自衛隊警務官(40)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(40) 情報を取る機関と日系人

はじめに

 いよいよ自民党総裁選挙です。お三人の候補者がいます。産経新聞のまとめを読みました。菅さん、手堅い印象です。安倍政権の継続性を感じます。テレワークを推進し、企業が地方に移転できるようにする。岸田さん、最新のデジタル技術を地方に実装し、リモート教育やリモート診療などを進める。最後に石破さんです。「国任せ」ではなく「地方任せ」にする。責任も地方でもってもらう。
 気になったのは外交・安全保障の分野です。菅さんは日米同盟を基軸にアジア諸国と付き合う。中国に対し主張すべきところは主張する。岸田さんも、基本的な価値観を共有する国と協力し、核軍縮などの地球規模の課題でルール作りを先導する。そうして石破さんは次のようにいいます。米中が協力する世の中にするのが日本の役割。対等な日米同盟をつくる。
 石破さん、ちょっと待ってください。米中の対立がいま現在起きているのに、尖閣にも中国が手を伸ばしてきているのに、米中の協力関係の仲立ちをする・・・。よく分かりません。対等な日米同盟にするとは、安全保障上、どうするのか。ちょっと夢心地の現実味のない話としかおもえませんが。
 そうして、どこまで正確かは分かりませんが、世論調査では石破さんがなかなかの人気だそうです。こうして考えると、そういう夢見心地の国際関係を信じている人が多いのがわが国社会の実態かも知れません。

特別寄稿へのお礼

 土本泰三さま、秘話の数々、まことにありがとうございました。まさに現地で体験者と接触した方にしか知られないお話の数々でした。ドイツ軍捕虜の実態、それと比べて規律正しかった日本兵捕虜。興味深いお話をありがとうございました。

敵性語追放運動

 さて、戦後の定説の1つに日本軍は「敵を知らなかった」、あるいは「敵を知ろうとしなかった」というものがあった。敵性語追放などといって、世間で英米語やフランス語などを使うことを禁止した。芸能人の名前なども欧米風のものを日本語に変えさせたなどというものである。
 プロ野球も職業野球といい、ストライクを「よし!」、ボールを「だめ!」。アウトは「ひけ!」などと言ったらしい。ショート・ストップは遊撃手、ベースは塁、ピッチャーは投手などというと、いまも野球の報道では使われている。
 自動車のハンドルは「転把(てんぱ)」、アクセル・ペダルは「噴射踐板(ふんしゃ・せんばん)」と言い換えて・・・と自虐的な笑いをとった漫才もあった。しかし、これはどれほど本気だったのか。戦後、いわれるほど徹底していたのだろうか。軍隊など、特に技術系部隊などでは、それらを使うことはとても非現実的なものだったに違いない。
 搭乗員待機所などというより外来語のピストの方が使われていたらしい。整備工具のドライバーも螺回し(らまわし)などより、ドライバーの方が言いやすいし、聞きやすかっただろう。つまり、あの敵性語追放運動は社会の気分をあおるためのものであり、生真面目に実行を強制したと言えるものではなかった。
 たとえば、陸軍の生活を描いた戦時中の新聞連載小説『陸軍』(火野葦平・1943年)に内務班の様子が描かれている。ゲームとして外来語を使うと罰金を取るという。「辛み入り汁かけ飯」がカレーライスの言い換えであり、郵便ポストは「三十二年式上方投入下方抽出式郵便箱」という。これらをつい言い間違えて、外来語を使い罰金だらけになったという笑い話にこしらえている。
この程度のことであり、憲兵が町を歩いて敵性語の看板などを摘発して歩いたとか、アメリカ映画を観て感想を言う人を逮捕したとか、みな戦後のでっちあげだったといっていい。

南西太平洋連合軍翻訳尋問部隊(ATIS)

 真珠湾が奇襲された。ついに日本が牙をむいたのだ。それまでも米軍情報部では、日本軍の実力についてさまざまに評価していた。日本人は近眼が多く、パイロットのほとんどは夜間や薄暮の飛行はできないという定説があった。米軍退役・予備将校による義勇空軍の戦果は過大に報告され、日本軍の航空機にも学ぶところはないとされた。
 それが意外な力を見せた。赤子の手をひねるように撃墜できると思っていたゼロ(零式艦上戦闘機)に新鋭機P40も落とされた。英国海軍の戦艦2隻も海軍攻撃機に雷撃で沈められてしまった。マレー半島では英軍の陣地が日本戦車に蹂躙された。「日本軍を知れ!」、「弱点を探せ!」ということになった。
 今回の稿もまた、山本氏の文春新書『日本兵捕虜は何をしゃべったか』に多くを依っていこう。
 ところが、オーストラリアでは早くも1941(昭和16)年初めにはシドニーに日本語学校が軍によって設立されていた。日本の軍事情報を日本からの帰還者から聞きだして集めようというのである。その役目を果たす隊員を養成するのがねらいだった。開戦からほぼ1年前のことだった。日本語を理解できる情報将校が豪州軍には少な過ぎたのである。
 しかし、これがうまく行かない。そのうちに開戦となり、日本軍はオーストラリアに迫ってきたのだった。1942(昭和17)年1月に空軍がまず捕虜を扱う部門をつくった。本格化するのはマッカーサーが幕僚たちと一緒にフィリッピンから逃げてきてからである。
マッカーサーは南西太平洋連合軍司令部をつくる。米・英・加(カナダ)・ニュージーランド・オーストラリアの各国軍がその隷下に入った。オーストラリア軍は文書翻訳部門をつくった。同年8月にはメルボルンに連合軍尋問センターが開かれる。
10月にはATIS、連合軍翻訳尋問部隊が編成された。大きく関わったのは、敗戦後の日本に君臨したGHQの謀略部門のチャールズ・ウィロビー大佐(のち少将)である。
ウィロビーとマッカーサーは8人の日本人2世を採用し、重く用いることをした。

日系二世の苦境

 
 開戦後、日系人がアメリカで不当に逮捕されたり、収容所に入れられたりしたことについては詳しく知られている。もともと「排日」の気分は第1次世界大戦後にアメリカの施策にも現われてきていた。1922(大正11)年には、日本人移民はアメリカの国籍を取れなくなった。さらに翌々年には移民そのものも禁止されることになった。
 1940(昭和15)年の数字で、アメリカ本土にいる日系人は12万7000人、ハワイには15万人が暮らしていた。そのおよそ三分の二が2世だった。18万人である。この2世の中には高い教育も受けていたが、社会の中ではひどい差別があった。黒人にも道は開かれていなかったが、日系人も似たようなものだった。
 開戦時には実は、約5000人の日系軍人が米軍に在籍していたが、彼らはただちに武装を奪われ、捕虜あるいは敵性外国人のような扱いを受けた。しかも西海岸出身の彼らの家族は仕事も住居を奪われ、砂漠地帯の収容所にも送られてしまったのだ。
 この2世たちにも区分があった。日本本土で3年以上の教育を受けて、10代でアメリカに帰ってきた者を「帰米(きべい)」あるいは「帰米2世」といった。アメリカ軍はこの人たちをもっとも警戒した。幼いころに日本で「皇民教育」を色濃く受けてきていると思われていたのである。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)9月16日配信)