自衛隊警務官(23)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(23) 戦闘開始、打方始め!
お礼
MMさま、いつもご愛読ありがとうございます。また、9月入学試案・・・いつの間にか消えてしまいました。混乱期に乗じて「変革」を志した方々、うかつにも乗ってしまった方々、この危機へのそれぞれの思惑が透けて見えるような気がしました。
おっしゃる通り、長い議論の時間をかけて行なうのが制度改革です。ただ、同時進行は難しい。まだまだコロナ禍については気を緩められません。
ご投稿、ありがとうございました。勇気が出ました。
なお、今回も記述については確認をしつつ、児島襄氏の『日露戦争』に多くを依りました。
千代田艦の隠密出港
千代田艦長は2隻のロシア軍艦を注視していた。いつ攻撃されるか、気が気でなかったのである。ところが2艦は自分たちが危険視されているとは思っていなかった。目の前の千代田よりも自分たちの後方を気にしていたのだ。情報がない。旅順とも連絡が取れなかった。不安感がつのるばかりだった。
千代田艦ではいつでも戦闘が始められるように、艦内は「戦闘配備」についていた。その様子を、帰ってからしゃべられては大変なことになる。艦に物資を納入してきた港内の商人たちを、そのまま返さず艦内に軟禁状態に置いたほどだ。
午後3時ころ、千代田は気缶に点火した。蒸気圧を上げて、いつでも機関を始動することができるようにである。この頃の蒸気軍艦は点火から水蒸気をつくりあげ、エンジンを動かせるようにするまでには3時間ほどかかった。
日没を迎え、衛兵が軍艦旗を格納すると、千代田艦長は舷外に繋留してあった汽艇(きてい)を揚収(ようしゅう)することを命じた。軍艦は艦載艇というエンジン付きの小艇、カッター、ボート等を繋船桁(けいせんこう)という艦から直角に突きだした桁に繋いでいたものだ。それを艦上に引き揚げて格納しようという。しかも隠密にである。号笛(ごうてき)も使わず、灯火もつけずに作業をしたという。
港から来た商人たちにも、厳重に口止めをして陸に返した。午後11時30分、千代田艦長は出港を命じた。55分、錨を揚げて港口に向かった。艦長は気付かれることはなかったと回想するが、実はワリヤーグの見張員は千代田艦尾の灯火の動きで出港する様子は承知していた。ただ、もちろんロシア側に攻撃の意思はなかった。
2月8日午前8時30分、千代田は仁川南方のベーカー島沖で第四戦隊に合流した。
仁川上陸に決定
旅順のロシア側は混乱していた。英国通信社の報道によれば、すでに日本政府は一昨日の6日に国交断絶を通報してきている。先制攻撃なら、この一両日がふさわしいだろうに、日本艦隊は姿を現さない。
太平洋艦隊司令長官スタルク中将は総督に上申した。韓国南西岸のクリフォルド群島と清帝国山東半島の先端である山東角沖に、それぞれ2隻の巡洋艦を警戒配置する。同時に、港内の各艦に戦闘配置をとらせて、移動しやすくするために防雷網を外させるというもっともな措置である。しかし、総督は「指示を待て」と答え、艦隊は平常通りの日課を実施せよと伝えた。総督は軍事権があるので、艦隊の行動はすべて押さえることができた。
午後0時30分。指揮官を集めた瓜生第四艦隊司令官は、仁川突入に関する命令を下した。
仁川港口にヨドルミ島があるが、その南方でロシア軍艦に遭遇したら、これを撃沈すべし。
港内では、「ロシア艦から敵対行動を取らない限り、攻撃はしない。
港内突入への基本方針である。また、仁川港に入るときは第9水雷艇隊が先頭になること。その進入時も敵を驚かすことないように、平和的態度をとるようにと細やかな配慮に満ちたものだった。
輸送船「大連丸」に乗る木越第23旅団長に対しては、「有らん限りの手段を尽くして、最神(迅)速(じんそく)に揚兵せしむべきを望む」と信号を送った。ロシア側の妨害を予想したのである。
午後2時15分、艦隊は牙山湾を離れて、陣形を整えて仁川に向かった。艦隊の航行順序は次の通りである。巡洋艦千代田、高千穂、装甲巡洋艦浅間、輸送船大連丸、同小樽丸、同平壌丸、巡洋艦浪速(旗艦)、同明石、同新高が右列。左列は千代田と併航する、水雷艇蒼鷹(あおたか)、それに続く鵠(くぐい)、雁(かり)、燕(つばめ)の4隻である。
これらはいずれも魚形水雷(魚雷)を搭載した、小型快速の艇だった。
ついに会敵!
午後4時20分、第四戦隊が八尾島付近に着くと、前方にロシア砲艦コレーツの姿が見えた。千代田、高千穂は素早く「合戦準備(かっせんじゅんび)」を整えた。砲は装?されて、甲板には砂が撒かれた。流れる血糊に足を滑らせないためである。ただし、砲の操員は甲板上に伏せさせて、無人であるように見せた。
交戦状態にない国同士の軍艦は敬礼を交換してすれ違う。もちろん、コレーツ艦上でも小銃武装した衛兵隊が号笛手とともに整列していた。日本側も同じである。衛兵司令に率いられた衛兵隊は整列し、コレーツからの敬礼に答えた。軍艦旗を下げれば敬礼、相手も同じく旗が下がり、階級の高い方の艦長の答礼が終われば旗は揚げ直される。
コレーツは日本艦隊の右列と左列の間を通った。距離100メートルとある。反航するから、コレーツ艦長の眼には、右側の水雷艇隊の発射管には覆いがかけられたままであるのが映った。しかし、千代田と高千穂の艦砲のそばには隠れている兵員が見えた。巡洋艦ワリヤーグに直ちに状況を報告した。
コレーツは離脱したかった。袋叩きは目に見えている。巡洋艦浅間と敬礼を交換し、さらに輸送船団に近づいたときである。浅間が急に転回し、コレーツと輸送船隊の間に入り並航し始めたのだ。
コレーツの右後方にいた水雷艇隊も反転して、左に第1小隊(蒼鷹、鵠)、右に第2小隊(雁、燕)が広がり、コレーツを挟むようにした。
水雷艇隊の戦意は旺盛だった。発射管の覆いは外され、機関砲には兵員が取りつき、猛烈に追尾してきた。燕などは追跡に夢中になりすぎたか、浅瀬に乗り上げるという事件も起こしてしまった。下は砂州なので大きな損害はなかった。
午後4時33分、コレーツは仁川への帰航のコースを取るために、大きく右回りで回頭を始める。戦闘の意思はなかった。ところが、追跡中の水雷艇隊にはどう見えたか。ロシア砲艦は攻撃をしてくる。
34分、雁は回頭中のコレーツに対して、距離300メートルで水雷を発射する。これが日露戦争の実質的開幕だと児島襄氏はいう。
なお、当時の魚雷は自走するが、後のように圧搾空気で撃ちだされるのではなかった。無煙火薬である。だから発射すると盛大な火焔が立ち上った。コレーツ艦長はその発射炎に驚き、魚雷の突進を見てとった。「戦闘用意!」、コレーツ艦上でも戦闘ラッパが鳴り響いた。この魚雷はコレーツの艦尾すれすれをかすめて走っていった。
コレーツ港内に逃れる
4時37分、コレーツ艦長は「打方準備宜し(うちかたじゅんびよろし)」の報告を受けたが、また水雷艇鵠の甲板に火焔が立ち上った。40分、魚雷をかわし、「打方始め」の号令で、日本水雷艇隊に対して37ミリ機関砲の射撃を開始する。日本側記録では数発、ロシア側は2発の発射を確認できるが、そのとき、港内に入ったことを確認したコレーツ艦長は「打方止め」を下令した。
なお海軍用語は当時の日本海軍の号令を参考にした。
次回は仁川港上陸の様子を見よう。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)5月20日配信)