特別紹介 防衛省の秘蔵映像(27) ルワンダ派遣と機関銃 ─平成6年映像(2)─

1994(平成6)年の映像紹介-(2)
https://www.youtube.com/watch?v=WQTZQU1VOC4

はじめに

 このとき、国会ではとんでもない話題で議論していました。部隊が携行する武器についてです。人道救援なのだから非武装で行けと主張したのは当時の社会党と共産党でした。政府側がそれを否定すると、自衛用の武器というが、人を殺傷する可能性のある地域に派兵するのか、だったら危険なところに行かせるのか、憲法9条に違反すると大騒ぎです。
 大新聞も「武器携行を許さない」、「武装派兵は戦争につながる」という記事で反対をしていました。テレビでは、現社会党党首のF女史が機関銃の模型の前で、「何これ?なんていうものかも知らないけど、こんなもの持って行って何しようと言うのかしら」と大きな声で騒ぎ、並んでいたコメンテーターがみな口を揃えて賛同していたのを覚えています。
 自衛用の機関銃は1挺か、2挺かでもめました。野党の言うことは明らかに「反対のための反対」でした。現地に行く自衛官たちの安全のことなど何も考えずに政府批判をするのが当時のマスコミや学界の常識です。また、それに同調するテレビの視聴者たち。もちろん、都合の悪い「街の声」はカットします。「派兵でまた日本が悪者になる」、「9条を何だと考えているのか」、「戦争に巻き込まれる」という一般人もずいぶんいたようです。

ルワンダの内戦

 部族間対立が問題だったようです。ルワンダは1962年までベルギーの植民地でした。そこに住む人たちは、圧倒的な数のフツ族(84%)と少数のツチ族(15%)、そしてごく少数のトゥフ族(1%)だったといわれます。独立の気運が高まるまで、ベルギーはフツを冷遇していました。ところが優遇されていたツチ族が強く独立を主張し始めると、一転、フツ族を優遇するようになったのです。独立後のフツ族からは大統領も出ました。
 1990(平成2)年頃から内戦が始まります。フツ族はツチ族を迫害するようになり、隣国ウガンダへ多くのツチ族難民が流れ込みました。その難民の中から「ルワンダ愛国戦線(RPF)」が組織され、ルワンダ軍と戦闘を交えるようになったのです。
 難民はコレラや、赤痢の蔓延もあり、多くの死者を出していました。わが国は国際連合難民高等弁務官事務所(UNHCR)からの要請を受けて、国際平和協力法に基づく初めての「人道的な国際救援活動」への協力を行なうことになりました。
 この年の7月にはPRF(ツチ族)による政権奪取があり、国連諸機関と欧米諸国の軍隊とNGOは難民の救援活動を本格的に行ないます。

金だけの貢献から人も出す

 8月にはスイス・ジュネーブで開かれた難民緊急援助会議で、日本は約3200万ドルの資金援助を行なうこと、人的支援の必要性を検討すると表明しました。外務省中心の政府第1次調査団は2日から11日まで現地におもむきます。そうして医療・衛生・浄水作業と給水・輸送等の業務を行なうなどで「自己完結性を持った組織」を促す報告書を作ります。
 自己完結性のある組織、それはわが国では陸・海・空自衛隊しかありません。他の組織の援助や協力がなくても活動できる。それが自己完結性です。自衛隊を出す、そういった話がどこで、どのように決まったかは分かりません。8月12日に官房長官が「自衛隊の派遣を含め、あらゆる可能性を検討する」と発言します。
 18日には連立与党は自衛隊派遣に基本的に合意。第2次調査団が送られます。22日からのことでした。今度は防衛庁からも調査員が加わります。治安は悪化しているという報告がありましたが、岩垂議員を長とする与党社会党調査団は自衛隊の派遣を急げと指摘しました。これもまた、今から見ればどういうことか。
 9月13日、閣議決定がされました。ルワンダ難民救援国際平和協力業務実施計画です。基本方針は自衛隊の部隊等により、医療、防疫、給水、空輸等の業務を実施するということでした。

指揮通信車と機関銃1挺

 陸上自衛隊は280名あまりの隊員を派遣します。そのときに「過剰武装」だと与党社会党からも反対意見があり機関銃は1挺とされました。素人のわたしにはよく分かりませんでしたが、器械は故障します。素朴に、おかしなことを言うものだと思いました。また、自衛隊が主張した360度の全周警戒には2挺が必要だということにも、「誰と戦う気なんだ」などと罵声を浴びせる議員を見ました。
 装甲してある車輌は82式指揮通信車1輌だけでした。78年度から81年度にかけて開発されたこの6輪車は87式偵察警戒車と同じファミリーです。エンジンはいすゞ製の水冷4サイクルV型10気筒ディーゼルで305馬力を発揮します。73式装甲車などの軽合金ではなく鋼板が使われています。化学防護車も88年に同じファミリーとして制式化されました。いずれも小松製作所製です。
 武装は後部乗員室の右側ハッチに装備された12.7ミリ重機関銃と、前部操縦席左側ハッチのオプションで取りつける7.62ミリ機関銃でした。すいぶん軽武装です。何よりの売りは強力な通信機能でしょう。FM系、AM系のアンテナはそれぞれ干渉しないようにフィルターが付き車体の左右に取りつけられます。

部隊の業務

 自衛隊の医官はゴマ市内の病院で、主に難民キャンプから運ばれてきた患者の治療を行ないました。わが国では治療経験の少ない病気にも出合ったといいます。緊急の夜間診療も含めて10月10日から12月17日までの間に1日平均30名以上、延べ約2100名にものぼった外来患者の診療も行ないました。また、70件以上の手術も手がけました。
 ゴマ市内にある衛生試験場では、コレラ菌に関する検査方法についての共同研究やマラリア原虫、便の検査等も行ないます。野外手術システムや医療用のテントを持ちこみ、風土病やエイズの感染の危険の中で隊員たちは奮闘します。
防疫にも努めました。10月13日から12月11日まで、難民キャンプの共同トイレなどの消毒、シラミを駆除するための薬剤をキャンプに輸送しました。また、現地のスタッフにマラリヤの予防や、シラミ駆除の普及教育も行ないます。排水設備の整備がされていないので環境は不潔になっていました。水はけをよくするための排水設備の造成も自衛隊の仕事でした。
キブ湖という大きな湖がありましたが、水の汚染はひどいものでした。スウェーデンの給水チームから機材を引き継いで、10月20日から難民への給水活動を始め、12月17日までに1日平均1200トン、合計で7万トンの給水を行ないます。

評価された空輸

 空輸派遣隊は航空自衛官とC-130H輸送機が行ないました。ケニアのナイロビとゴマの間は片道約1000キロメートル、隊員や補給物資の輸送をやり遂げます。国連職員や救援活動を行なうNGOの要員や、その物資の輸送もしました。98便を運航し、延べ3400名もの人員を運びます。人の中には約900名のNGO要員も含まれました。物資は約510トンで国連からの要請された物資はそのうちの40%も占めました。
 ゴマの空港の整備状態はひどく悪く、滑走路の様子もひどいものでした。地上からの管制も不十分でしたが、わが航空自衛隊の隊員は無事故で任務を達成しました。そして日本からナイロビまでの物資輸送に初めて、ロシア製の大型輸送機アントノフ124がチャーターされたことも話題になりました。

何でも批判のマスコミ

 現地で事件が起きました。日本人の医療NGO構成員が武装集団の襲撃に遭いました。意図は不明ですが、なんらかの効果をねらっての襲撃でした。これに対して難民救援隊指揮官は、構成員の輸送を行ないます。ふつうに考えて当たり前の自国民保護、救援のために部隊は出たのですが、これが日本国内ではたいへんな非難にさらされました。
 こうした状況と対応案は国際平和協力法にも、現地部隊の実施計画にも明文化されていなかったので、マスコミからは大変な非難を浴びました。では、どうすればいいのか、海外で不慮の事故、暴徒に襲われたり、武装勢力に攻撃されたりしたら日本人は座して死ねというのでしょうか。いや、もともとそんな危険な所に行くなというのでしょう。
 こんなバカな話が、30年前のわが国にはいくらでもころがっていました。そうして、30年前にとんでもないことを言っていた人たちが、いまも言論界やマスコミにいるのです。
(あらき・はじめ)
(令和三年(2021年)8月11日配信)