自衛隊警務官(43)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(43) 都合の悪い隠された事実

ご挨拶とお礼

 いつもご愛読をありがとうございます。先日からこの誌上でも、熱い応援をいただき、身に余るご紹介をいただき、多くの皆さまからご発注をいただきました。先日は感謝の気持ちをこめながらサインをいれさせていただきました。
 新刊『自衛隊警務隊逮捕術』は、おかげさまで6日以降、店頭に並びます。版元の並木書房にご注文をいただければ、送料無料で入手いただけます。

次回の連載企画:陸自施設科(工兵)

 すでに調査、資料収集、陸上幕僚監部への申請もすんでいるのが、陸上自衛隊施設科の紹介です。施設科の徽章は、エンジニアの頭文字Eを横にして、近世城郭をデフォルメしたデザインです。アメリカ軍も工兵の兵科徽章は発想が同じで、西洋風城郭が描かれています。
 施設の仕事は、陣地構築(野戦築城)、架橋(がきょうと発声します)、坑道掘削、地雷などの敷設、通路啓開、いわば自然地形に挑む何でもござれというところ。それだけに重厚長大な機材から、小さな鉄舟の櫂(かい:パドル)に至るまで、装備品も数が多いのです。これらを解説するとともに、動画も撮影し、『自衛隊警務隊逮捕術』と同様、QRコードで視聴できるようにしようと考えています。
 また、海外への技能構築支援ということで、外国軍隊への指導、教育も行なっています。それもまた、あまり知られていない外国への支援です。これがわが国の安全と防衛に寄与しているのですが、報道されることも少なく、今回はそこにも力を入れるつもりです。
 将来は、警務科、施設科以外の職種についても装備や器材の紹介と教育内容を書いてみたいと思っています。
 ということから、「陸軍憲兵から自衛隊警務官に」のシリーズも今回で終わらせていただき、次回からは工兵、施設科史を思いつくままにご紹介していこうと考えております。

後味の悪い捕虜からの生還

 隠されてきたといいながら、高名な戦記作家によるドキュメンタリーも書かれた事件がある。海軍の高官がフィリピンで捕虜になり、救出作戦の結果、どうやら生還したのだ。
 移動中に乗機が墜落し、負傷して海上を漂流してフィリピン人ゲリラに捕獲されたのが、当時の聯合艦隊参謀長福留繁(ふくとめ・しげる、1891~1971年)海軍中将である。同じく古賀峯一司令長官も行方不明になり(殉職と認定)、1945年3月31日の2人の遭難事件は海軍をゆるがせた。
 ゲリラは米軍の正規士官の指揮を受けている国際法上も認められた準正規軍だった。福留中将以下は機密文書(Z文書といわれた作戦計画)も運んでいたことであり、何よりその作戦計画書などの紛失が問題になっていた。
しかも協力要請を受けた陸軍部隊が救出したのは、中将1名、大佐2名、中佐3名、中尉2名だった。正式な発表はなかったものの自決者がいたわけでもなく、おめおめと全員が陸軍部隊に無事に収容されたのだ。このことは噂として大きく広がり、末期の軍隊の士気に大きな影響があったに違いない。
海軍は下級将校や下士官・兵には厳しかった。捕虜になったら、救出されても厳しい審問が行なわれ、緒戦には陸上攻撃機の乗員がみな必死の作戦につかわれた。それに比べると、福留中将以下に対しては、逃走に努力したなどという理由で捕虜になった事実は公表されず、機密文書の行方もろくに調べられなかった。
本人や幕僚たちは、どれだけ言われても処分したと言い張ったが、事実は戦後、米軍の手で明らかにされた。彼らはしっかりゲリラに渡していたのだった(のだろう)。ただし、このことは米軍も入手についての経緯は公表していないので、戦後になっての推測になる。
 福留中将は処分を受けなかった、どころか栄転したのである。戦後も長く生き抜き、旧海軍出身者の親睦団体の水交会の会長も務めた。生存者の中で階級順に人事をたらいまわしにしていた証拠である。

ビルマの大規模投降

 1944(昭和19)年6月10日のことだった。北ビルマで21人の日本兵が集団で英国軍に投降した。第55師団に属する歩兵第144聯隊の1個小隊だった。『日本兵捕虜は何をしゃべったか』(山本武利)によれば、将校に指揮された部隊の降伏の経緯は興味深い。
 指揮官は42歳の中尉である。徳島県の商業学校を出てと経歴にあるから、大正時代の1年志願兵もしくは初期の兵役法による幹部候補生出身だったかもしれない。1941(昭和16)年に入隊とあるから、歩144に召集されたのだろう。陸軍部隊の編制表をみると、第55師団は四国の善通寺で41年9月、歩144は高知聯隊区で編成された。
 小隊は全方位にわたって包囲されていた。英軍の拡声器からは「投降すれば優遇する。しなければ殺す」という声が聞こえた。自決しようかと思ったが、部下の軍曹からそれは無駄な死というものだと説得された。
 部下を集めて、軍隊組織を解くといった。続いて自分は投降するといい、逃走するのも降伏するのも自由にせよといったところ、逃亡者も自決者も出なかった。恐ろしかったのは戦争が終わった後である。もし、いまの政治体制が戦後も続くなら、帰国後に自分は射殺されるだろう。陸軍刑法が禁じるところの「奔敵(ほんてき)」にあたる行為である。処刑は当然、予想されたに違いない。
 隊の降伏については自分には責任がないと思っている。なぜなら解散を宣言した後で皆が自発的意思で降伏したからである。いまは無駄死にをしなくて良かったと思っている。連合軍に捕まっても拷問もないし、残虐な死刑などもないと思っていた。

米軍から見た捕虜

 1944年の3月から始まったインパール作戦はインドに侵攻しようとする作戦だった。当初から兵站・補給に難があると予想され、反対もあった作戦である。5~7万人が戦死したとされ、捕虜の数も不明のままだ。その中で珍しい将校の捕虜がいた。彼はただ一人、尋問にも進んで応じ、ひどく協力的だった。日本軍の暗部についての憤りを強く主張した彼の手記は「英軍に来て」という題があり、アメリカの公文書館に保管されているという。
 米軍の評価によると、機密を守ろうとする意識は、兵より下士官が高かった。そして下士官より将校の方が高かったらしい。そうして、海軍は陸軍より口が堅かったそうだ。このことは元の教育程度の違いもあるが、兵は高度な秘密も知らず、また自分の情報の価値も分からず、つい話してしまう。あるいは、迎合してしまいやすいということもあったに違いない。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)10月7日配信)