自衛隊警務官(42)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(42) ジュネーブ条約と日本軍

はじめに

 経験もない、その時代に生きてもいない・・・。そうなると、我々戦後世代には、なかなか軍隊や戦場の実態に迫ることは難しい。残された公文書や、個人の記録などを頼りに調べ、少しでもその時代相に迫ろうとするのですが、実は公文書には多くの粉飾があります。
後世に残り、それがのちの時代の人に判断されるとなると、そこには当然、作為が働きます。死者に鞭打つのはいかがか、あるいは死者だからこそ責任を負わせてしまう。そういった傾きがどうしても公文書には現われてきます。会議の記録もそうです。会議録は正確に実態を伝えてくれると思ってしまいますが、後で必ず編集がなされています。
対談も同じです。わたしの経験ですが、ある高名な研究者と話し合ったことがありました。録音がされ、テープを起こした原稿が来ましたが、そこにはわたしが言ったこともない言葉や、わたしが決して使わない言い回しが書かれていました。問い合わせると、対談相手の高名な先生が、全部、赤字を入れて直されたとのこと。ああ、自分に不利な発言を全部削るのだなと納得したことでした。
個人の日記や記録も同じです。見られるだろう、あるいは公開されることを期待しての記録ほど、そのまま信じることはできません。ナマな声だと思われている回想録はもっとも警戒しなくてはなりません。思い込みや記憶違い、そしてその人の置かれた立場ごとの視野の違いほど怖いものはないのです。
高名な作家や文化人ですら、自分の戦時体験には創作を加えます。ある国民的歴史作家は、自身が戦車小隊長として加わったという大本営参謀との会同での話として次のような「事実」を書き残しています。関東平野に米軍が上陸する。戦車隊は内陸から戦場へ急行するだろう。交通統制も効かず、避難民で街道はあふれるはずだ。そのとき、戦車隊は「避難民を轢き殺して行け」と参謀は指示したと言います。
ひどい、軍隊というのは非道なものだ。だから昔の陸軍は国民を守ろうとなどしなかったのだ。そのように読者は誘導されます。だが、これが事実だったか。他に証言者は誰もおらず、日時も、場所も作家は語りません。末端の少尉である作家が加わった会同です。多くの幹部がいたに違いありません。それなのに、他からは証言もなく、ほんとうに大本営の参謀が出張したのか確かめた人は誰もいないのです。
海軍についても、その戦記記述の正確さについては定評のある大作家がおられました。ところが、ある軍艦の沈没場面を描いた時、幹部士官の1人が畳に乗って周りを兵員に押させて退避したと書きました。しかし、それは多くの人の反発を買い、事実ではなかったという証言も出ました。中でも士官のご家族からは激しい抗議を受けました。おそらく誰かの目撃したという証言だったのでしょう。それを書く、書かないは作家の自由です。いかにもそれはありそうなことだ、事実だと作家は判断されたのではないでしょうか。
ことほど左様に、体験者の話もそのまま信じるのは難しいのです。

ジュネーブ条約をなぜ批准しなかったか?

 1899(明治32)年にはハーグ万国平和会議で「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」が成立した。毒ガスやダムダム弾の使用は禁止された。このことはすでに書いている。その後、第1次世界大戦(1914~18年)の経験で、「陸戦法規」第2章は独立して1929(昭和4)年になって、「俘虜ノ待遇ニ関スル条約」となった。全8章97箇条に整理された。
 このとき、わが国は調印はしたが、枢密院で賛成を得られなかった。そのため、当時の主権者である天皇へ奏上することはできずに、実行を確約する批准行為は行なわなかった。枢密院とは、重要な国務について、天皇の諮詢(しじゅん)に応える合議機関である。議長、副議長各1名と顧問官24人で構成された。40歳以上の男子から任命する。
 会議は国務大臣と成年に達した親王も加わって表決した。この親王は皇族の中でも、昭和期では直宮(じきみや)である秩父、高松、三笠の3宮殿下と閑院宮載仁親王だった。
 敗戦後に占領軍からこの批准をしなかった事実について調べられた。その提出された文書によると、外務次官から陸海軍次官(現役の中将もしくは少将)に「御批准方奏請」について意見を求めた。すると、陸海軍次官は「奏請せられざるを可」とするという返事をしてきた。
 その理由は4つあったという(吹浦氏前掲書)。海軍次官の返答を挙げてある。現代語に直して要約する。( )の中は筆者の補足である。
(1)帝国軍人は捕虜となることは予期しないことである。外国人は必ずしもそうではない(つまり、降伏、捕獲されることも予期している)。だから、この条約は形式は相互的だけれど、実質はわが国だけが義務を負う片務的なものである。
(2)捕虜に関して優遇する保証を与えることになる。そこで例えば敵軍の将兵が、その目的を達成の後に捕虜になることを予想して空襲を計画することもある。そうなると航空機の行動半径が倍増することになる。そうなると空襲を受けたときには、危険が増大する。(確かに昭和17年に空母から発進した米陸軍爆撃機は、母艦に帰ることは考えず、中国大陸、あるいはソ連領に不時着を目指した。日本軍に捕獲された者もいた)
第86条の規定により、第三国代表が立会人もなく捕虜と面会するのは軍事上の支障がある。
捕虜に対する処罰の規定は、帝国軍人以上に捕虜を優遇している。そのため海軍懲罰令、海軍刑法、海軍軍法会議法、海軍監獄令等法規の改正を必要とする。それは軍紀の維持を目的とする各法規の主旨を考えれば不可である。

同条約の規定を準用すべし

 大東亜戦争開戦後、ただちに米国、翌月には英国ほか連邦諸国が日本政府に条約適用の意思があるかないかを質してきた。これに対して、東郷茂徳外相は「同条約の規定を準用すべし」と回答した。
 これが敗戦後の戦争犯罪人追及で問題を大きくした。「準拠も尊重もしなかっただろう」と責められたのである。
 もともと「日本軍人は捕虜にならない」という、あるいは「武人の伝統として降伏するなら死を選ぶ」などというのは、日本人の歴史からは考えられない嘘だった。鎌倉時代から、あるいは室町期の戦争、また戦国時代でも武士が力尽きて降伏するのは珍しいことではなかった。
 それこそ、わたしの聞き書きでは、こりゃ捕虜になったらどうせ死ななくてはならないなと軍人たちが思い始めたのは、昭和の初めの頃からだったらしい。しかし、これも確実なものではない。オーラルヒストリーも重要だが、それだけを一人歩きさせてはならないからだ。
 1932(昭和7)年のことである。第1次上海(しゃんはい)事件のときだった。ある歩兵大隊長が戦場で人事不省になり敵中に取り残された。それを収容したのは、当時の中国軍である。手厚い看護を受けた少佐は回復後に日本軍の戦線に送り返された。それは敵の中に日本陸軍士官学校に留学した将校がいて、陸士時代の教え子だったからという。
 少佐は、退院して身体が回復してから、再び自分が捕獲された戦場に戻った。そうして拳銃で自殺したのである。これが美談になった。すぐに映画化されて、この少佐は潔い、責任感旺盛な将校として国民的英雄になったのである。
 
 また、ある騎兵聯隊長は、圧倒的に優勢な中国軍に包囲され、聯隊旗を焼き、その責任を負って自決する。これもまた、「国軍の鑑(かがみ)」として顕彰された。こうしたことが続けば、捕虜になる前に自決するといった気分が生まれてくる元になったのは疑えない。
 また、日本軍の捕虜問題を見るときの別の観点だが、「捕虜になったら殺される」という恐怖心をあおる報道が多く行なわれたらしい。このことは連合軍の捕虜尋問の結果、調書によく載っていたという。
 次回もまた、この問題について考えてゆきたい。
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)9月30日配信)