自衛隊警務官(39)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(39) なんでもしゃべった日本兵捕虜

ご挨拶

 九州地方を直撃した第10号台風、被害に遭われた皆様に心よりお見舞い申し上げます。

捕虜に聞くこと

 日本兵、つまり陸海軍の士官、准士官、下士官、兵と軍属はよく情報を話した。まず、捕まった、あるいは投降した当初は拷問や虐殺を疑って、嘘ばかり言う。ところが、数日経ってみて、その食事や待遇が良いこと、親切にされると態度は一変する。尋問者を信用するようになり、進んで軍事情報を提供するようになった。
 
 気まぐれな連合軍兵士に撃たれたり、暴行されたりすることなく無事に後方に着くと、捕虜は尋問機関に引き渡された。そこには日本語が巧みな語学将校や下士官が待っていて次のようなことを聞かれた(山本武利『日本兵捕虜は何をしゃべったか』)。
 (1)捕虜番号、(2)氏名、(3)階級、(4)兵科や勤務内容、(5)所属部隊、(6)生年月日、(7)軍隊服役期間、(8)日本を去った最終の日付、(9)学歴
 捕虜番号は尋問機関によって与えられた番号である。氏名は多くの日本兵は偽名を使った。捕虜になったら自決すべきだし、それが失敗して生きていることが日本軍に知られたくなかったからだ。階級も身元を明らかになるから嘘をいうことがあった。ただ、あとの兵科や勤務内容、軍隊での教育などを語るうちに事実が分かることが多かった。
 
 捕虜が何より恐れたのは、自分の生存が日本国内に知られることだった。それは留守家族が厳しい目で見られたし、軍法会議にかけられたら多くが「奔敵(ほんてき、正当な抵抗をせず敵方に協力する)」や「敵前逃亡」と処断されるからである。
 日露戦争で発生した捕虜は、当時、必ずしも全部が非難されたわけではなかった。なかには故郷に帰って歓迎され、村長や議会で議員などになった人もいた。それがおそらく、昭和に入ってからは「捕虜は恥」であり、生還しても「おめおめと生き恥をさらす」というように変わってきたことが知られている。
 次には捕虜になったときの状況が聞かれた。場所や日時、人数(1人だったか、誰かと一緒か)、当時の健康状況、病気、負傷の様子なども尋問される。人事不省の状況や睡眠中などで捕獲された以外であるなら、以下の中から選ばされた。
 
 (イ)熟考した後に投降、(ロ)時の勢いで降伏、(ハ)抵抗する暇もなくいきなり捕えられた、(ニ)脱出しようとするときに捕まる、(ホ)非武装の土民による欺瞞、捕獲、(ヘ)海上にて救助される、(ト)強く抵抗した後に捕獲された。
 これらは尋問を加える際に、その心理状況を参考とするためであった。

連合軍が驚いたほどの協力ぶり

 いったん相手(尋問者)を信頼すると、多くの捕虜は熱心な協力者になった。自分が属していた部隊の編成から装備、行動にいたるまで詳細にしゃべったという。なかには、戦後、帰国してから弁明のためか自分が重要なことは話していないと告白した海軍大佐もいた。しかし、この大佐の詳述した日本軍機関の役割や組織のあり方はアメリカ軍にとって大変貴重なものだったという。
 こうした捕虜の心理はいくらか想像はつく。体験者や聞き取りの結果からは、彼らが新しい人生に踏み出そうとしたこと、また厚遇に感謝してお礼の気持ちをもったことなどが明らかになっている。
 彼らは戦争が終わっても、日本に帰されたくないと思っていた。厳しい取調べ、自殺の強要、あるいは軍法会議での処断が恐ろしかったのである。あるいは、もっと恐れたのは地域の共同体による家族ぐるみの迫害である。戦死の一時金の剥奪、あるいは手当ての没収も予想された。何より非国民、卑怯者扱いをされて社会的生命を絶たれることだっただろう。
 そうであるなら、帰国せずに死んだという記録のままに、南米や豪州、あるいは米国などに永住したいと思ったのだろう。ならば、こんどはとことん連合軍側に忠誠を示すことが大切だったのだ。
 よく言われてきたのが、「捕虜になった後の教育がされなかった」ということだ。ところが、実際には、将校や士官以上の階級にある者なら、国際条約の知識もあり、相手が暴行、脅迫もしないということもよく知っていたという。また、下士官、兵であっても教育程度の高いわが国では、案外、ジュネーブ条約の中味も知られていたともいわれている。
 だから、そのことより日本社会のあり方、世間が捕虜をどう見ていたかの方が問題だったのではないだろうか。
 欧米の伝統では捕虜への偏見がなかったかというと、それはそれであったに違いない。また、何でも認めたかというと決してそうではなかった。帰還後には審査があり、義務を尽くした上で、どうにも降伏以外に手段がなかったかも調べられる。あるいは不可抗力で捕らえられたら責任はないという考え方があったから、捕虜はその尋問に備えておかねばならなかった。
 それがわが国ではどうだったか。「世間の目を思え、家族の悲しい気持ちを考えて」決して捕虜になるな、生きて虜囚などという恥ずかしい目に遭うな・・・というのである。
 無理だったのだ。捕虜になって、自決などなかなかできるものではなかった。海軍兵学校という難関校に入学し、厳しい教育を受けた正規の海軍士官ですら、生きて虜囚になった。その経験を公開し、実業界の成功者になった潜航艇乗り組みの海軍少尉、文学者となって数々のベストセラーを書いた艦上爆撃機操縦員の海軍中尉もおられた。
 同じような境遇の人々が命を落とし、故国の土を二度と踏めなかった。その後ろ暗さは一生、抜けなかったことだろう。
 次週はさらに日本軍捕虜の行動について詳しく見てみよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)9月9日配信)