自衛隊警務官(12)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(12) カーキ色と憲兵

ご挨拶

 たいへんな事態になりました。総理が学校の臨時休校への協力を要請されました。こんなことは近代教育史上初めてのことです。わたしの関わる横浜市では市立小・中・高等学校は3月2日(月)まで通常登校、3日(火)から13日(金)までを臨時休業とし、9日をもって再検討の日としました。つまり、児童・生徒の再登校は16日(月)となります。それまでに児童・生徒の健康状態を把握し、さらに休業を延長するのかどうか検討するという方針です。
 対して川崎市は3日に登校し、4日から春期休業までをすべて臨時休校。もう、有無を言わさず学校を閉鎖しようとする計画です。卒業式も終業式もなく、4月の6日でしょうか、前例のない「終業・始業式」を行なうということになりましょう。
 とたんに様々な反対意見が出ました。働く親で面倒を見られない家庭はどうするのか、子供だけで家庭にいさせていいのか。
 しかし、問題は「子供たちの健康維持」です。あるテレビ、あからさまに言えばTBSの番組ではコメンテーターの医師が「子供にはコロナ・ウィルスの感染力が低いから休校は暴挙だ」と公然と発言していました。そうでしょうか。事実、子供にも感染が確認され、学校現場で子供たちを預かる私どもは、彼ら彼女らが現在抱える多くの疾患を知っています。喘息、糖尿病、心臓病、腎臓病、各種のアレルギーなどなどさまざまな児童・生徒がおります。
 老人でも多くの方々が肺炎などを併発して亡くなっています。だから、子供に感染力が弱いなどと、どこから出た数字なのか。あるいは、一斉休校など大げさだという主張は、医師としてふさわしいのか、大いに疑問と怒りをもつ次第です。いつでもTBSは毎日新聞と論調を同じくする「親中国」寄りの報道が多い印象があります。今回の子供たちの命を守り、少しでも安全にという多くの方々の祈りを踏みにじったと主張と言えましょう。

カーキ色の戦時服制

 1904(明治37)年2月8日、日露の戦端が開かれた。同月中に、勅令第29号が出された。「戦時あるいは事変」においては、陸軍将校・同相当官・准士官の軍衣は夏衣(なつい・白服だった)と同じ制式でよいとされた。つまりモール付きの肋骨服ではなく、金色ボタンが5個あるいは6個で色は濃紺絨、もしくは紺絨、袖章は黒線とするものになった。そのとき、夏服の白は「茶褐色(ちゃかっしょく)」としても良いとなった。
 1893(明治26)年に制定された白色の夏衣の型をそのまま使ったのだろう。もちろん、カーキ色の染料で染めたに違いない。太田氏の指摘によれば、陸軍服制上、はじめて「茶褐色」が使われたという。
 以下、太田氏の著書からカーキ色についての話をまとめてみよう。まず、カーキはKhaki、Khakee、Kharkeeなどと書く。原語は土や埃(ほこり)を意味するペルシャ語からきたという説もある。1857~58年の戦闘から広く着られるようになったらしい。この戦闘はインドのシハーピー(セポイ)の反乱で世界史でも習った方が多いだろう。
 この反乱は、もともと北インドのメートラ駐屯地での傭兵の反乱から起こった。新式のエンフィールド小銃の弾薬筒には湿気防ぎと成型のために牛脂や豚脂が塗られていた。その弾薬装?ため、口で噛み切ることをヒンドゥー、ムスリムの両教徒が拒んだことが原因となったという。
 もちろん、他にも説がある。1846年にペシャワール(パキスタン北西部の都市、交通の要地にあり、古代ガンダーラ王国の首都)で偵察隊を組織した英国陸軍ラムスデン中尉が、部下にゆるやかな外被を着せた。その着色が椰子からとった染料で、河の泥で染めたという。
 また1851~53年、南アフリカのカッフィール族との戦闘で、歩兵第74聯隊が、栗色(ドラップ)のスモックを着たのが始まりだという説もある。当時は英国陸軍の制服は夏衣が上下とも白だったから、インドで土民兵の反乱が起きると、討伐に出かけた英国兵はみなドラップに染めたらしい。

英国陸軍のカーキ色

 英国陸軍は1899年と翌年にわたる第2次ボーア戦争でカーキ色軍服の実験ができた。わが陸軍も、このボーア戦争の戦訓や情報を集めた。ボーア戦争とは、1852年にトランスヴァール共和国の独立を認めた英国が、今度は1880年に当面した反乱である。3年前の1877年、ダイヤモンド鉱の発見で、英国に併合されたオランダ系国民の怒りが爆発したのである。これを第1次ボーア戦争という。結果は当初優勢だった南アフリカのボーア人たちは、本格的な兵力投入をした英国に敗れた。
 この戦争でカーキ色軍服が有効であったのは、小銃の射程の延伸が理由だった。当時の後装式ライフルの射撃は肉眼での照準が可能な500メートルにまで達していた。また、植民地の反乱対策としての機関銃の採用もあった。
発射反動をその重量で吸収して、安定した射弾の集中がある機関銃は800メートル離れていても有効な射弾を送りこめた。敵味方の識別を容易にする派手な色の軍服は、密集した隊形で戦場に現われるのはまったくふさわしくなかった。こうして英国軍は1902年には全軍にカーキ色軍服を支給するようになった。

カーキ色の「戦時服服制」

 映画でも、あるいは写真でも、多くの日露戦争の記録写真は紺色の軍衣袴を着けた日本兵の姿がよく見える。いくら開戦すぐに勅令が出ても、戦時であったし、製造も補給もなかなか間に合わなかったこともあるだろう。野戦軍100万、内地軍30万人の被服の改正などはなかなかできるものではなかった。
 だから戦地で将校が集まっている写真を見ても、夏季用の白服あり、肋骨服、夏服型式の茶褐色服とバラエティに富んでいることがよく分かる。また、これまで反りのない、直剣のエペーを帯びる規定だった将校相当官(衛生、獣医、経理各部士官以上)も「軍刀」を佩用することとなった。それまで軍医や獣医、経理官の准士官以上は、みな儀礼刀と同じ正剣を帯びていたのだった。
 1905(明治38)年7月11日、勅令第196号によって、「戦時服服制」が公布された。これをいつものように、現代語に抄訳してみておこう。
日清(1894~5年)と北清事変(1900年)の戦役と今回の日露戦争の数回の経験から、軍服の染色は「土色」に類似しないと、容易に敵に発見され、無益の大損害を受けることになる。全軍は100万人もの動員をしなければならない。しかも海外遠く、長期間にわたって行動させる軍隊にあっては、たとえ工業技術に進んだ国でも、制式が複雑で、兵科ごとに特徴があり、互いに流用できない軍服を製造することは難しい。
 ましてやわが国のように工業技術が発達していない国では、制式を少しでも単一にして製作補給の便も図らねばならない。本案はこうしたことから、重量は軽少であり、防寒防湿に優れ、屈伸が自由で、地質は耐久性に富むという観点から提出した。
 さらに提案者はこうも言う。戦時服だということに限定すると、平時にこれを用意することは、莫大の経費を必要としてしまう。そこで、被服を官給される下士以下は、平時もこれを用いて、将校や相当官、准士官もこれを使うようにする。
 たしかに大きな襟章と肩章が兵科を表し、軍帽の鉢巻きも色が異なるようでは、製造も面倒である。憲兵や近衛騎兵の茜色のズボンなどは高価で面倒でもあった。

制式化された新軍服

 1906(明治39)年4月12日、勅令第71号でこれまでの「陸軍戦時服服制」を「陸軍軍服服制」と改めることにした。これが細かい改正はあっても、昭和の初めまで続いた軍服となった。
 軍帽(軍衣袴のときにかぶる)は正式には第2種帽といった。上着は軍衣、ズボンは軍袴、各兵科各部の識別は襟章、階級表示は肩章、外套(コート)、雨覆(マントのこと)とそれぞれに規定があった。
 軍帽も茶褐色で鉢巻きと喰出し(はみだし)といわれるラインは緋色である。星章に区別があって兵科将校は金色金、各部相当官は銀色金属だった。庇(ひさし)と顎紐(あごひも)は黒革。近衛師団所属は、星章を桜枝で周りを囲んだ特別徽章を付けた。
 軍衣は茶褐色の詰襟型で、ボタンは5個、色が兵科は金色、各部は銀色、模様なしの艶消しだった。袖には1分(約3ミリ)の緋色のラインが入った。袴にもサイド・ラインで幅1分の緋色がつく。
 襟章で各兵科、各部の識別をした。憲兵黒、歩兵緋、騎兵萌黄、砲兵黄、工兵鳶、輜重藍が定色となった。各部は経理部が銀茶、衛生部と獣医部は深緑となる。この両襟に付いたカラー・パッチは兜の鍬形(くわがた)の形ともいわれる。喉もとには兵科と各部を表す色がついた。
 このパッチの上には現役、予備役の場合は真鍮製のアラビア数字の部隊番号がついている。たとえば、緋色の襟章の上に3が付いていれば歩兵第3聯隊である。鳶色の襟章に8という数字が付いていれば、工兵第8大隊の所属ということになる。後備役はローマ数字で番号を付けて区別した(後にアラビア数字の下に横線を入れるようになった)。
 この伝統は、今も陸上自衛隊に受け継がれ、制服の左肩につけている盾形のエンブレムは所属を表している。職種(兵科)を表す色も伝承され、普通科(歩兵)は赤である。特科(砲兵)は黄色、施設科(工兵)は臙脂色(えんじいろ)となる。第1師団は富士山の絵があり、その上部には職種色がついている。1という真鍮のアラビア数字で、その隊員が第1普通科連隊所属であることを表す。
 階級の区別は肩章で見分ける。この肩章は縦型で、鎖骨の向きと直角につける。これはアメリカ陸軍が南北戦争の頃から、米軍将校の礼装はこの形である。将校の階級章は緋絨の長方形の台地の両側に兵科は金色、各部は銀色の縄目繍(なわめしゅう・織り上げた太線)をつけた。その間に兵科は平織金線、各部は同銀線を置く。その線上に兵科は金星、各部は銀星金属の星章をのせた。少尉、少佐、少将は1個、中尉、中佐、中将は2個、大尉、大佐、大将は3個である。将官、佐官、尉官の区別は平織金線の幅で見分けた。将官はほとんど台地の緋絨が見えず、「べた金」といわれた。佐官はこれよりやや細く、尉官はもっと細くなり、緋色の見える面積が多くなった(後に尉官は1本、佐官は2本となった)。
 このとき、憲兵将校は黒襟をつけて、他兵科と同じくカーキ色の軍衣袴をつけることになった。有名な憲兵腕章は1923(大正12)年に制定された。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)3月4日配信)