陸軍工兵から施設科へ(71) 「大衆と歴史が証明する」という妄言

はじめに

 あの頃は誰もが中国など、今のように脅威となるなど誰も予想しませんでした。わが国は平和を謳歌し、インテリ(あるいはその予備軍と自任する青年)たちは貧しかったアジアの国々に引け目を感じていたのだと思います。
 それが中国やアジアへの贖罪気分になっていたのでしょう。戦前の日本人は悪かった、あの気持のよい中国の方々に迷惑をかけた、それが知識人を気取る人たちの流行でした。中国の紅衛兵(こうえいへい・文化大革命の活動の中心になった子供たち)の写真を見て、「見ろ!社会主義の子供たちの目は輝いている」と真面目に語った教育学者がいました。あれはカルトにひたった目ですよと発言したわたしはボロクソにいわれ、もうゼミに来なくてよいと言われました。
 今から思えば、そういうときに同調するのが保身に長けた大人というものでしょう。それにしても、みんな流行に染まり、同じことを言う人が多すぎました。現在もまだ、その名残が続いているのは、日本人の特徴なのでしょうか。

本多氏の情けなさ

 明らかに、当時の新聞記事は、ためにするための虚報だろうという主張に対して、新聞記者本多勝一氏はどう答えたでしょうか。月刊誌「諸君!」の誌上で『雑音でいじめられる側の目』と題して反論し、「最後の手段として、この2人の少尉自身に、直接証言してもらうよりほかにありませんね」という文章を書きました。
 直接に戦闘に参加できない大隊副官と大隊砲小隊長だった、だから白兵戦を行なったなど信じられないという山本七平氏に対して、この反論です。2人はすでに虚偽報道のおかげで死刑になり、この世にはいない方々でしょう。
 しかも、毛沢東主席がいたなら戦争犯罪人を死刑などせずに生かしておいて、本人たちに反省をさせただろうと手放しの中国共産党を賛美しています。南京の解放(この言葉のうさん臭さ)、国民党軍が撤退したあと(1949年4月)に南京に入った「解放軍」の人道ぶりを讃えるのでした。そうすれば、本人のたちの口で真相が明らかになったと言うのです。
 そういうことではなく、当時の新聞記事を事実だと言うのなら、自分で調べて伏せ字になっていた「○官」の○を調べるべきだろうというのが山本氏の主張でした。それへの反論が「死者を呼び戻せ」という暴論です。

大衆と歴史が審判する

 「週刊新潮」は鈴木明氏の告発の相手となった元毎日新聞記者を直撃しました。あの150人余りを日本刀で斬った両少尉の話は事実かということです。すると、浅海記者は「わたしの周囲のインテリは、あのような指摘があっても、(ああした)状況がなかったとは疑いません。何が真実かは大衆と歴史が審判してくれますよ」と答えました。
 インテリ、大衆、歴史の審判・・・懐かしい言葉です。自分がインテリだと自任する「進歩的文化人」たちは日本中いたるところにおりました。大衆だって確かにいっぱいいて、大衆食堂で飯を食い、大衆酒場で焼酎を飲んではオダをあげる若者もよく見かけました。

「世界」の記事『韓国からの通信』のウソ

 まるで明日にでも革命が起こり、社会が変わるというような妄想をもつ人は確かに少なくなりましたが、まだまだ反体制、反政府の主張をするのは当然の流行でした。
 その人たちのバイブルだったのは、岩波書店が出していた「世界」という雑誌です。その中に、韓国の朴正熙(パク・チョンヒ)が率いる軍事政権の非道ぶりを伝える記事が載りました。1973(昭和48)年5月から連載が始まります。『韓国からの通信』というのです。
 韓国は朴氏のクーデター以来、国民の自由を奪い、人権を抑圧し、非道な内政をしているというものでした。8月には野党の大統領候補だった金大中(キム・テジュン)氏が東京のホテルから韓国中央情報局(KCIA)の工作員によって拉致されました。確かにひどい話ではありますが、世論(気分)は韓国軍事政権への嫌悪を高めます。
 韓国の現状はどうなっているんだ、軍人がやりたい放題をしているという、今とはちょっと違った嫌韓気分がマスコミを中心に流されました。その良い材料となったのは、匿名の韓国人インテリによるレポートでした。正義感に後押しされて、進歩的知識人たちは大いに韓国と軍事政権を罵りました。
 当時、韓国の多くの人たちは北朝鮮による武力侵攻の再現を恐れていました。朴政権は確かに民主化を抑圧もしましたが、部族国家を近代的な国民国家にしようとしていたのです。韓国は地域、血縁による結束が強く、いわゆる国民としてまとまることが難しいクニでした。朴氏はそうした中で民力を向上させ、そうしたなかで国民意識を育てようとしたのです。
 『韓国からの通信』は善良な民主的知識人たちが弾圧され、ひどい目にあわされている地獄のような韓国社会を伝えました。今から見れば、ウソと誇大描写に満ちたレポートばかりでした。韓国社会の実態とはまるで違っていたのです。ところが、それを信じて「韓国の非道な政権を援助するような自民党はだめだ」と主張した人たちがとても多かったことだけは確かです。
 さて、連載は1988(昭和63)年まで続きますが、80年代半ば以降の記事は岩波新書にはなりませんでした。というのは、記事の多くがウソだったからです。
 この後、2003(平成15)年に突然、この匿名氏が名乗り出ます。どうしてかは分かりませんが、彼は1972(昭和47)年から93(平成5)年まで、ずっと日本で暮らしていた評論家です。
 こんな得体の知れない人たちが活躍した時代でした。
(つづく)
(あらき・はじめ)
(令和五年(2023年)2月22日配信)