特別紹介 防衛省の秘蔵映像(28) 新防衛計画―平成の大軍縮(1)

1995(平成7)年の映像紹介
https://www.youtube.com/watch?v=qOvDvnV3bXY

はじめに

 線状降水帯により記録的な大雨被害が起きています。九州、中国、近畿、中部の知人からは、記録が更新される降水量について、水害についてお知らせをもらいました。梅雨の再来です。気象が変わってきているのでしょうか。
 コロナ禍も収まらず、新しい株に変異し、政府、自治体はまた人流を減らせと同じようなことを言っています。飲食業界に親しい人が多いわたしは、なんとも具体的な応援ができません。酒類の提供禁止、営業時間の短縮、複数人での会食禁止、このままでは飲食業界もお先真っ暗です。
 とうとう首都圏では、デパートの地下食料品街も入店制限とか。事実をきちんと発表しながら為政者も的確な手を打つことが出来ないのでしょうか。あれよせ、これよせ、出かけるな・・・我慢すれば、ほんとうに良くなるのか。人流を減らし、同時に交流も不可能にしてしまいました。
 今回から数回にわたって「新防衛計画」、平成7年の「07(まるなな)大綱」についてご紹介したいと思います。いまの事態、自衛隊の現状につながる重要な内容です。

平成の大軍縮

 映像はいきなり新しい防衛計画の解説に入ります。街角インタビューで年齢層の異なる方々に「自衛隊に何を期待するか」という問いを出していました。
ある男性は、「軍隊になるわけではないから、もっと防衛費を増やすべき」と答え、壮年の男性は「しっかり国防をしてもらいたい。しかし、防衛費は増やすな」と言い、若い女性は「防衛技術の移転などを工夫したら」、落ち着いた女性は「災害などで指揮命令系統がしっかりしていないから不安」とまちまちな答えが返ってきています。
1995(平成7)年11月28日、連立政権の首班村山富市首相が率いる閣議は「新防衛大綱」を決定します。この大綱は20年ぶりに見直されたもので、平成8年度以降に関わる防衛計画の大綱であり、翌年「中期防衛力整備計画」も見直しが決まります。ポイントは3つです。
(1)合理化・効率化・コンパクト化が標榜されました。総兵力や装備の大削減です。とりわけ陸上自衛隊がその姿を大きく変えることになりました。陸自はさまざまな議論を経ながらも、一応は拡大と発展の道をたどってきました。戦略単位としては13個師団と2個混成団を育ててきたのです。人員数も定数は18万人でしたが、今回の新大綱によって定数は16万人、9個師団と6個旅団という編制に変わることになりました。
(2)機能の充実・質的向上を挙げています。これまでのような他国からの侵略事態だけでなく、大規模災害など多様な事態に有効に対応できるようにするとしました。この年の初めに起きた阪神・淡路大震災で自衛隊の評価は大きく高まりましたが、正面から大規模災害への対応をうたったのは初めてです。装備の更新・近代化、情報・指揮通信機能の充実、技術研究開発の推進などを図り、必要な機能の充実及び防衛力の質的な向上に努めるとあります。
(3)弾力性の確保もうたわれました。いままでの予備自衛官に加えて、即応予備自衛官を確保し、有事などの事態の推移に円滑に対応できるよう、防衛力に弾力性をもたせるようにします。18万人体制といいながら、実際のところ決して定員が満たされたことはありませんでした。定員通り人がいない、そうしたことを低充足といいますが、充足率を上げるためのリストラをするということになります。

世界の流行-軍備縮小

 1980年代後半から90年代にかけての東西冷戦の終結、東側諸国の民主化、まさに世界の大勢が変わりました。ヨーロッパでも自由主義諸国のNATO(北大西洋条約機構)軍と社会主義体制諸国のワルシャワ条約機構軍が対峙し続けた半戦時体制も終わります。ヨーロッパ諸国では軍備縮小の嵐が吹きました。英国もドイツも、みな火砲や戦車を減らします。
 だからといって欧州とアジア情勢は必ずしも同じではないのに、軍縮の気分はわが国にもやってきます。まるで70年前の世界大戦後と同じように、「もう戦争は起きない」、「敵がいなくなった」とマスコミも、平和主義者の学者たちも声を揃えました。わが国の歴史でも同じことが繰り返されます。
大正時代のマスコミや識者と同じように、評論家や軍事ジャーナリスト、学者という人たちが「陸上兵力は非生産的だ」、「もう戦争も起きないのに」、「ロシアは友好国だ」、「中国は友達だ」と口をそろえて言いました。政治家もまた、根拠のない数字を持ちだして、兵力の削減を言いだします。
時代はまさにバブル経済崩壊から、まるで将来が見通せない大不況の真っ最中でした。財政負担の削減、それは自衛隊のリストラだとなったのです。四半世紀後には中国が強大化すること、北朝鮮が核兵器をもって周辺諸国への恫喝に使うことなど、誰も考えていませんでした。
 映像では戦車が1200輌から900輌に、海自の護衛艦が60隻から50隻へ、空自は戦闘機を350機から300機に減らされることが説明されています。

減ってしまった新装備と訓練の紹介

 新しい装備の紹介には陸自の「96式多目的誘導弾システム」と海自護衛艦の戦闘指揮システム、空自のF-15Jしか出ていません。この96式多目的誘導弾システムは通称「重MAT」といわれた79式対舟艇対戦車誘導弾の後継として開発されました。着岸する前の敵上陸用舟艇の撃破や遠距離からの対戦車戦闘を任務とします。
 ミサイルは、上空から赤外線シーサーで目標を探し、赤外線画像をファイバーで射撃指揮装置に送ります。射手はTVモニターで画像を見ながら識別し、追尾指示を送り、ミサイルは画像追尾によって目標に命中というシステムです。射程は約8000メートルといわれますから、師団対戦車隊や普通科連隊対戦車中隊に配備されれば、戦力の向上になるでしょう。
 しかし、「新大綱」は大規模な災害や、国際平和協力活動を正面に掲げました。国連平和維持活動(PKO)や人道的国際救援活動、海外の災害への国際緊急援助活動などへシフトしてゆきます。単なる国防組織、国内への災害派遣活動組織ではなく、海外へも出かけることがふつうの組織になったのです。
 先年ようやく活動を終えたゴラン高原派遣輸送隊も出かけます(平成8年1月)。その初代隊長が、後にイラクにも出かけた佐藤正久参議院議員です。佐藤2佐の若いころの映像が出ていました。また、政府専用機を使った「在外邦人救助訓練」も行なわれます。地下鉄サリン事件もありました。予想もしない災害でした。化学科部隊の活躍が報じられました。
 映像にはそれまで紹介されたこともない給水車や炊事車、野外風呂などが登場します。海自も輸送艦で被災地への物資輸送を行なっていました。雲仙天草普賢岳の災害派遣の終了に際して当時の長崎県知事が「地球より重い人命があり、人命より重い使命感を見ました」と自衛隊の活動を讃える挨拶がありました。

陸自の編成替え

 自衛隊の経費の中でもっとも高い比率を占めるのは人件・糧食費です。企業などではリストラといえば解雇というイメージでしたが、3自衛隊で何よりも大ナタを振るわれたのが人員削減でした。とくに陸上自衛隊が対象となりました。
 削減前の陸上自衛隊の編成を説明しましょう。当時は防衛庁長官のスタッフである「陸上幕僚監部(ふつう陸幕という)」、方面隊以下の「実働部隊」、その第一線部隊を支える後方部隊の「補給・教育・行政等」の3種に分かれます。「実働部隊」は「方面隊」と「その他の長官直轄部隊」に分かれます。
 方面隊(方面総監を長とする。階級は陸将)は、わが国を5つのブロックに分けて、各方面隊には総監部と2個から4個の師団、その他の総監直轄部隊があります。直轄部隊は、混成団、特科団(砲兵旅団)または特科群1個、施設団(工兵旅団)1個、教育団もしくは教育連隊1個、その他長官が定める部隊です。
 師団(指揮官は師団長、階級は陸将)は師団司令部と普通科(歩兵)連隊3個から4個、(ただし第7師団=機甲師団だけは1個普通科連隊と3個戦車連隊、高射特科連隊1個)、戦車大隊1個、特科連隊1個、後方支援連隊1個、施設大隊、通信大隊、高射大隊、航空隊などで編成されています。
師団は、北部方面隊に4個、東北方面隊に2個、東部方面隊に2個、中部方面隊には3個師団、西部方面隊には2個師団と合計13個、四国と沖縄にはそれぞれ1個混成団が置かれていました。この15個の戦略単位を、9個師団6個旅団に大改革を行なったのです。

師団の個性化

 師団として存続が決まったのは、北部方面隊の第2(旭川)、第7師団(千歳)、東北の第6(山形県神町)、第9師団(青森)、東部は第1師団(東京)のみ、中部は第10(名古屋)、第3(兵庫県伊丹)師団、西部は第4(福岡)、第8(熊本)です。
旅団(旅団長は陸将補)になったのは第5師団(帯広)、第11師団(札幌)、群馬県の第12師団(榛東村)、広島県の第13師団(海田市)でした。沖縄の第1混成団と四国の第2混成団は、それぞれ旅団になります。
 この改編で運用構想も大きく変わります。防衛上、特に重要な地域とされているのが、宗谷海峡(担任は第2師団)、津軽海峡(同第9師団)、京浜地域(同第1師団)、阪神地域(同第3師団)、九州北部(同第4師団)でした。
これに加えて、「上記に準じた重要性を有する地域」として、根室海峡(担任は第5旅団)、石狩湾(同第11旅団)、沖縄(同第15旅団)があげられました。
 注目されるのは、これまでの北方重視、対ロシア一辺倒というより、西方への対処、すなわち対北朝鮮も警戒するようになってきたことです。また師団・旅団の役割から、第1、第3、第4の各師団は「政経中枢師団」といわれ、「沿岸配備師団・旅団」は第2、第9師団、第11旅団、第15旅団のことをいいます。
 第13、第12の各旅団、第6、第10、第8の各師団は「戦略機動旅団・師団」となりました。とりわけ群馬県榛東村(相馬原駐屯地)の第12旅団は「空中機動旅団」といわれ、輸送用大型ヘリコプターをもちました。
 これまでのように、全13個師団が「金太郎飴」のように、どこも同じ編成・装備をもつようなものでなくなったことが大きな変化でした。旭川の第2師団を例とすれば4個普通科連隊に戦車連隊1個(他の師団には大隊です)が付きました。また特科連隊(4個大隊)は1個大隊が3個中隊(15門)となり、第5大隊がつき、MSSRといわれた75式自走多連装ロケット弾発射機が配備されます(のちに多連装ロケットシステムMLRSに改編されました)。敵の着上陸に対処し、海岸で撃滅する戦力を必要とするからです。
 師団の人員規模は9000人ないし7000人。これに対して旅団は4000人です。旅団普通科連隊は「軽」普通科連隊といわれます。師団普通科連隊は本部管理中隊の他に重迫撃砲中隊や対戦車中隊、小銃中隊が4個といった大規模なものですが、それと比べて軽量化しています。本部管理中隊と3個中隊です。旅団には戦車中隊、旅団特科隊、同施設隊などという規模を小さくした支援部隊がついています。
 もともと、旅団では連隊をなくして普通科大隊を設けるつもりだったという話を聞きました。でも、地域の支援者の方々やOBたちの気持ちを考えると伝統ある連隊旗(自衛隊旗)を返納させ、名称もなくすということは人情として忍び難く、結局、連隊をなくすことはできなかったそうです。
 昔の陸軍の話を思い出します。大正時代の軍縮で4個師団の16個歩兵聯隊、4個騎兵聯隊がなくなりました。大きな衝撃だったそうです。また、伝統ある旅団の名称が復活したのは嬉しくも思ったものです。混成団という名称も諸兵科混成の独立混成旅団を思わせるものでした。

即応予備自衛官とコア連隊

 自衛隊には予備自衛官という制度があります。元自衛官が志願し、審査に合格すると、年間5日間の訓練出頭が必要とされる予備自衛官(予備自)となれます。防衛出動命令が発せられると招集され、後方支援や警備部隊の勤務に就くのが原則です。定員は当時、4万7900人でした。
 新大綱では、これと異なる「即応予備自衛官」という制度がスタートしました。「即自(そくじ)」と言っています。年間30日の訓練に出頭して定員は1万5000人です。現役の「常備自衛官」は14万5000人、これで定数16万人になっています。
 普通科を例にとると、師団普通科連隊は4個、うち1個がコア(核)といわれる招集された即応予備自衛官が主になる連隊になります。勤務する常備自衛官を基幹(きかん)要員といい、連隊長はじめ中隊長や本部勤務員は合わせて2割、そこへ8割の即自が招集されてきます。防衛出動だけでなく、災害派遣のときにも招集されるのが即自です。
 いまも即応予備自衛官の募集は行なわれていて、協力する企業には協力金も支払われているようです。年間で30日は訓練に応じているので、雇用する企業にも迷惑をかけるからという主旨なのでしょう。
 次回は海上自衛隊の当時の新大綱対処について考えてみましょう。
 
(あらき・はじめ)
(令和三年(2021年)8月18日配信)