自衛隊警務官(9)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(9) 憲兵ついに創設される

ご挨拶

 コロナ・ウィルスの蔓延も収まらず、水際による遮断も成功しているからでしょうか。先日は碇泊中のクルーズ船が見えました。乗船されている方々が心配です。

竹橋事件の衝撃

 あろうことか天皇の身辺を守るはずの近衛砲兵が「反乱」を起こした。直接的には西南戦争で彼らは大活躍したのに、その行賞が遅れたせいである。当時、戦費のために国家財政はたいへんな苦境にあった。そのため、やむを得ない事情でと説明はしたものの、彼らの不平は収まらなかった。しかも、近衛砲兵をはじめ軍人の給与が減額されたのである。
 当時の新聞記事を抜粋してみよう。事件はまず1878(明治11)年8月23日の夜に起こった。午後7時30分頃、大山巌(おおやま・いわお)少将は騎馬で近衛局に駆けつけた。参謀長野津道貫(のづ・みちつら、のち元帥大将)大佐は赤坂の仮御所(今の迎賓館)へ行き、警備の手配をした。参謀西寛二郎(にし・かんじろう、のち大将)少佐は竹橋内の近衛砲兵営に状況を偵察に行った。
 事件は部下の勝手な行動を鎮めようとした砲兵大隊長が斬殺されたことから始まった。大隊長は殺される前に、風紀衛兵(当直司令のもとに勤務する衛兵隊)に非常喇叭(ラッパ)を吹かせた。それを聞いた隣接する近衛歩兵第1・第2聯隊の兵が指揮官の命令で整列し、叛徒に射撃を始めた。叛徒は対抗して砲を撃った。携帯する自衛用の騎銃で撃ち返す者もいた。事態を収拾するために叛徒の中に飛び込んだ砲兵隊週番士官も銃剣によって殺されてしまった。
 厩(うまや)は放火された。さらに清水門と雉子橋(きじばし)の間の土手にあがって、大蔵卿だった大隈重信(おおくま・しげのぶ)邸に小銃弾を撃ち込んだ。当時。緊縮財政の元は大隈が主導する大蔵当局のせいだと思われていたのだ。結局、鎮圧されてしまうのだが、このとき東京には非常事態を知らせる5発の号砲の音が響いたという。
 軍隊の統制強化は当局によって規範がいつも出され続けてきた。1869(明治2)年4月の「軍律」、71年の「海陸軍刑律」と「軍人の掟」、「軍人読法」、翌72年には「誓文」と「歩兵内務書」がある。また77年には「将校免黜(めんちゅつ)条例」、そうしてこの竹橋事件より2カ月後に出た「軍人訓誡(くんかい)」がある。一貫しているのは、とにかく服従を力説しているところである。
 前にも書いたが、当時の兵士・軍人は、藩兵出身の壮兵(志願兵)が数多く、徴兵された兵士の中にも士族出身者と農工商出身が混在した。また、近代的組織の階級はあったものの、それを越えた同志的な意識や郷党が同じだという気分が命令などを通しにくくしていた。
 1871(明治4)年に出された「掟(おきて)」の内容は、忠誠・敬礼・服従を勧めて、徒党を組むこと、脱走すること、乱暴などを禁じている。ということは、いかに当時は禁じても、禁じても、上官に服従はしない、徒党を組む、脱走する、暴れるなどという事態が多かったことが分かる。

ちょっと脱線・俸給の話

 当時の軍人たちの給与は、近衛と鎮台、各兵科・部によって異なっていた。参謀科の将校が最も高く、砲兵、工兵、軍医部、薬剤部、騎兵、輜重兵、会計部、歩兵、馬医部の順になっていた。そして、近衛は鎮台所属に比べて、将校、下士、兵卒もすべてが高額だった。砲兵、工兵は技術的な色合いが高く、大切にされていたことが分かる。
 俸給表の一部から比べてみよう。鎮台の砲兵・工兵は一等卒で日給6銭である。1カ月の平均では1円82銭5厘になる。これが近衛砲兵・工兵の一等卒は日給8銭4厘だから、1カ月では2円55銭5厘になる。年収では21円90銭の鎮台兵に対して、近衛は30円66銭になって、その差額は8円76銭にもなった。兵の中では最も低かった鎮台歩兵一等卒の日給5銭と比べれば、近衛歩兵一等卒も日給7銭だった。
 当時の物価では、そば(もり・かけ)が1杯8厘(1銭の10分の8)である。酒も並等酒で一升(1.8リットル)が2銭6厘だったから、外出時の憂さ晴らしにかかる費用も近衛と鎮台ではずいぶん違ったことだろう。
 警視庁巡査の初任給が4等巡査月給6円で、暮らしがたいへんだったと『明治百話』(篠田鉱造)に載っているから、衣食住は別で一等卒の2円50銭あまりは独身ならよい暮らしだろう。小学校の教員も安月給だった。明治19年頃で5円だったともある。

憲兵隊の創設事情

 準備は1879(明治12)年頃から始まったらしい。その作業に関わった弘田憲兵中尉の覚書が『日本憲兵史』に載っている。またまた現代語にして要約してみよう。
「明治12、3年頃でしょうか。戸山学校から陸軍省へ転任しました。上司の命に従って、憲兵隊創設について、その組織、職掌、権限などについて実況を取り調べるためでした。そのため文明国の公使館付き各国武官に直接面会し、事情を聴取して来いとのことで、通訳を帯同して英・仏・独の武官に面会してきました」
 では、憲兵の出身母体はどうするかということで興味深い対立があったようだ。「軍人精神を基礎として、警察の職権を執行するのだから、将校以下軍人を7割、警視側(内務省警視局、警視庁)の人員を3割とすべし」という考え方があったらしい。弘田少尉は、全部、軍人で組織すべしと外国軍隊の聴取から信じていたが、上部ではそうは考えなかった。むしろ発足にあたり、警視庁警察官が多数、陸軍側は少数の転科者が憲兵になるということになった。

憲兵隊発足時の将校の出身

 33名中の警察官出身は24名にもなった。本部隊長は警視局少警視だった三間正弘(みつま・まさひろ、1836~99年)憲兵中佐である。副官は歩兵大尉からの転科者、分隊長6名のうち歩兵大尉からの転科者は2名のみである。4名の警察官からの転入は1等警視補(中尉相当官)で、そろって憲兵大尉に任用されている。隊付の中・少尉のほとんどは元警部である。なお、前官に陸軍将校の階級にある者がおり、これは西南戦争中に従軍した警察官で構成された新撰旅団(正式には別働第3旅団)所属者だった。
 中でも初代憲兵司令官にあたる三間については、その経歴が目覚ましい。それは元越後長岡藩士だったことによる。越後長岡といえば、戊辰戦争で官軍に猛烈な反撃をした河井継之助(かわい・つぐのすけ)は有名だろう。河井は家老として、また軍事総督として洋式軍備を整え、武装中立を貫こうとした。それが相手の官軍参謀の不手際から開戦となり、官軍はひどく苦しむことになった。
 このときの長岡藩軍将校の1人が三間だった。敗走して会津に行き、ここで降伏する。しかし、その能力の高さで罪を許され、長野県小諸藩大参事(副知事にあたる)に登用された。西南戦争では歩兵少佐で別働第3旅団参謀として出征する。そのとき、川路旅団長が戦線を去り(重症の脚気といわれている)、臨時に陸軍少将大山巌が指揮を執ったが、そこで三間の力を評価したのだろう。
 戦後には大山が警視局長になったが、その部下が少警視だった三間である。この事実は三間が憲兵中佐に転身したことと大きな関わりがあるとみていいだろう。なお三間は1884(明治17)年に大佐に昇任し、89年には初代憲兵司令官になる。93年から96年には石川県知事も務めた。
 次回は『陸軍省第六次年表(明治13年7月~14年6月)』の憲兵設置についての記述から紹介しよう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)2月12日配信)