自衛隊警務官(28)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(28) 旅順口閉塞(へいそく)隊員の話

はじめに

 軍神広瀬少佐といえば、戦前では誰もが知っていた。「杉野はいずこ~」という歌でも有名だった。点呼にいなかった杉野上等兵曹(准士官)を沈没間際の船内にわざわざ戻り、自分の危険も顧みなかった。旅順口閉塞作戦に2度にわたって出撃した勇敢な人だった。ぎりぎりで船をカッターで離れた。そこへロシア砲弾が飛来して、ただ1人、指揮官席に座っていた少佐だけが生還できなかった。
 暗夜の中に、非武装で低速の商船に乗り、決死の覚悟で予定地点に自沈させようとした隊員たち。もとより生還を期すものではなかった。しかし、それでは必死攻撃になってしまう。当時の海軍はそうしたことを許さなかった。決死の隊員たちを救助する水雷艇を派遣していたのである。
 多くの乗員たちが救助されたなかで、暗夜の荒れた海上で、水雷艇の迎えと会えなかった隊員たちもいた。彼らを囲む事情は、中立国の清帝国の港に上陸したことから複雑になる。国際人道法の1つのルールがここに絡んでくる。

旅順口閉塞作戦

 広瀬武夫(ひろせ・たけお)といっても知らない人が増えただろう。海軍の軍神である。大分県竹田藩士で1868(明治元)年生まれで海軍兵学校卒業。あだ名は「武骨天使」ともいわれた。柔道に熱心だったが、ロシア語を専攻した。駐露武官補佐官として日露戦前のペテルスブルクにも勤務する。小説『坂の上の雲』では、ロシア貴族の娘とも交流があったと描かれた。開戦時には、戦艦朝日の水雷長だった。
 聯合艦隊司令部には有名な、彼の親友秋山真之(あきやま・さねゆき)参謀がいた。当時の日本海軍の狙いは旅順艦隊撃滅である。大陸への輸送路を脅かされては展開した外征軍は飢えてしまう。とにかく、制海権を確保すること、それが開戦時以降の最大目標だった。
ロシアはウラジオストクと旅順に軍港を築き、そこに日本海と黄海を制圧すべく有力な艦隊を置いていたのである。旅順艦隊を沈めてしまいたい。しかし、このロシア艦隊は出てこようとはしなかった。後方を陸軍要塞に守られた旅順港にいる限り安全だし、艦隊の保全命令も出ていた。日本艦隊がいくら挑発しても、それに応える義理はない。監視の兵力が少なくなってから出撃し、海上輸送路を脅かせばよいだけのことだったからだ。
 要塞には軍港内を護るために多数の固定砲台があった。当時は、固定された陸上砲と軍艦の大砲が撃ち合えば、陸上砲台が必ず勝つという常識があった。だからこそ、海軍は、陸軍に早く要塞を落としてもらいたかった。陸地から艦隊を脅かし、出撃をやむなくさせて欲しい、あるいは港内に砲撃を加え、艦隊を使い物にならなくして欲しいという希望があったのだ。

なぜ旅順の艦隊は出てこなかったか?

 話は少し大きくなる。なぜ、ロシアはバルチック艦隊を遠くヨーロッパ・ロシアから回航しなくてはならなかったか。それは、日本海軍が戦艦6隻、装甲巡洋艦6隻のセットを持っていたからだ。
 旅順艦隊といっているが、それは旅順に在泊する艦艇だけを指す。正式には第1太平洋艦隊の主力のことをいう。この艦隊には、開戦時、戦艦7隻と装甲巡洋艦2隻、巡洋艦6隻(6インチ砲=約15センチ砲装備)とリューリックという装甲巡洋艦があった。このうち、装甲巡洋艦ロシア、グロムボイとリューリックはウラジオストクにいた。これらは8インチ砲=約20センチをもっていたが、主砲塔をもっていなかった。
舷側にあっただけである。大東亜戦争や第2次世界大戦を知っている我々から見ると、主砲塔がないというのは違和感があるが、それが当時の軍艦なのだ。
 その頃、世界最新鋭のわが戦艦「三笠(みかさ)」も横須賀に保存されている姿で分かるように、艦体の前後に回転式の12インチ=約30センチ主砲塔(連装2基=4門)をもち、他にも6インチ砲10門と水雷発射管5基をもっている。この同型艦は敷島、朝日、初瀬である。他に富士、八島の2隻を加えて、聯合艦隊には6隻の30センチ砲をもつ戦艦があった。
 そうして、アルゼンチンが発注した2等巡洋艦2隻(春日、日進)をわが国は手に入れた。これらはイタリアのゼノアで建造され、排水量は7628トン、春日は10インチ=約25センチ1門と8インチ2門、日進は8インチ砲4門をもっていた。しかも、これらの砲は仰角が大きく、射程は世界一といわれていた。
 
 当時、6インチ砲の弾量は約30キログラム、8インチ砲は100キログラムに近く、その射程、威力には大きな差があった。6インチ砲は艦隊決戦には使えないというのが常識だったのである。
 そこでバルチック艦隊の稼働可能な5隻の戦艦を合流させられれば、第1太平洋艦隊は戦艦12隻、巡洋艦7隻になり、日本艦隊の6・6艦隊に対抗できるとロシア皇帝は考えたのだ。したがって、新しい戦艦の勢力が登場するまでは、旅順の艦隊はまさに動かないことこそが正しい戦略というものだったのだろう。
 

旅順口にフタをしろ

 秋山真之(あきやま・さねゆき)は伊予(愛媛県)松山の下級藩士の家に生まれた。大学予備門(のちの旧制第1高等学校)を中退、海軍兵学校を1890(明治23)年に卒業する。兄は陸軍大将秋山好古(よしふる)。97年にアメリカに留学、米西戦争を観戦した。そのレポートは旅順口閉塞作戦に大きな影響を与えた。米海軍はキューバのサンチャゴ港を老朽貨物船を沈めることで封鎖しようとした。それを詳しく、正確に書きあげたのが、秋山大尉の「サンチャーゴ・ジュ・クバ之役」だった。
 発案者は聯合艦隊先任参謀有馬良橘(ありま・りょうきつ)だった。旅順口の狭い水道に腹の中にセメントをいっぱい詰めた古い汽船を沈めてしまう。そうすれば大型艦の出入りが不便になるだろう。そういう計画だった。秋山のレポートが良い資料になった。
 有馬中佐は自らを指揮官として3回の閉塞作戦を敢行した。1回目に沈める船は5隻である。各船に艦長と機関長格の士官2名、操舵員として下士卒2名、機関要員同10名が必要とされた。広瀬少佐は第2船「報国丸」指揮官となった。部下は栗田大機関士(のちの機関大尉)以下である。
 2月23日午前4時5分、5隻の船底に粉炭を満載した「特別運送船」は集結した。季節は厳寒、2月の末だった。各船には護衛と乗員の救助・収容のために水雷艇が付き添うようになっていた。第1船「天津丸」には千鳥(ちどり)、以下「報国丸」には隼(はやぶさ)、「仁川丸」には鵲(かささぎ)、「武揚丸」には真鶴(まなづる)、「武州丸」には燕(つばめ)という組み合わせである。
 午後11時35分、船隊は遼東半島南端の老鉄山の南東に到着した。波は穏やかで、天候は晴れ、月は沈もうとしていたという。ここで船団は時間を稼いだ。その間に、第5駆逐隊が港口の敵状の偵察に進行する。陽炎(かげろう)、不知火(しらぬい)、叢雲(むらくも)、夕霧(ゆうぎり)の4隻である。
 午前1時過ぎ、「黄金山ノ南方陸岸ニ碇泊セル敵艦」に魚雷攻撃を行なった。狙われたのは戦艦レトウィザンだった。魚雷は1発も当たらず、岸に躍りあがったとロシア側は記録する。
 午前3時20分、船隊は単縦陣をつくって陸岸沿いに前進した。敵砲台の死角に入り、サーチライトに照射されないためである。出発点から港口まで約12キロという。低速の運送船でも最大11ノット(約20キロ)を出せた。かかる時間は、約40分。しかし、児島襄氏は、その40分間を「修羅(しゅら)ノ旅」と表現した。
 第5駆逐隊の攻撃で、厳戒態勢をとっていたロシア軍は、サーチライトで船隊をとらえ、銃砲弾を集中してきたのである。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)6月24日配信)