自衛隊警務官(29)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(29) 旅順口閉塞(へいそく)隊員の行方

はじめに

 依然としてコロナ禍の中、令和2年も半分を過ぎて、もう7月になります。例年ならボーナスや、夏休みの計画等の話題から明るい気分の頃です。それが今年は、消費の落ち込みや、感染者の増加への恐れなどで、一向に元気がでません。
 それでも先日の土曜日、わたしの横浜市内の幹線道路を通ったら、湘南海岸へ向かう東京や他県の車がたくさん走っていました。大磯の港や、小田原の海岸も多くの方々が訪れたようです。少し明るい気分になりました。

閉塞船隊は銃砲火の中を進んだ

 予定自沈地点に5隻の旧式汽船は近づいていった。武装はまったくないので、ただひたすら進むだけである。要塞からはサーチライトが照らされ、砲台からは砲弾が飛んできた。ロシア軍からすれば、射的場の移動目標である。乗り組んでいる閉塞隊員からすれば、真っ白な強烈なサーチライトの光に包まれて、何も見えない。
 ひたすら前を進む船の航跡をたどって進んだ。方角と陸岸との距離もつかめない。そうしているうちに午前3時33分という。指揮船天津丸は針路を西に取り過ぎて、老鉄山東方の崖下の岩礁(がんしょう)に乗り上げ、擱坐(かくざ)してしまった。2番船は広瀬少佐が指揮する報国丸である。広瀬少佐の回顧によれば、このとき天津丸指揮官有馬中佐の声が聞こえたと言う。
「面舵(おもかじ)に取れぇ、おもーかぁじ!」。その声を聞いて、広瀬少佐は操舵員に舵を右に切らせた。3番船仁川丸も針路を右にとって、報国丸と平行する針路になった。4番船武揚丸も5番船武州丸は、座礁した天津丸のマスト高く白色灯が揚がっているのを確認した。これは「自沈位置近し」の合図である。
 ところが、どうもおかしいと4番船武揚丸指揮官正木義太大尉は考えた。周囲を確認するとどうも見える地物からみて場所が変だ。悩んでいるうちに天津丸の白色灯は赤色灯に変わった。やはり違うと思ううち、5番船武州丸がすっと前に出て、天津丸の横に並んで船体を爆発させた。後から調べると、武州丸は舵機を撃たれてしまった。針路を変えようもないので、ここでやるしかないと爆弾に火を点けたという。
 これを見た正木大尉も2隻が沈んだのだから、ここが自沈地点かと判断した。真っ暗闇の中で強烈な探照灯の中での決心である。命令された乗員は急いで船底のキングストン弁を開けた。この弁は開けると海水が奔騰してくるように船内に入ってくる。船は一気に沈み始めた。
 この間に2隻はさらに前進する。報国丸と仁川丸である。要塞からは盛大な銃砲火を放ってくる。進むうちに2隻の距離は開いてきた。左側の報国丸は戦艦レトウィザンを目指して進み、仁川丸は黄金山のサーチライト目指して進んだ。黄金山の真下で湾口に方向転換しようとしたのである。
仁川丸はうまく進んだ。ただし、方向転換をした瞬間に、船底を岩にぶつけて停止してしまった。指揮官斎藤七五郎大尉は錨を投げ込み、爆薬に点火することを命令した。乗員は右舷船尾に集まった。そのうち、爆発が起こり、船は大きく傾き始めた。斎藤大尉はじめ乗員は全員がボートに乗り移ることができた。ただし、乗員のうち1機関兵は敵弾にさらわれ海中に沈んでいった。
広瀬少佐の報国丸は、確実に戦艦レトウィザンに接近していった。しかし、戦艦からと陸上砲台から銃砲火が集中する。船首に火災が起こり、舵機を撃ち抜かれたのは戦艦の手前約300メートルの地点だった。少佐は脱出ボートを用意させ、爆薬に点火を命じた。ボートに全員が移乗したときに少佐は短剣をブリッジに忘れたことに気がついた。ブリッジに戻り、引き返してくる間に砲弾は爆薬の導火線を切断してしまった。しかし、同時に命中弾によって積荷のマグネシウムと粉炭が燃え始めた。
広瀬少佐はボートを船から離し、戦場からの離脱を命じた。艇首に立てた竿には、白いハンカチを結びつけた。迎えの水雷艇への目印のためである。天津丸、武揚丸の乗員のボートは水雷艇鵲(かささぎ)と出会い、安全に収容された。広瀬少佐の乗艇も午前5時35分に水雷艇隼に出会うことができた。

収容されなかった乗員たち

 それでは座礁した指揮船天津丸の横に沈んだ武州丸の乗員たちはどうなったか。また、斎藤大尉の仁川丸の乗員たちはどこに行ったのだろうか。第1、第5l駆逐隊、第9、第14水雷艇隊は必死に探しまわった。しかし、夜明け少し前になっても、島崎中尉たち14人の武州丸乗員は見つからなかったのである。
 島崎中尉はあらかじめ指示にあったように、清国チーフー(芝罘)に向かった。そこには日本領事館があったからだ。山東半島北岸である。艇は用意した帆を揚げて、南に向かった。
 帆走ができた武州丸乗員はまだよかった。仁川丸の斎藤大尉以下には帆の準備がなかった。南東を目指して6本のオールで漕ぎ進んだが、北東の風と潮流に流されて早朝には老鉄山の南方洋上に漂っていた。ここから彼らは撓漕(とうそう、オールだけで漕ぐこと)のみで南西の廟島列島線の先にある山東半島を目指したのだ。
 午後2時過ぎにはようやく北隍城島(こうじょうじま)にたどり着いた。廟島列島の最北端の島である。みな上陸すると、底に倒れ、喘ぐしかできなかった。するとそこに日本語の声が聞こえてきた。武州丸の島崎中尉たちである。

チーフー(芝罘)での手違い

 2隻の乗員29人は傭船契約をしたジャンク(中国の船)4隻に分乗して、午後4時ころ島を出発した。しかし、またもや強風に押し流され、翌日の25日午前5時ころ、チーフーの西方にある登州(とうしゅう)に漂着してしまった。
 指揮官斎藤大尉は、とにかく漂着をチーフーの日本領事館に電話で報告した。ところが、領事も駐在武官の海軍中佐も、それが何のことか分からなかった。閉塞作戦について、何も知らされていなかったからだ。
 だが、登州の中国側官憲からは領事館に連絡が入った。「貴国海軍軍人らがチーフーに上陸した」。この連絡を受けて、水野領事は外務大臣に電報で報告した。斎藤大尉たちはさらに登州でジャンクを雇おうとしたが、風向きも悪く応じる船主もなかった。
 しかたなく、斎藤大尉、島崎中尉らは陸路を取ってチーフーに向かうことにした。現地の清国軍は好意的で、護衛兵をつけてくれた。
 翌日、2月26日、一行はチーフー領事館巡査と出会った。海軍武官が古洋服をもたせて、迎えに寄こしたのだ。みな軍服が外から見えないようにし、ばらばらに歩いて夜の9時には領事館に入ることができた。士官2人は領事館に、27人の下士・兵は港内の日本船にひそやかにかくまった。

「宣誓」をするかどうか

 チーフーへの上陸を許した清国はロシア、日本のどちらの同盟国でもない。中立国である。当時の国際法では、交戦国の兵員その他が中立国に入れば、それを捕らえなければならない。武装を解除するだけではなく、身柄を拘束し、戦争が終わるまで抑留するのがふつうである。
 清国政府はそれに気づいた。もし、日本海軍軍人をそのまま帰国させれば、ロシアから中立国の義務を果たしていないと抗議を受けてしまう。そこで、清国政府は「宣誓書」を出させて、国外に退去させようと考えた。
「宣誓による捕虜」の解放ともいわれる制度である。今後、戦闘行為に参加することはないと宣誓すれば、身柄は釈放され、故国に帰ることができた。わが国でも、開戦時に撃沈されたロシア巡洋艦ワリヤーグの乗員のうち、捕虜となった者に適用した例があった。
 結局、斎藤大尉を筆頭にして、大尉以外は偽名とでたらめな階級を書いた人員表を出した。いかにも適当な「活戦に従うことはない」という文言の文書を出して、全員が艦隊に合流したと児島氏の「日露戦争」にはある。
 次回からいよいよ陸戦に戻ろう。
 
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)7月1日配信)