自衛隊警務官(27)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(27) 夜襲の後に──駆逐艦乗りの気風

ご挨拶

 緊急事態宣言も解除、そして東京アラートもなくなりました。やはり歓楽街では、密着した接客をするところで感染が始まります。油断だけはしたくないですね。
 皆さまもいかがお過ごしでしょうか。わたしはまた、学校現場に応援に出ています。そこでは午前と午後の2部授業にして、半数ずつの子供さんが授業を受けるような仕組みです。今週からはいよいよ、全員そろっての昼までの学校生活。
 たいへんだったろうなとつくづく心配するのは、身近な給食関係者です。食材を納入し、調理し、配分し、回収した食器類を洗い、消毒作業をします。ほとんどの学校は、民間委託になりました。正社員が1人か2人、あとの4~5人はパートの女性たちです。4月から始まる学校給食は、ほとんどが7月まで再開されないでしょう。
ニュースを見ると、女性の非正規雇用者は29万人も増えたとか。その中にはシングルマザーや30~40歳の独身女性が多いそうです。厳しい話が聞かれます。どうか、助け合っていける社会の仕組みをもっと考えていきたいものです。

旅順港は大騒ぎになった

 旅順港の中の錨地には、東から数えて6列に軍艦が碇泊していた。襲撃を受けて反応したのは、7隻、3列目までの艦にしか過ぎなかった。第1列目のツェザレウィッチ、アスコリド、2列目のパルラーダ、ボベータ、3列目のレトウィザン、ジアナ、アンガラというのがその艦名である。
 旗艦ペトロパウロフスクと戦艦ペレスウェートは第5列目にあり、襲撃についてよく理解していなかった。ペレスウェートに坐乗する艦隊副司令長官ウフトムスキー少将は、「ふつう月曜日に行なう夜間演習だ」と周囲に説明したほどである。不思議なことにレトウィザンに魚雷が命中し浸水、艦は傾いたとの報告を受けても、微笑で報いたということだ。
 幕僚たちはどうかというと、駆逐艦隊による水雷夜襲の演習など計画されていないことは承知していた。しかし被害が艦隊の一部にしか集中していなかったことから緊急演習と判断してしまった。
 司令長官スタルク中将はどうしていたか。レトウィザンの被雷の轟音が聞こえ、それ以後の砲声を聞き、報告を聞いても、日本駆逐艦隊の襲撃とは受け止めなかった。
 9日午前0時である。駆逐艦電(いなづま)の攻撃が終わった。どうも最高指揮官のスタルク中将は0時25分のレトウィザンから被雷の報告を受けるまで、まともな判断をしていなかった。0時30分、第3駆逐隊の漣(さざなみ)が現われて、レトウィザンにさらに魚雷2本を射った。
 午前0時50分には第2駆逐隊朧(おぼろ)も戦艦ツェザレウィッチに魚雷2発を発射、南東方向の闇に消えていった。これで駆逐隊は全部、任務を果たし、魚雷攻撃を行なったのである。20発を射ち、あたったのは3発。たった15%の命中率にしか過ぎなかった。
 けれども、ロシア側が撃ち出した砲弾は805発、1発の命中弾もなかった。ロシアの被害は戦艦2隻が中破、巡洋艦1隻が小破というものと比べれば立派なものかもしれない。

敵は静的(せいてき)、幅広く展開

『海軍第9巻』(1981年、誠文図書)に大山鷹之介海軍少将の回顧談がある。大山少将は当時、第3駆逐隊司令駆逐艦長だった。土屋大佐が坐乗する駆逐艦薄雲の艦長である。
 証言は海上での進撃の混乱と闇夜での敵哨艦との出会いから始まる。うまくかわして、突撃に移った。
「第1第2駆逐隊はもうそこにはおらず、最初の襲撃の約束通りにできないから、第3駆逐隊は単独襲撃を実行することになり、探照灯の光を浴びつつ弾雨を冒して進み、有効距離の範囲よりもなお進んで、隊全部が水雷を発射したのであります(現代語の表記に直した、以下同じ)」
 発射はしたとは言うが、命中したとは言えないと大山艦長はいう。おそらく艦隊訓練の後だから舷側に防雷網(トルピード・ネットと書いてある)は張っていないだろう。だから魚雷にネット・カッターは着けなかったという。しかも「長距離水雷」に調整した。なぜなら敵は動いていない、静的(せいてき)である。しかも、幅広く展開して泊っているから、低速力で、その代わり航走距離の長い長距離用の設定にしたのだった。

あたったか、あたらなかったかは分からない

 旗艦三笠からの招致命令である。すぐに駆逐隊司令3人と10人の駆逐艦長たちはそれぞれの端艇(カッター)で旗艦に向かった。集められたのは艦尾の長官室である。そこでは東郷平八郎司令長官から「成績はどうだったか」と尋ねられた。
 浅井司令(第1駆逐隊)は、「大分(だいぶん)成功しました。どうも大分あたったようです」と答えた。すると、第3駆逐隊の土屋司令は、「わたしに水雷があたったか、あたらなかったか、そういう事を聞かれるのは少し無理な注文であります」という。
 投げやりな言葉と受け止めたか、腹も立ったのだろうか。戦艦浅間艦長の八代(やしろ)大佐が口をはさんだ。
「あたったか、あたらなかったかということが、分からないということはないだろう」

水雷を射ったら逃げるのが仕事

「真っ暗な晩に、敵の照射を浴びつつ進んでいくのだから、自分がすでに発射したら後はもう空手(からて)になる。空腰(からこし・武装がないこと)になったのだから、その射ち出した水雷があたるか、あたらぬかということを見るだけの余裕はない」
 正直な意見だろう。実際、薄雲などの駆逐艦は常備排水量322トン、長さ63メートル余り、速力こそ30ノット(時速約55キロ)と優れているが、兵装など8センチ単装砲2門、6センチ単装砲4門という「豆鉄炮」しかもっていない。より小さい水雷艇を駆逐する小艦である。大型艦に見つかったら、ただでは済まないのだ。
「水雷を射ったら第2の役目に移ります。なるたけ早く速力を出して、ずっと逃げて差し支えない。その水雷が走って行って、どの艦の、どのあたりにあたって、爆発したかなどを見るような余裕はない。それをやっていたら犬死にのようなものだ」
と、ここまではよかったが、雄弁家で通っていた土屋大佐はさらに強盗のたとえを出した。

強盗にも弱い強いがある

「まあ、刃物をもった強盗のようなものだ。金を盗りたいと考えて他人の家に押し入る。刀を見せて家の主(あるじ)に金を出せと言う。主はふるえて金を出すから命は助けてくれという。それで強盗は金さえ取れれば目的を達したのだ。今度は自分の命が惜しくなるから、後をふり返る暇もなく、ずっと逃げてしまう。後になって被害者の家はどうだったかなんて、さっぱり分からない。それと同じだ」と言いつのった。
 すると、八代大佐は反論した。
「いや、そうはいかない。強盗にもいろいろある。金を出せと主に言う。主は恐ろしいから金を出す。強盗はそれを懐(ふところ)にいれて、腹が空いたから飯を食わせろという。主が飯はここにありますと食わせると、うん、酒も一つ出してもらおう、そうしてゆっくり酒を飲んだ挙句が、また来るよと挨拶して帰る強盗があるではないか。そうしてみると、強盗にも強い、弱いがある。この水雷の命中か、不命中かくらいは、ある程度分かるだろう」
 この問答には、さすがに東郷司令長官もちょっとお笑いになったと大山艦長は書き遺している。八代大佐が言いたかったことは、多少はそこに勇気というものがあるだろうということだろう。この実態はよい教訓になったと艦長はいう。失敗あればこその、次回の成功ということだろう。
 後世の我々は、こうした場の会議から、昔の海軍の自由な論議の気分と、短いドスをもって大型艦に突っ込んでゆく駆逐艦乗りの気風を垣間見ることができるだけだ。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)6月17日配信)