陸軍工兵から施設科へ(11) 日露戦争の工兵の戦い(1)

ご挨拶

 皆さま、今年もいよいよ残すところ10日余りになりました今のところ、わたしの身の回りには罹患された方も、その濃厚接触者とされる方もおりません。ただ、自衛隊の看護官の派出があったように、医療機関の皆さんの体力も限界ではないでしょうか。

砲兵と工兵は大きかった

 明治の中頃、歩兵は身長5尺2寸以上の甲種合格者から選ばれた。約158センチメートルである。今のように、男性成人の平均身長が170センチの時代ではない。1897(明治30)年頃の男子成人の平均身長が154センチの時代である。
現役の歩兵は世間の男性の中では、やはり堂々たる偉丈夫(いじょうぶ)だった。砲兵や工兵は、それよりも大きかった。砲兵や工兵の現役兵になったのは、5尺4寸以上の青年だった。それは最低でも164センチである。成人男性の平均よりも10センチも大きかったのだ。
「日本陸軍の工兵や砲兵は、歩兵と比べて明らかに身長と体格が違った」というのが、西欧の観戦武官(従軍した外国軍将校)の日記に残っている。最低基準が6センチも違っていては、大きな砲兵・工兵と小さな歩兵では、頭一つ違うと見えても仕方がない。
 ついでに1888(明治21)年の検査の記録をみてみよう。受検者の総人数は約30万3000人で、身長が5尺以上(151.5センチ)あって、他の面でも合格基準を満たしているのは全体の56%だった。
 これが1913(大正2)年だと受検者の平均身長は158.2センチに伸び、1926(昭和元)年にはさらに159.4センチとなっている。そこで、翌年施行の「兵役法」では、身長155センチ以上を合格とした。
 身長、体重、胸囲、視力(裸眼で0.6以上)、色覚などを役所の係員や衛生下士官が測定し記録をする。総合判定を下すのは徴兵医官といわれた軍医官や、民間から委嘱された医師である。裸体にされて、肛門を調べ(慢性の痔などがないか)、性器をしごいたという。性病などを軍隊に持ちこまれたら大変だから、軍医もむきになるのである。同じように、胸膜炎や結核も軍隊からは嫌われた。それこそ「密」であるのが軍隊生活である。伝染病は、敵を見もしないで戦力をそぐ大敵だった。
 身体検査だけでは、兵科も役種(現役か補充兵か)も決まらない。兵科ごとの必要新兵数は師管区ごとに決まっている。大正時代や昭和戦前期では籤(くじ)を引いて、甲種・乙種の中から現役兵や補充兵を選ぶのがふつうだった。

前職が影響した兵科決定

 さて、前職である。いまのように、97%近くもの若者が高等学校、あるいは同等の学校に進み、働いていない社会とは異なる。いま手元にある明治33年度「大阪府壮丁学力調査」によれば、全員で1万2250人である。
 そのうち中学卒業の者が31人でしかなかった。0.25%である。中学卒業生と同等の学力があると認められた者が163人、1.3%で、合計しても約1.6%。これが働いて家に金を入れなくてもいい階層にあたる。
「昔の貧しいけれど、頭のいい少年は軍学校に進んだ」などという定説を語る人がいるが、当時だって中学を出ていなければ入学はなかなか難しかった。だから、士官学校へ入ったのは確かに大金持ちではなかったにせよ、決して貧しい家の子ではなかった。中等学校の5年間もの間、働かなくて済む家の子だったことは確かである。
高等小学校(当時は尋常科4年だけが義務教育だった)卒業と、同等の者は1739人、全体の14.2%で、この人たちは入営すると多くが上等兵になった。しかも、「短期伍長」という制度があって、現役の3年目には伍長になって勤務し予備役になる。そうした下級幹部養成システムの花形だったのが、当時の高等科卒業生である。
続いて尋常小学卒業生(2687人)と同等者(2021人)がいて、全体の38.4%だった。さらに「稍(やや)読書算術を為し得る者」が2738人、22.4%である。そうして、「読書算術を知らざる者」が2871人で全体に占める割合は23.4%もいた。これが明治の社会の実態の一部である。
兵隊検査を受ける若者の45%もが、「稍(やや)」と「全く文字が読み書きできず、計算も出来ない」のだ。これが、近代社会を建設して30年の実態である。これもまた定説では、「日本人の識字率は世界でもひどく高く、ほとんどが読み書きできた」ということが言われてきた。どこからそうした認識が出たのだろうか。少なくとも欧米との比較でいえば、明治の日本人は決して先進国と肩を並べるといった程度ではない。

体格と甲乙丙丁戊種の実態

 中学卒業、その同等者である194人のうち、甲種は50人である。丙種は67人もいた。学歴がある者の4人に1人(25.8%)が甲種で、体格が良かった。おそらくは近視眼による視力不足だっただろう。高等小学校とその同等者は1739人で、甲種は654人で37.6%だった。同じように尋常科卒と同等者は、甲種の率は44.6%である。
 学歴や学力が低い者は、甲種になる率が低い。甲種は34.4%だった。丙種である率もとても高かった。およそ35%にもなった。丙種全体が3661人で、この階層はその53.6%も占めた。
 こうしてみると、現役兵になった甲種合格出身の兵士は、学校歴も学力も高く、また健康な者であったことが分かる。
 甲種が全体に占める比率は38.4%、補充兵に充てられた乙種は21.8%、国民兵役に編入された丙種は29.9%、不合格の丁種は9.7%、翌年の再受検を命じられた戊種は0.21%だった。
 こうした中で工兵になる者は、読み書き算術ができて、腕力のある者とされた。市町村役場の兵事掛によって作られ、聯隊区司令部に送られた「壮丁身上書」などには細かく、小学校の成績や、卒業後の動静などが書かれている。
 多くの少年たちは10歳から12歳で親元を離れた。あるいは、農山漁村では、家族の中で労働をしていた。入営前の経歴が、鳶職、土工、木工、馬方などと記載されていたら、工兵に指定されることが多かった。また、学校の成績が良く、馬に慣れている者は輜重兵や騎兵になることが当たり前だった。騎兵は戦術的な知識がなくてはならないし、輜重兵は多くの輸卒の指揮をする。砲兵や工兵も、理数的な能力が高いことが要求される。
 では、次回は平時の工兵と動員された後の工兵部隊を調べてみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)12月23日配信)