自衛隊警務官(18)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(18) 日露戦争の憲兵(2)

はじめに

 とげとげしい雰囲気が世の中に出てきました。皆さん、いかがお過ごしですか。知り合いの医師からは、時間があったら趣味にふけるか、友達と会わずにすむ手段でコミュニケーションを取りなさいとアドバイスされました。
 そうですね。何もしないで「ステイ・ホーム」をしていたら、だんだんと心がおかしくなりそうです。見えない敵との戦いとは、かくも厳しいことだったのかと思い知らされています。社会の誰もが厳しい状況に置かれているのです。
しかも、いつ自分が他人にウィルスを撒いてしまう加害者になるかと思うと、ほんとうに心がしぼんでしまいます。
とくに仕事を失う、あるいは収入が少なくなり、不安な厳しい状況に置かれている方々に心よりお見舞いを申し上げます。どうか、必ず明ける夜であることを信じて、耐えてください。国民みんなが一致団結、支え合うことを必要としています。

日露戦争の憲兵補充

 日露戦争は画期的な戦争だった。まず、互いの軍隊が根拠地から遠く離れた戦場で戦った。両軍が撃ち合い、破壊の限りをつくした土地は、本来、中立国家の国土だったのだ。そこには両軍にとって第三国である中立国家の国民がいた。当時、戦場となった満洲は、れっきとした清帝国の国土であり、住民はその国民だった。
 はるか遠くの互いの本国からは兵站線が延びていた。ロシアは主にシベリア鉄道で物資や兵員を運び、わが国は海上輸送と軽便鉄道、畜力と人力に頼った。当然、本国からだけの補給ですべてが間に合うわけはない。現地調達という手段に頼る見積もりが当然されるわけである。そのときに起きるトラブル。それを解決するのも憲兵の仕事だった。
 1904(明治37)年3月10日には宣戦の詔勅が出され、同日には韓国駐箚憲兵隊増加要員として曹長以下65名が派遣された。動員部隊は続々と生まれ、それへの配属がされる。この補充については補充召集の他に、台湾憲兵隊から下士官以下123名を内地の各憲兵隊に転属させた。補充召集とは、動員部隊の定員を満たすための充員召集とは異なり、平時編制の部隊の欠員を補充するための予備・後備役憲兵の召集である。現役憲兵は動員部隊に送ることを優先され、内地部隊の弱体化を避けるためだったことが分かる。
 憲兵将校は補充召集の他に、兵科からの転科、特務曹長(准士官・のちの准尉)からの特別任官もとられた。これも陸軍が学校卒業者しか士官にしないといった原則を破るものである。
 開戦時の現役憲兵将校は大佐以下少尉まで88名に過ぎなかった。将校には現役定限年齢があり、大佐は55歳、中佐53歳、少佐50歳、大尉48歳、中・少尉45歳となっていた。それが過ぎると、後備役に編入され、第6年目の3月31日までだった。予備役編入者というのは現役定限年齢に達する前に、諭旨によるか自分で申し出て、現職を退くものだった。
 その88名が241名(戦役に参与した総数)にもなったのである。階級別の増加は、たとえば中佐が3名だったのが11名になり約3.7倍、少佐10名が23名に増えて同2.3倍、大尉が28名から112名と約4倍に増えたことでも分かる。しかし、何より大きく増えたのが少尉である。開戦時の3名に対して64名と約21倍にも達した。
 この少尉の補充は、わずかな1年志願兵出身者2名の他は、みな准士官・下士からの進級によってまかなわれた。1年志願兵とは現役入営者のうち、指定された学校歴を満たす者が経費を前納し、特別教育を受け、1年後には軍曹・伍長になった予備役幹部養成制度である。うち将校適任とされた者が3カ月の勤務演習の後に、聯(大)隊将校団の選考を経て予備役少尉に任官するシステムである。
 初級将校(中尉・少尉)は戦時には消耗品扱いだった。日露戦争の継戦不能の理由の1つとみなされた幹部補充の窮状・・・歩兵中尉の1434名に対して予備歩兵中尉はその74.6%にあたる1070名がこの教育1年少々の予備員であった。
 こうした中で、やはり憲兵という職務の特殊性、専門性が志願兵出身者ではとてもこなせなかったのであろう。

憲兵上等兵の採用

 司法警察職員であるのは憲兵では下士以上である。上等兵はその指揮下に捜査や検索などをすることができた。現在の自衛隊警務科でも事情は変わらず、3等陸・海・空曹以上が警察官の警部補以上と同じく司法警察官としての資格をもつ。帝国陸軍の憲兵科についても同じであり、下士への昇任はたいへん難しかった。
 開戦の年、1904(明治37)年10月には各師団の予備役・後備役の兵卒300名に3か月間の短期教育を施し、256名の合格者を憲兵上等兵に採用した。また翌年3月には240名を候補者として採用し、各憲兵隊(師団司令部所在地にあった)で教育を行なった。
 こうした戦時の補充によるのではない、正規の教育の様子を紹介しよう。

憲兵練習所

 本格的な教育は1899(明治32)年8月3日に出された勅令368号による「憲兵練習所」の設立で始まった。対象者は憲兵士官、下士、上等兵である。士官だから尉官が対象であり、曹長・軍曹・伍長といった下士、上等兵も同じである。
 所長は稲垣憲兵少佐、教官は小山憲兵大尉、嘱託教官として2名の外国人、三宅判事、岩田、若林両法学士だった。
 士官の科目は、憲法、行政法、国際公法、法理の研修、刑法、刑事訴訟法、民法、外国語と陸軍経理の大意、そして馬術を中心にした術科である。
 下士と上等兵には、法律の研修、陸海軍刑法、陸海軍治罪法、刑法、刑事訴訟法、民法、速記法、外国語、簿記と憲兵実務の講授とある。士官と比べれば実際の現場での即戦力になるようにしてある。術科では、操練(一般体育に近い)、拳銃使用法、軍刀操法、馬術、撃剣というように、これもまた実践向きの中身になっている。
 教育期間は6か月だった。こうした教育の内容は、一般社会では大学には及ばないが、法律専門学校の中身に準ずるものといえる。また第2期生から速記を学ばせることを止めて、憲兵行政法を代わりにした。
 1901(明治34)年には学生に准士官を加えた。当時は「特務曹長」といった。この准士官・下士学生は修業期間を10か月に延長した。
次回は国際法と日露戦争について調べてみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)4月15日配信)