自衛隊警務官(2)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(2) 勅令憲兵と軍令憲兵

ご挨拶

 令和元年もいよいよ半月あまりになりました。わたしも気ぜわしさが先立ち、いろいろと落ち着いて考えることが少なくなっています。そうした中で、「卒業生への言葉」というタイトルで短文などを依頼されることが増えています。
 もちろん、お祝いという気持ちも伝えたいし、将来への夢をもてとも言いたいのですが、少しひねくれた私は次のようなことを書いてしまいます。
「あれもこれもと欲張らず、これだけは他人に譲れないという一つのもの、ことをつくりなさい」
 
 夢や希望の大切さを語り、諦めるなという励ましをしたくないわけではありません。ただ、多くの若者の不幸は、多くの人と語り合わないという実態からきているのではないかと思っているのです。教育の目的は、技能や知識を与えることもありますが、いわゆる「教養」を身につけることもあると考えています。
 じゃあ、教養とは何か。その問いに対して、わたしは「自分を見つめること」もそれへの答えの一つだと考えています。自分を見ること、見つめること、自分の実態を見極めること、たいへん辛い、苦しい作業です。しかし、それをやらずに、思いこみで自分の実態を見るととんでもない過ちをおかすことがあります。
 公平に自分を見つめるには、自分と異なる立場、価値観をもつ他人との対話をすることが大切です。自分と似ている、あるいは同じような考えやものの見方をする人だけと語り合うのは、あまり役に立ちません。むしろ、自分を否定する、自分にとって都合が悪い、そうした考え方の持ち主と進んで対話することが必要なのです。
 世の中は多様です。さまざまな価値観の人が暮らしています。学校を出て、世間に出てゆくというのは、そうした自分にとって無茶苦茶なところへ身を移すということです。まず、身近な人の話から真剣に学ぶというところから始めてもらいたいと願っています。

憲兵への誤解

 混同されがちだが、内地には勅令によって存在した「勅令憲兵(明治31年勅令第377号、憲兵条例)」と、外地には軍の戦闘序列に入った戦闘部隊としての「軍令憲兵」がいた。前者の任務仕事は前回に書いた通り、軍事警察と行政警察を担当した。戦前社会の人々が見た普通の憲兵のことだ。ときには生真面目な憲兵が任務に忠実に、あるいは多少の逸脱があり、一般人も取り締まりを受けたから悪印象も与えたことがあったことだろう。
 戦後、半世紀以上も経ったのに、まだアメリカはこうした描き方をするかと驚かされたのは、名作『硫黄島からの手紙』(2006年)である。そうして国内でも、鑑賞者から何の疑問も出されないことにも驚いた。
 それは硫黄島に転属をさせられた元憲兵上等兵の話だった。彼は上官と内地の民家の中を巡回する話である。あろうことか、彼は官品の拳銃で、上官の命令で民家の犬を撃つことになっている。実際は空に向けて撃ったということになっていたが、拳銃も実包も「陛下からの預かりもの」である。「監軍護法」を標榜する憲兵が、そんな無法をしたものだろうか。
 ああ、人間らしい心を失わなかった人だったのだな、それで戦地の硫黄島に転属させられたのか・・・というストーリーを観る人に植え付けようとしたのか、そう考えると暗然たる思いを抱いたのはわたしだけではなかったと思う。
 実際の拳銃の使用規定はそんなものではなかったし、官給品の拳銃弾(実包)の管理はひどくやかましいものだった。兵器・弾薬の横流しや紛失、使用目的以外の発砲などの調査は、まさに内地の勅令憲兵の任務である。民家の犬を殺すなどという越権行為、官給品の実包の勝手な発射などは大変な事件になっただろう。上官の大尉こそ、不当な命令を下した罪で取り調べを受けて、軍法会議に起訴されるようなものだ。

戦後の憲兵悪玉論

 こうした史実を無視した戦後の「憲兵悪玉観」こそ、占領軍(連合軍)が植え付けようとしたものだった。被害者は声を挙げやすい。せっかく肉親の出征を見送りにいったのに、警戒の憲兵にじゃけんに追い返されたなどという「血も涙もない」憲兵像が作られていった。
しかし、警備側としては当然のことである。出征部隊の行進に乱入しようとすれば、憲兵が制止するのは十分に納得できるだろう。あるいは、列車の窓にしがみついて離れなければ、定時の発車もできない。だから引きはがすのも当たり前である。ところが、多くの人は「そうだ、そうだ」の大合唱で「憲兵はひどかった」に拍手をした。それが戦後の社会の実態の一つでもあった。
 戦後の映画や小説では、左翼思想の制作者、出演者による悪意ある憲兵像がたくさん流布された。反軍、反戦思想の持ち主が憲兵の弾圧にあう話である。しかし、当時の法律では、反軍活動は当然、違法なものだった。反戦平和思想の活動は、多くが革命を実現して天皇制を覆滅するといった左翼活動家によるものだったのである。憲兵は当然、その摘発は任務そのものだったから、その「弾圧」は当然だったのである。

軍令憲兵の任務

 野戦に出征して、外地で活動した憲兵を軍令憲兵という。内地の憲兵(勅令憲兵)が陸軍大臣に直隷する立場にあるのと異なって、作戦軍司令官の権限に基づくものだった。その任務内容は「作戦要務令」に記されていた。
軍機の保護
間諜の検索(捜索)
敵の宣伝及び謀略の警防
治安上必要な情報の収集
通信及び言論機関の検閲取締まり
敵意を有する住民の抑圧
非違及び犯則の取締まり
酒保及び用達商人等従属者の監視
旅舎、郵便局、停車場の監視
 「軍」という用語にも解説が必要だろう。師団や旅団を統轄・指揮する司令部をもつ組織を軍とする。平時にはこうした野戦「軍」は存在しない。昭和戦前期において平時の軍は、関東軍、台湾軍、朝鮮軍、支那駐屯軍(所在地から天津軍ともいった)のみである。ただこの中で常設師団(師管区をもつナンバーがついた師団)をもつのは、朝鮮軍だけだった。あとは、規模からいって師団より大きかったともいえない。この軍の長は「軍司令官」といわれ、親補職の中将、あるいは大将だった。
 日華事変が始まり、大動員が始まると、次々と「軍」が編成された。ほとんどの師団は軍司令官のもとに集まった。大東亜戦争の開始(1941年12月)時では、22個軍、同じような規模の飛行集団や航空兵団が4個にもなった。
 戦史を調べる方にはなじみだろうが、「方面軍」はさらに軍や集団を複数統轄する組織である。日清・日露戦争にもおかれず、日華事変以後につくられた。当初、北支那方面軍だけが置かれたが、敗戦時(1945=昭和20年)には17個もあった。

報復裁判の犠牲

 軍令憲兵は野戦軍の戦闘序列に入った。同時に「野戦憲兵隊勤務令」に服した行動をとることになった。戦闘序列という用語も説明しておこう。
 陸軍には「編組(へんそ)」という用語があった。作戦の必要に応じて、複数の「軍隊」を組み合わせるもののうち、軍令で定めるものを「編組」といった。この一時的なものが「軍隊区分」であるが、これには指揮関係はあるが、完全な隷属関係ではない。この区別は人事権などがからみ(区処などという)、複雑である。隷属関係があるということは、すべてが上位機関に握られている。戦闘序列は、戦時に勅命による作戦軍の編組をいう。隷属関係がある。したがって、勅令憲兵が陸軍大臣のもとにあって、政治的公正性を強調したが、野戦憲兵たる軍令憲兵は軍司令官に直属していた。
 任務の9項目を見直してみよう。すべて敵対勢力によっては、都合の悪いことばかりである。作戦する軍隊は勝利を得ることを最終目標とする。そうであれば、軍機=軍事機密は当然守らなければならない。間諜=スパイは当然、捜索処断する。敵の宣伝や謀略は防がねばならない。占領地の治安を守ることは当然の任務である。通信や言論機関への干渉や容喙は当然のこと。敵性住民はゲリラにもなり、その活動は治安を乱す。抑圧するのは立派な任務であった。軍人の非違や犯則行為は占領行政の妨げになる。将兵による違法な徴発や、住民への暴行などは取り締らなければ、敵勢力の宣伝材料になる。現地に出かけてくる業者へも監視は当然だった。外地で、一旗あげて儲けてやろうという人はいつの時代にもいた。宿泊施設や郵便局、停車場などの人・物・金の集まるところは当然、監視・警戒の重点になった。
 こうした憲兵隊の活動があってこその占領軍行政だったのだが、敗戦時には多くの憲兵が連合国の「報復裁判」によって裁かれた。しかも、戦後の「戦前社会真っ暗観」の育成で多くの事実が闇に消された。誰が、なんのためにそうしたかはすぐに分かる。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和元年(2019年)12月18日配信)