自衛隊警務官(13)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(13) 俘虜(捕虜)となる資格
ご挨拶
「姿の見えない敵」への備えはどうしたらいいのか。不急不要の外出は避けよとか、多くの人が集まる場所には近づかないようになどと言われています。しかし、外出しなくてはならない事情は誰にでもありましょう。公共交通機関を使わねばならない地域や人々も当然おられるわけです。
そうした方々が、せめてもの自衛と考えてマスクをされています。しかし、専門家からすれば「予防」には何の効果もないようです。自分が風邪などに罹っているから、他人に害を及ぼさないようにエチケットとして着けている方が多いと思います。
テレビなどのマスコミではマスクを着けることを、さも愚かなことのように語る「識者」が多いようですが、多くの人の実感では違うのでしょう。むしろ、愚かな行為は、失礼ながら不特定多数の方々が狭い空間に集まるところに行くことです。大阪のライブハウスはそれでしょう。
いやそれは愚かではない、やむにやまれず行ったのだというのなら仕方もない。病気にかかることは法的な罪ではありません。しかし、愛知県の方の例のように自分が陽性であることを承知し、行政機関から自宅待機を要請されているのに、敢えて外出する人は反社会的行為を行なっていると言っていいでしょう。
それにつけても心配なのは、消費の落ち込みです。わたしですら3月中から4月にかけて多くの会食をする企画が中止、延期になりました。数えてみると10回ほどにもなります。それだけでわたしの財布は軽くなることを免れますが、本来、回っていた消費が止まっているのです。大きな自衛隊行事などでは千食単位のケータリングがキャンセルになり、いつもお世話になっている業者の方々のため息が聞こえるようです。
もっとも大切なのは、十分な睡眠と健全な食事などいう免疫力を高めることと、うがい、手洗いといった基本的な衛生行為だといいます。皆さま、お大事にお過ごしください。
はじめに
不幸なことに戦争になれば、俘虜(ふりょ・捕虜と同じ)が出ます。負傷して戦闘能力を失い捕獲された者、自らの意思で投降した者は相手側の軍隊の管理下におかれます。その待遇や、国際的な決まりはどうだったのでしょうか。本稿は主に憲兵の歴史を扱いますが、その前に「国際人道法(戦時国際法)」について考えていきます。
捕虜になった文筆家
やむを得ず武器を捨てて、抵抗の意思がないことを示して敵の手にわが身をゆだねる。あるいは負傷して、意識もないままに敵手に落ちる、こういったことは昔からあった。捕虜の体験記は、わが国にも多くあるが、『俘虜記』といったそのものずばりの文学作品がある。高名な評論家でもあった大岡昇平は戦争末期にフィリピンで、人事不省で戦場の路傍に倒れていたところをアメリカ兵に保護された。
そこで大岡が書いていることが興味深かった。収容所では、アメリカ兵に「サレンダーしたのか」と聞かれ、大岡は「いやキャプチュアされたのだ」と胸を張ったという。サレンダーは自らの意思で武器を捨て、抵抗の意思がないことを明らかにして降伏したことである。これに対して、キャプチュアは不可抗力で「捕獲」されたことをいう。
大岡は確かに、自ら武器を捨て、白旗を掲げたのではない。自分は意識を失い、気が付いたら敵の手の中にあったと言いたかったのであろう。確かに召集中の補充兵とはいえ軍服を身に着け、武装し、いざとなれば戦うという意思はあったわけだ。だから大岡はきちんと「戦時国際法」に定められた捕虜としての待遇を受けて、米軍から治療を受け、収容所に送られた。75%が死んだというフィリピンで少数だった生還者になれた。
昔の捕虜は身代金で解放された
戦争が多くあった欧州では、騎士の時代から捕虜や降伏といった話があった。このあたりはすでに古典的名著といえるだろう吹浦忠正氏の『捕虜の文明史』(1990年新潮選書)から多くを学ばせてもらおう。
騎士の時代といえば欧州史では中世にあたる。欧州の封建社会はほぼ10世紀には完成し、その後の300年がもっとも華やかな時代といえるだろう。わが国では、譲位した上皇が政治権力をふるった「院政時代(11世紀初頭)」とほぼ重なる。
欧州の中世の最盛期といえば、1096年からの十字軍であるなら、14、15世紀は中世の晩年にあたる。わが国では鎌倉幕府が滅び(1333年)、応仁の乱(1467年から)などが起きたのが15世紀である。
この時代は、吹浦氏や鯖田豊之氏(『戦争と人間の風土』、『生きる権利と死ぬ権利』などの一連の戦争と国民の戦争観についての優れた研究がある)によれば、騎士たちの「名誉の問題」と経済的実利の希求が混在していたという。
つまり、戦闘の結果、得た捕虜は身代金と交換できたのだ。もっとも、緊急の場合には殺してしまったということもあったが、捕虜は原則的に金を払えば自由になれた。戦争で捕虜を得れば、大儲けができたのだ。だから、百年戦争(1339~1453年)の間、1415年のアザンクールの戦い後の出来事は大変だった。
ブーイングを浴びたのは英国王ヘンリー5世である。フランスのアザンクールで、カレーに向かっていたフランス軍40000人が大敗した。6000人のヘンリー王の軍勢は湿地の奥に陣取り、森と森の間の平地に、先が尖った木の杭(くい)を多く植えこんでいた。騎馬で森林を越えるのは大変だった。
湿地をようやっとの思いで越えてきたフランスの騎士軍は、開けた地形に埋められた杭に行く手を阻まれた。前には進みにくい、後ろは状況が見えないから前へ、前へと押してゆく。そこを英軍の弓兵の猛射にさらされ、歩兵によって攻撃された。
フランス将兵の戦死は多かったが、捕虜になった者もたいへんな数にのぼった。勝利に酔いしれていたとき、ヘンリー王はフランス軍が逆襲を計画中という報告を受けた。準備のためには捕虜は邪魔にしかならない。ヘンリーは捕虜を殺すことを部下たちに命じた。しかし、部下たちはそれに従おうとしなかった。みすみす大金を得るチャンスを失うのだ。
しかたなく、ヘンリー王は直属の弓兵たちに命じて、捕虜をみな射殺してしまった。結局、逆襲は誤報であり、おかげで王は長い間、非難を浴びることになった。捕虜を殺すなどひどい、とか人道的ではないというような文句ではなかった。せっかくの身代金を得るチャンスをどうしてくれるという不満だったのである。
捕虜に人権はあったか?
主に身代金目当てに優遇された捕虜だったが、トラブルも多く、殺された者たちもいた。それが少し様子を変えてくるのは18世紀後半になってからである。積極的に捕虜の人権を認める立場の主張が生まれてきた。エメルク・ドゥ・ヴァッテル(1714~67年)は有名な国際法学者だったが、彼は1758年に「国際法」を発表した。そこでは、「敵が武器を捨て、降伏したら捕えた者はとたんに捕虜の生命に対して何の権利ももたない」とした。捕虜の安全は保たれて、そのために監禁されることはあり得るとも言った。逃亡を防ぐために足かせははめても、犯罪以外には過酷な罰を受けることはないともした。
同じころ、ジャン・ジャック・ルソー(1712~78年)は「社会契約論」の中で、戦時捕虜について次のように主張する。
「戦争は人と人との関係ではない。国家と国家の関係なのだ。個人は、人間としてではなく、市民としてでもなく、ただ兵士として偶然にも敵となるのだ。だから防衛者が武器を手にしている限り、これを殺す権利はある。しかし、武器を捨てて降伏したなら、敵であること、敵の道具であることをやめて、単なる人間にかえったのだから、誰もその生命を奪うことへできない」
ヨーロッパ社会では、19世紀になるとこうした常識が通用するようになってきた。
総合的なハーグ陸戦法規
1856年には戦時中立国について定めた「パリ宣言」が出された。クリミア戦争はイギリス、フランス、サルデーニャ(イタリアの一部)、オスマン帝国の4カ国連合とロシア帝国のあいだで戦われた。この終結についてパリで話し合いがあったときの合意である。
1864年には「戦地軍隊傷病者ノ保護ニ関スルジュネーブ条約」、特定の武器等の制限を決めた68年の「セント・ペテルスブルグ宣言」、74年には「ブラッセル宣言」、80年には国際法学会が採択した「オクスフォード・マニュアル」などが作られた。
1899(明治32)年には第1回ハーグ万国平和会議で、初めて総合的な戦争法規が成立した。そこでは、敵に不必要な苦痛を与えるダムダム弾や毒ガスの使用が違法であることなどが明記された。
ダムダム弾とは、小銃や機関銃、拳銃などの小口径弾の弾頭に傷をつけたものをいう。人体などに命中した時、その弾頭が潰れたり、力学作用で旋転が不規則になったりして、その作用で残虐な傷を負わせるためのものをいった。したがって、これ以降、弾頭の鉛の露出が違法となり、軍用実包はみな銅などで表面を覆うようになった。
「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」全部で9条で、それに付随した「陸戦ノ法規慣例ニ関する規則」全56条である。
この法規第2章は、その後の世界大戦(1914~18年)の経験を取り入れて、1929年になって独立した「俘虜ノ待遇ニ関スル条約」全8章97箇条に発展した。
次回はさらに詳しく、「捕虜になる権利」や「交戦権者」の規定などを見ていこう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)3月11日配信)