自衛隊警務官(25)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(25) 旅順港内への夜襲
はじめに
コロナ禍に対する緊急事態宣言は解除されました。少し、緊張はゆるめられてきたのでしょうか。いよいよ6月1日から、通常の業務に戻られる方々もおられるでしょう。かく言うわたしも、毎日、学校にお手伝いに行きます。子供さんたちの様子も気になりますが、通勤の途上の様子も気になるところです。
これまで以上に予防には気を付けるつもりです。
その夜の旅順港内
ワリヤーグとコレーツは袋叩きにあった。午後12時20分、ワリヤーグの砲撃は日本艦隊に何の被害も与えられず、逆に15発の命中弾を受けた。コレーツは小型ゆえか被弾は1発ですみ、人員の損害もなかった。ワリヤーグは死者30人、負傷者80人を出した。0時50分から両艦はようやく港内に避退し、日本艦隊も砲撃を停止した。
英仏伊の各艦は軍医などの衛生要員をワリヤーグに送った。すでに艦の傾斜も15度以上になっていたワリヤーグ艦長は「自沈する」決意を3国に通知した。16時5分、砲艦コレーツは艦底にしかけた爆薬で、ワリヤーグはキングストン弁を開き、自ら港内に沈んだ。18時10分頃、両艦の沈没は確認された。商船スンガリーも20時ころ爆砕された。
ワリヤーグの負傷兵のうち重傷者の24人は仁川赤十字支社病院に運ばれた。2人はその後亡くなり、22人は愛媛県松山の赤十字病院に移り、ロシアに送還された。健全な乗員とスンガリーの乗組員、合計725人は英仏伊の巡洋艦に乗り、シンガポールやサイゴン、香港経由で本国に帰還した。
ところで、この海戦のことは日本が世界に向けて発信するまで他国には知られなかった。それがロシア宮廷にでもある。
日本に開戦第1発を撃たせよ
2月8日の朝、ロシア皇帝は旅順の極東総督に電報を打っていた。その要旨は次の通り。戦争は日本から始めさせろ。日本軍が南韓国と元山より南の東海岸に上陸しても、総督は何もしなくてもよい。しかし、日本艦隊が陸軍部隊を共にしていようが、そうでなくても、北緯38度線を越えたなら、ただちにこれを砲撃せよ。
2月9日朝、ロシア皇帝は宣戦布告書を発表した。
その主張は、日本は交渉を勝手に中止し、外交関係の断絶も通告してきた。この外交関係の断絶は、軍事行動の開始を予告するものではないのに、旅順要塞の外港にあるわたしの艦隊を水雷艇で襲撃した。このことによって、わたしは日本の挑戦に応じることにしたというものである。
翌2月10日、開戦の詔勅を発表した。この詔勅は午前10時45分から、英、米、タイ、清国、韓国の駐在公使、さらにその他の名誉領事に打電され、各国政府に通告された。ロシア側の公表も、同じく10日に官報で行なわれ、同時に宣戦布告をされたと世界では受け止めた。
このことについて、「日本側の騙し打ち」という評価はフランスの新聞だけしか下さなかった。宣戦布告前の旅順港攻撃はとくに問題なしとしたのである。
以前に書いたように、「開戦ニ関スル条約」が締結されるのは1907(明治40)年のことである。この1904(明治37)年の時点では、宣戦布告を開戦前に通告することはむしろ、稀だった。児島氏によれば、日露戦争までの150年間の間に起きた110回の戦争のうち、事前通告後に攻撃を始めた例は7回しかなかったという。
宣戦布告書の役割、意味は戦争の理由・意味を自国と中立諸国に知らせるということである、宣戦は無意味であり不必要だというのが、国際法学会の主流意見だった。
旅順港を夜襲せよ
2月8日の午後6時、仁川でロシア艦が自沈したころ、旅順の市街地は賑わっていた。この日はロシア暦では1月26日にあたる。ギリシャ正教の「マリア祝名日」だった。聖母と同じくマリアという名前をもつ女性を祝うしきたりである。これまで流されてきた噂がある。太平洋艦隊(旅順)艦隊スタルク司令長官が、長官官邸でパーティーを開き、艦隊の士官も多くが招かれてきたといわれる俗説である。
しかし、これはロシア海軍を不当におとしめる話であり、油断しきった相手に勝ったというのはあまりに失礼な話だろう。児島氏が指摘しているが、この夜、スタルク中将は長官官邸におらず、総督官邸から午後8時には旗艦ペトロパウロフスクに帰っていた。長官と参謀長は夕食をともにし、駆逐艦2隻が夜間哨戒にすでに出ていることを承知していた。
2隻の駆逐艦は翌朝までに2回同じコースで港外をパトロールするのである。
午後9時には、総督府の海軍部参謀長ウィトゲフト少将と軍港司令官グリョーヴェ中将が艦にやってきた。巡洋艦4隻を哨戒に出すこと、夜間に艦隊に行動の自由をとらせるために水雷防禦網の取り外しを上申したことへの総督の返事を渡すためである。アレクセーエフ総督の裁決は、経費節減のために夜間哨戒の巡洋艦は1隻でよい、水雷防禦網について日本海軍は夜襲を好むから外すなというものだった。
総督アレクセーエフは決して海軍の素人ではない。海軍士官学校を卒業し、世界一周航海も経験し、パリ駐在武官を務め、1900(明治33)年の北清事変では太平洋艦隊司令長官として旗艦ペトロパウロフスクに座乗していた。総督になるのは1903年のことだった。
午後9時35分頃、第1駆逐隊司令の乗る駆逐艦白雲(しらくも)の見張員は右舷はるか前方にサーチライトらしい光がチカチカと明滅するのを発見した。敵艦隊の警戒だ、警戒をゆるめず駆逐隊は13ノット(約時速24キロメートル)で目標を目指した。
9時55分頃、海上に濃霧が立ち込め始め、その中を灯火が動いてゆく。駆逐隊が速力を落とし、観察すると航海灯を点けたロシア駆逐艦が2隻、わが進路を横切りながら北東に進んでいく。駆逐隊司令浅井大佐はただちに進路を右に変えて、艦尾灯を消させる。ロシアの2隻の駆逐艦は、自分の右舷方向の日本駆逐隊の存在に気付かず進んだ。
混乱したのは日本艦隊である。第1駆逐隊の旗艦は白雲、それに続く朝潮、霞(かすみ)、暁(あかつき)は白雲に続いて右に転舵したが、事件は後続する第2駆逐隊で起きた。1番艦雷(いかずち)が先行する第1駆逐隊の艦尾灯が消えたことに応じて、いったん停止した。そのため2番艦朧(おぼろ)が右に突出してしまう。それに気付いた朧は左に舵を取り、たちまち停止中の雷の右舷にぶつかってしまった。
真っ暗闇の海上である。雷は先航する暁を見失い、さらに続航する第3駆逐隊も第1駆逐隊を完全に見失うといった大失態だった。第3駆逐隊は司令駆逐艦は薄雲(うすぐも)、東雲(しののめ)、漣(さざなみ)だったが、漣も離れてしまった。
結局、隊でまとまって旅順港に向かったのは第1駆逐隊の4隻と、第3駆逐隊の2隻の合計6隻になってしまったのである。
次回はいよいよ海戦の経過を述べ、つづいて陸戦の法規に関する話に戻そう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)6月3日配信)