特別紹介 防衛省の秘蔵映像(11) 防衛論議高まる ─昭和53年映像─
昭和53年映像の紹介
https://www.youtube.com/watch?v=8Q-MD79WHFI
はじめに
各地で春の知らせが相次ぐなか、新たな施策がされました。「まんぼう」とかマスコミが略称する「まん延防止等重点措置」が適用されるとのこと。じゃあ、これまでに出された「緊急事態宣言」とどう違うか。わたしも素人なので聞いてみました。
これは気象情報でいえば、注意報と警報の違いだよと答えてくれた友人がいます。国民の行動制限に関わるから大切だとも聞きました。端的にいえば、警報への前段階にあたるそうです。それにしても東京、大阪、京都については心配になります。また人口10万人当たりの陽性者数にも注意が必要です。沖縄県の情勢は油断できません。
観光業、飲食業関連の方々の苦衷が分かります。今度はGWも措置下になります。大変な誤算だったことでしょう。せめて、貢献をしたいと思っています。
栗栖弘臣統幕議長の発言事件
この昭和53(1978)年頃、正確には前年に男性の平均寿命が72.69歳、女性は77.95歳となりました。いずれも世界一です。ヨドバシカメラ、メガネドラッグ、流通卸センターなどのディスカウントショップが大盛況でした。
3月には福井県敦賀市の国産初の発電用原子炉「ふげん」が臨界に達して7月29日から送電を開始。国民の原子力アレルギーも少し収まりかけた頃でした。
7月28日、統合幕僚会議議長栗栖弘臣(くりす・ひろおみ)陸将が、週刊誌上で今から見ればごく当然の発言をしました。「敵から奇襲を受けたとき、現行法制では総理大臣の防衛出動命令まで動けません。そんな時には、自衛隊は超法規的行動をとらざるを得ない」という言葉でした。防衛法制の不備を指摘する、国防の現場を預かるトップとして、ごく当たり前の主張をされただけです。
この超法規的行動と名付けたのもマスコミや敵対勢力でしたが、文民統制を否定するものだという意見を大新聞社やテレビもひたすら流しました。自衛隊は戦争を勝手に始めようとしている、許せない、戦前の軍国主義の世界がまたやってくる、あの軍靴の響きがまた聞こえると連日の報道でした。
真相は分かりません。当時の防衛庁長官は山梨県選出の金丸信代議士でした。勝手な、文民優位を否定する発言をしたということで栗栖陸将は罷免され、退官されました。聞いた話では、栗栖陸将は辞表を懐(ふところ)にして、長官の呼び出しに応じたそうです。自身の進退を覚悟した職を賭しての発言だったのでしょう。
栗栖氏は1920(大正8)年に生まれ、旧制第一高等学校(現在の東京大学教養学部の前身)、同東京帝国大学法学部を卒業。高等文官試験(現在の国家公務員1種試験)に合格、内務省に入りますが、1943(昭和18)年、海軍短期現役法務科士官に採用され、法務中尉に任官します。
戦時中に法務大尉に進み、戦後は戦争犯罪人裁判の弁護をされました。復員後は内務省に戻らず、51(昭和26)年に警察予備隊に入隊、警察士長(現在の3等陸佐)になります。その後、部隊勤務、幕僚業務、フランス防衛駐在官も経験します。第13師団長(広島県海田市)、東部方面総監から76(昭和51)年に陸上幕僚長に選ばれました。陸軍士官学校出身者ではない一般大学出身の陸上幕僚長でした。
その後、栗栖氏は当時の民社党から参議院東京選挙区から出馬されますが落選。著述などに精力を注ぎます。わたしは、栗栖氏の「国民の生命・安全・財産を守るのは警察の仕事である。自衛隊は国の独立を守るのだ」というご発言に大きな感動をいただきました。栗栖氏は2004(平成16)年に亡くなりました。
いすゞのサントンハン登場
自衛隊の車輌でもっともよく眼にするものはといえば6輪のトラックでしょう。後部の荷台はキャンバス製の幌に覆われ、後ろのタイヤはダブルです。サントンハンとは、路外積載量3トン500キログラムを自衛隊風に言い表したものです。
制式名称は73式大型トラックといいます。それまでの米軍規格のトラックと異なり、軽油を使うディーゼル・エンジンです。キャブオーバー型(運転席の下にエンジンがある)なので、視界に優れています。初期型はライト(前照灯)が丸形で、変速機もマニュアルです。人員なら22名を載せることもできて、路外では3.5トンの積載量ですが、舗装路などでは6トンも積めます。軍用トラックですから、クリアランスも高く、必要によって全輪駆動にもできたところが特徴です(現行型は常時6輪駆動)。
このトラックの完成度の高さは、なんといっても各種装備のプラットホームになっているところでしょう。小型クレーンの付いたユニック・モデル、ダンプ、水タンク、燃料タンク、地対空誘導弾・・・なんでもありです。
30型ロケットの雄姿
北部方面隊美唄(びばい)駐屯地所在の第126特科(砲兵)大隊の30型ロケット24基の姿が見えます。これこそ当時の北部方面隊の大火力部隊でした。制式名称は67式30型ロケットといいました。
来攻する敵第一線師団の全縦深(ぜんじゅうしん、最前部から最後尾まで)を奥深く制圧するのが目的です。実に1960(昭和35)年から68(昭和43)年まで8年間6次にもわたる試作を繰り返し、日産自動車で生産されました。弾は同じく日産自動車で開発された68式ロケット榴弾です。射程は約28キロメートル、当時の155ミリ加農を大きく上回りました。
発射機は日産自動車の4トントラックの上に2連装の発射台を載せたものです。その使い方は弾を積載したまま走り、迅速に発射できる自走砲ですが、附属として装填機、クレーン、吊下(ちょうか)装置をもち弾の組み立てに使いました。
「しらね」の進水
対潜ヘリコプター搭載護衛艦「しらね」が進水しました。真偽はともかく、金丸防衛庁長官に忖度した方々がいて、この新造艦に山梨県の山名をつけたとか言われたとのこと。そうでもなければ、「白根山」が選ばれるとは・・・。「はるな」は関東の名山群馬県「榛名山」であり、「ひえい」は滋賀県・京都府の比叡山、いずれも戦前海軍の歴戦の巡洋戦艦名です。
それから考えると、この「しらね」はいささか唐突です。白根山は南アルプス白根山系の北岳、その南側の間(あい)ノ岳、農鳥(のうとり)岳の3山の総称になります。確かに古くからの名山ですし、甲斐の国の象徴かも知れませんが。次の4番艦がやはり京都府の名山であり、旧海軍の巡洋戦艦だった鞍馬(くらま)と命名されたことから考えると、やはり陰口が出るような背景があったのでしょう。
ともあれ、この「しらね」は2年後に竣工、次の「くらま」はやはり3年後に竣工です。そうして海上自衛隊は4隻のDDH(ヘリコプター搭載護衛艦)を4隻持つことになりました。
護衛艦発達史
ここまでで海上自衛隊の艦艇整備、とりわけ戦闘の主力である護衛艦についてまとめておきましょう。防衛庁の映像では、次々と新しい艦艇が紹介されますが、それだけでは分かりにくいでしょう。そこでここまでの歴史を4期に分けてみます。
最初は国産化の時代です。始まりを1期とし、その量産化の時期を2期とします。つづいてアスロックなどの最新装備を載せた第3期、そうしてヘリコプター搭載化が進んだこの昭和50年代を、わたしは第4期と学びました。
護衛艦は昔の海軍でいう駆逐艦です。駆逐艦の元はデストロイヤーです。元々は、水雷艇駆逐艦といい、高速で小型の水雷艇を駆逐するものだったようでした。皮肉なことに結局、魚形水雷(魚雷)の発達で、これで雷撃戦力を高めようとしたのが駆逐艦です。
第2次大戦には、艦隊決戦に使われる「艦隊型駆逐艦」と船団護衛に従事した「護衛駆逐艦」に分かれます。護衛駆逐艦はデストロイヤー・エスコート(DE)とされました。わが海上自衛隊にまず供与されたのは、艦隊型(DD)では「あさかぜ」、「はたかぜ」でした。また、「ありあけ」、「ゆうぐれ」の2隻もDDです。主砲は5インチ(127ミリ)で、速力も35ノット(約65キロメートル)も出ました。
これに対して、「あさひ」、「はつひ」はDEでした。主砲は3インチ(76.2ミリ)、40ミリの連装機銃が次いで、爆雷兵装が重視されます。速力よりも航続距離が重視され、最高速度も20ノット(約37キロ)と低いものでした。
第1期はDDとして1956年に「はるかぜ(DD101)」型が就役します。同時に地方隊用のDEとして「あけぼの(タービン機関)」、「いかずち(ディーゼル機関)」が造られました。いずれも1956年に就役しました。
続いての第2期には、対潜水艦能力を重視した「あやなみ(DD103)」(1958年)、対空能力をねらった「むらさめ(DD107)」(1959年)が造られ、1960(昭和35)年には両方を合わせた「あきづき(DD161)」が就役します。このときのDEは「いすず(211)」(1961年)です。ディーゼル推進でした。
第3期が対潜水艦用の新型兵器アスロックを搭載する「やまぐも(DD113)」(1966年)、また無人ヘリコプター・ダッシュを載せた「みねぐも(DD116)」(1968年)になります。この系列はさらにアスロックとダッシュを併せて装備する「たかつき(DD164)」(1967年)に発展し(「あきづき」の発展とも考えられます)、これは当時としては最強の対潜艦です。
そうして、初めての対空誘導弾搭載護衛艦「あまつかぜ(DD163)」(1965年)も生まれます。DEは艦番号215「ちくご」が1970年に就役しました。
昭和50年代後半が4期と言えましょう。「やまぐも」、「はつゆき」の後継である「はつゆき」型の登場です。1982年、つまり昭和57年のこと、対潜水艦ヘリとSSM(艦対艦ミサイル)を積んだ護衛艦になります。
対空ミサイルの能力が高い「たちかぜ(DD168)」(1976年)、そして「はたかぜ(DD171)」(1986年)がこの時期です。今回、解説した「しらね」は1973年就役の「はるな」の後継ですが、個艦防空能力も重視しています。シー・スパロー・対空ミサイルも装備しました。
そして「はつゆき」も「あさぎり」型に改良されます。1988(昭和63)年の就役です。昭和の終わりの艦になります。
そうして地方隊(護衛艦隊ではなく地方総監部に属する)のDEには「いしかり(226)」と「ゆうばり(227)」の2隻が、それぞれ81年と83年に就役します。この2隻は対潜水艦用のアスロックの代わりに対艦戦闘を重視してSSM(艦対艦ミサイル)を装備しました。
もっとも、この2隻はそれぞれ同型艦をもたず、ある意味、実験艦の性格をもつものでした。
(あらき・はじめ)
(令和三年(2021年)4月14日配信)