、豊かなアメリカの家庭ドラマでした。大きな、主婦の背丈を越すような電気冷蔵庫がありました。そこからはハムやバター、牛乳が出てきます。わたしたちは木製の氷冷蔵庫しか知りませんでした。冷たい空気が下に流れる原理を使った、最上部に氷の塊を入れておくものです。氷屋さんがリヤカーにのせてきた氷塊をノコギリで切って交換していました。肉や魚の保存技術が進み、氷も手に入りやすくなったのです。
洗濯機といえば、もう洗濯板も学校の資料室などに保存されているものが残っているだけでしょう。石鹸をつけて、ゴシゴシと溝が彫られた板にこすりつけて洗い、手で水気を絞って干していました。それが粉せっけんと共に衣類を中に入れると回転します。絞るには上部についた回転する手回しの2本の棒の間を通しました。脱水器という言葉を初めて知ったのはこれでした。ジャアーと気持ちよいくらい水が落ちました。主婦の家事労働がずいぶん少なくなったのです。

広軌の新幹線を造ろう

 「過密ダイヤ」という言葉も忘れられています。ダイヤとは鉄道用語のダイヤグラムのことで電車、列車の運行予定表をいいます。過密とは、安全性をぎりぎり守って運転することでした。東海道線の輸送力を増やす、これが新幹線計画だったのです。
 全線電化を達成したこの技術を生かし、東京-大阪間を3時間で結ぼう。これを合言葉に国鉄技術陣は電力、車輌、軌道、信号などの面で研究を重ねました。その始まりは十河信二(そごう・しんじ)という国鉄総裁の就任が始まりでした。十河は1884(明治17)年に愛媛県に生まれて東京帝大法科大学(法学部の前身)卒後に鉄道院に奉職し、広軌論者であった後藤新平に愛されたといいます。
 アメリカに鉄道研究のために留学し、南満洲鉄道の経営にも参画し、1955(昭和30)年に高齢にもかかわらず、周囲の懇望に応えて総裁に就任します。多くの国鉄マンに尊敬され辞任を惜しまれましたが在任8年はまさに記録保持者です。
 十河のしたことは3つあったと青木槐三氏はいいます。まず、国鉄の技術研究所の充実です。当時、大胆にも20億円の巨費を投じました。大卒の初任給がほぼ1万円の時代です。いま初任給が20倍になったと考えると現在の400億円にもあたるでしょうか。
 次に鉄道教習所を充実しました。もともと職員教育、研修のために明治の末に後藤新平総裁が開いたものです。近代化した鉄道を運営できる職員の養成を重視しました。最後に、45万人の職員の保健問題に力を入れました。健康診断や病院の充実などに金を惜しみませんでした。
 この技術研究所が大きな役割を果たしました。(つづく)
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和四年(2022年)10月26日配信)