自衛隊警務官(19)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(19) 日露戦争の国際人道法

はじめに

 いよいよ国内すべてに「非常事態」が宣言されました。とはいえ、罰則がない要請という形式ですから、わたしの身近でも多くの問題が生まれています。
 それは観光地への集中です。わたしの友人は鎌倉、逗子、葉山といった三浦半島の周辺部に住んでいるのですが、休日になると道路が渋滞します。海岸にはパラソルやテントが張られ、住民以外の人が街を歩き回ります。休日の様子は、まるで以前と変わらない・・・そういったことはどうなのでしょう。
 そんな中で、国民に一律10万円が交付されるとか。いろいろな批判があるようですが、わたしの意見は「事は拙速を尊ぶべし」です。困っている人には30万円などといえば、その確認手続きや、支給のタイミングも遅くなります。富裕層にも10万円は不公平だといいますが、使う金なら経済の活性化にもなり、来年の税申告で調整すればいい。
 とにかく困っている人に10万円ずつ。そうしてそれを必ず使う。使い道にあれこれ言う必要はありません。とにかく早く、支給をお願いします。

日露戦争と戦争の法規

 わが国は国際法順守の優等生といわれた。それは自己宣伝ばかりではなく、実際に外国からの観戦武官や報道人などによって証明されている。
 詳しいことは、元陸上自衛隊幹部学校法制教官佐藤庫八氏の知見から学ぶことができる。氏は『日露陸戦国際法論を読み解く-武力紛争法の研究』(2016年・並木書房)を書かれた。これからの記述は、いちいち断らないが、ほとんどを佐藤氏から学ばせていただいたと言っていい。
 有賀長雄博士(1860~1921年)は1904(明治37)年7月に満洲へ渡る船中で、陸軍参謀たちに次のように語った。
「日露戦争が文明戦争であったことを国際社会に証明するためには、戦争終了後、帝国陸軍が国際法を遵守してどのように戦ったかを記録・整理して、海外で発刊する必要がある」
 大山巌満洲軍総司令官と児玉源太郎参謀総長は、この提案をすぐに受け入れ、編纂を有賀博士に依頼した。
「文明戦争」とは、19世紀当時の国際的な法規慣例を守って行なわれた文明国間の戦争のことをいう。だからこそ、10年前の日清戦争では、自分たち日本を「文明国」と欧米諸国に認めさせようと懸命だったのだ。この20世紀が始まって数年でしかない時期では、欧米諸国の基準に照らして「文明国」と認められなくては国際法の正当の主体とは見られることはなかったのだ。
 だから、国際的な「陸戦規則」の適用は、当時の締約国のみに適用された。このことを「総当事国条項」という。なお、第2次世界大戦以降は、この「文明戦争」という用語は使われなくなった。
 有賀長雄(あるがとも読む)は大坂の国学者の家に生まれた。1882(明治15)年に東京大学文学部哲学科を卒業、翌年から翌々年にかけて『社会学』を公刊する。84年には元老院書記官になる。85~86年にかけて自費で欧州に留学し、ベルリン大学、パリ大学で学ぶ。ウィーンでは高名な法学者シュタインの講義を通訳する。「帝国憲法論」や「国法学」などを著し、93(明治26)年には特許局長。国際法を陸軍大学校、海軍大学校、のちの早稲田大学などで講義する。旅順要塞の開城では通訳を務めた。

明治大帝の指示

 明治天皇は次の5カ条を重要施策とされた。(1)戦争の法規慣例に関するすべての国際条約への加盟、(2)陸軍大学校及び海軍大学校における国際法講座の開設、(3)陸海軍省に平素から国際法専門家を配置、(4)開戦の詔勅に国際法遵守を明示、(5)満洲軍各軍に2名の国際法専門家の配置。
(1)については、日露戦争当時にわが国が適用していた条約は、1899(明治32)年の万国平和会議で制定された3つの条約・宣言と1868(明治元)年のサンクト・ペテルブルク宣言であった。
この3つの条約・宣言とは、①陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約、②人体内ニ入テ容易ニ開展シ又ハ扁平ト為ルヘキ弾丸ノ使用ヲ各自ニ禁止スル宣言(ダムダム弾禁止宣言)、③窒息セシムヘキ瓦斯又ハ有毒質ノ瓦斯ヲ撒布スルヲ唯一ノ目的トスル投射物ノ使用ヲ各自ニ禁止スル宣言、のことである。
(2)の陸軍・海軍大学校での国際法講座開設については、国際法の講義を受けた参謀官たちは300名以上に及んだ。よく知られているように、陸軍大学校条例が制定されたのは1882(明治15)年である。プロシャからクレメンス・メッケル少佐(1842~1906年)が招かれ、来日したのは85(明治18)年のことだった。それ以来、陸軍大学校は卒業生を出し続けた。

メッケル来日時期についての寄り道

ついでに、この時代の軍制上の転機にも寄り道しておこう。日露戦争を理解するのに少しでも助けになるからである。メッケルと陸軍大学校ばかりに話題が集中するが、陸軍幹部養成制度が大きく変わったのだ。
幹部養成制度がプロシャ式になった。士官学校には、士官候補生制度が採用された。これはそれまでのフランス式士官学校とは大きく変化した。それまでは士官学校生徒だったのが、士官候補生となったのだ。生徒時代は、ひたすら学校で修学し、卒業と同時に少尉に任官した。陸軍士官学校の期別では士官生徒一期などという。
これに対して、士官候補生は士官学校に入学を志望すると選抜試験を受けて、合格すれば、まず各隊に配属された。そこで下士卒の勤務を経験すると、その所属隊から士官学校へ派遣され、卒業すると部隊に帰り、見習士官(みならいしかん)となった。その後、各隊の将校団の内部選考を経て少尉に任官する。
 また砲兵と工兵のような技術系将校にはさらに学校が用意された。1889(明治22)年には、陸軍砲工学校が開かれ、砲兵科と工兵科の少尉は「義務教育」としてこの学校の普通科課程に入校した。さらに高等科も設けられた。
 陸軍大学校の課程は3年間だった。当時でいえば、超エリートである。高等教育の「専門学校」と同格だった士官学校を卒業してから、部内選抜を受けた上での3年間である。

国際法専門家の配置

 陸海軍の行政事務を法規慣例に従って行なわせるために、参事官として国際法の専門家を置いた。陸軍省には、法学博士秋山参事官、海軍省には法学博士山川参事官、同遠藤参事官の2名が配された。
 各軍にも専門家が配属された。軍とは数字で表された、師団を数個以上まとめた組織である。日露戦争では、第1から第4までの4個軍だった。また、韓国駐箚軍、樺太軍、遼東守備軍にも専門家を配した。これらに配属された専門家は国際法学会の会員から選ばれた。
 身分としては、予備将校の身分がある者は召集を受け、将校の身分がない者には陸軍高等文官相当官として服務した。彼らは、陸戦の法規・慣例に関する事件があるごとに、諮詢を受けて回答し、訓令や規則を立案することをした。
 次回はこれを続けていこう。軍法会議や軍律会議についても書かねばならない。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)4月22日配信)