自衛隊警務官(30)─陸軍憲兵から自衛隊警務官に(30) 陸戦ではどうやって捕虜になるか(1)

ご挨拶

 東京都知事選挙が、この時期に行なわれました。史上最大の立候補者数だそうです。わたしが注目したのは、現職が絶対に有利な中での反対票の数がどれほどかということでした。結果は、圧倒的に小池氏の勝利。「女帝」だの「学歴詐称」だのの反対勢力による攻撃があったにもかかわらず・・・都民は小池氏を選びました。
 
 どう考えても、元日弁連会長の宇都宮氏では勝ち目がありません。また、山本氏がいかにアジテーションの達人であろうと、そして維新の方に地方行政の経験があろうと、この人たちの誰かに舵取りを任せようという気になれない、そんなところかと思います。
 
 小池氏もどうもな・・・と思いながら、他の人には任せられない、そこで小池氏を選んだという方も多かったのでは。そして選挙への熱意を失って棄権された方も多かったのではないかと考えています。
 仲の良くない自民党都連も独自候補を出せなかったという情けなさも感じます。いずれであれ、コロナ禍への対応が続きます。都庁の方々の苦労を思い、健闘を祈るばかりです。
 球磨川の決壊、豪雨災害の中の皆様にも心よりお見舞いを申し上げます。被災者の方々のご親戚、お知り合いの方々にも心を痛めておられる方々もおられることと拝察します。災害派遣で活躍される自治体、消防、警察そして自衛隊の皆様にも心よりの応援を申し上げます。

どうやって人は捕虜になれるか?

「もし戦争が始まって外国が攻めてきたらどうしますか?」というアンケートを一般人にとると、3割くらいの人が「抵抗せずに降伏する」と答えるらしい。軍人は国際人道法によって、捕虜になれば安全を保障され、保護され、食料その他も支給される。もちろん、負傷や病気には看護を受けられる。現在では、不正規兵(義勇兵や民兵も含む)も正当な権利として、正規兵と同じ扱いを主張できるようになった。
 まず、捕虜とはどういうものかを調べてみよう。参考書は、各種法律の解説書と、『日露陸戦国際法論を読む』(佐藤庫八・並木書房)である。
 戦争による危害を局限するために、相手国の軍人以外の者に危害を加える必要はない。むしろ、非軍人に危害を加えることは不正行為である。戦闘地域の住民は保護するのが当然である。しかし、相手が敵の軍人か軍人でないかを明確に区別しなければならない。軍人にとっても自分の安全も考えながらそれを実行する。これも簡単なことではない。
 そこで、軍隊に属する者か、属しない者かの区別を明らかにすることが必要になる。これがはっきりしないと、一般住民に見えた者が実は軍人であったり、破壊工作に従事する後方要員であったりするかも知れない。そうなると、現場で捕えた者には厳格な扱いをし、その身分を明らかにさせなくてはならないのだ。
「敵が来たら降伏する」という日本人は、自分が軍人(自衛隊員)でないことをどのように証明できるのか。この日露戦争時代なら、まず、集団にならないこと。グループになっても、指揮者に見えるような人を出さないこと。遠くからも分かる徽章などをつけないこと。武器をもたないこと。ということなどが必要条件になるだろう。
近頃はマニアでない人も、軍隊のような被服やワッペンを着けることもファッションになっている。迷彩の上着や、パンツ、リュックなどもふつうに着こなすが、戦場では敵兵と誤認されかねない。あくまでも一般住民として保護されたいなら、とことん軍隊とは関係ないことを示す必要がある。

国際戦争法規下での非戦闘員

 正規交戦者(戦時捕虜の待遇を受ける者)は戦闘員と非戦闘員に分けられた。ここが軍隊制度は素人にとっては分かりにくいところだが、交戦者であるのに非戦闘員がいるということだ。どちらも制服を着用し、武器も携帯する。戦闘行為も行なうが、兵器を用いて敵を直接殺傷していいのは戦闘員だけである。
 軍医、薬剤官、経理部員は階級章のある軍装をして軍人であるが非戦闘員である。軍政委員(占領地などの軍政にあたる)、通訳、外交官、野戦郵便局員その他の文官で軍隊の編制内にある者(軍属)はみな非戦闘員である。したがって武器も帯剣しか認められていなかった。拳銃武装はしていなかったのである。

問題になった補助輸卒

 日清戦争では兵站輸送で大変な困難があった。朝鮮半島から大陸にかけて、道路の整備も行きとどかず、鉄道も普及していなかった。牛馬車によるか、人が肩で背負って物資を運ぶしかなかったのである。
ちょっと軍隊に詳しい人にも誤解があるが、「輜重輸卒が兵隊ならばチョウチョ・トンボも鳥のうち」という俗謡があった。それを理由に日本軍では輜重兵科が軽視されて、したがって兵站や後方補給に関心が薄かったという論者が多くいる。
 それは全くの間違いであり、前線で戦う戦闘員にとって輜重ほど有り難い味方はなかった。輜重兵は師団レベルの物資、衛生材料、糧食・馬糧などの輸送、補給にあたる存在であり、輜重輸卒の指揮をとった立場だった。乗馬本分であり革長靴を履き、指揮刀を吊り、下級の1等卒でも十数人の輸卒を指揮したのである。
 日清戦争では、馬、荷車の調達、輸送用の人員の不足に悩んだ。多くは民間人を募集して、渡海させて戦地で働かせた。おかげで、大変な混乱があった。軍隊の統制に服さない、戦地で略奪や暴行を行なう、指示命令を守らないなどである。金銭契約を結んだ民間人だから仕方もなかった。
 そこで、日露戦争のときには、「雑卒(ざっそつ)」といわれた兵隊が多く使われた。糧食や衛生材料を主に運ぶ輜重兵科に属する輜重輸卒、砲兵科に属し弾薬や砲弾を運んだ砲兵輸卒、要塞の弾薬運搬の砲兵助卒、そして衛生部の補助担架卒である。いずれも、徴兵検査で現役には適さず、第1補充兵にもならず第2補充兵になり、現役兵よりも体格が劣った人たちが多かった。
 この人たちを召集して輸卒としたのである。つまり、輜重兵と輸卒とはまるで別物だったのだ。階級が低くても指揮能力があり、騎兵銃と軍刀で武装し、騎兵戦闘の訓練を受けた輜重兵をバカにできる人はいなかった。能力的にも高い人が騎兵、輜重兵には選ばれたのである。
 輸卒は正規交戦者とされた。武装も銃剣を支給せよという意見が多かった。階級章(襟章、肩章、袖章)は輜重兵2等卒と同じだった。

輸卒は戦闘員か非戦闘員か?

 制度が始まった当初、輜重(補助)輸卒(他の雑卒も含めて)を戦闘に使う予定は立てていなかった。勤務は後方の兵站線や基地などであり、前線に出すつもりはなかった。どう処遇するか、くわしく検討もされないまま、開戦になってしまった。
 佐藤氏の著書には、後方兵站線がロシア騎兵に襲われ、輸卒に戦闘を行なわせた例が挙げられている。1904(明治37)年5月1日、韓国安州の兵站司令部が襲われたのである。その報告書は次の通り、非戦闘員でありながら「臨時防禦」に従った者である。
 憲兵2名、野戦郵便局員5名、野戦通信所員9名、野戦療養所員2名、第1師団補助輸卒隊40名、兵站司令部酒保・内地商人4名、銃器を執らざる者45名。
 非戦闘員の中に憲兵がいることに注意して欲しい。憲兵は交戦者であるが、積極的に敵を攻撃することはなかった。非交戦者であることで、軍医や経理部士官と同じ立場だったのだ。
 
このとき兵站司令官は、後方用銃器の梱包を解いて、司令部員ほかの「執銃本分」でない者に銃器・弾薬を交付し、補助輸卒に対しては武器の使用法を訓練したという。
 もう1つの例は、偶然、戦闘に加わってしまった場合だった。偵察に潜入してきたロシアの将校斥候とその護衛兵を、輜重輸卒分隊が捕獲してしまったのである。これは明らかに、戦闘に参加したことになり、非戦闘員とはいえない行動にあたる。しかし、現地では、そうした事態はかなり多く起きただろうと佐藤氏も指摘している。そして、満洲軍の各軍は奉天会戦(1908年3月11日)より後、補助輸卒に戦利品のロシア軍小銃を交付して、輸送勤務の余暇にはその使用法を訓練させたという。
 日本軍が補助輸卒を非戦闘員としたとしても、敵にはこれをそのように認める義務はないと有賀博士は主張した。当然、敵は輜重輸卒を攻撃してくるだろう。だから、敵に対して全力を尽くして戦闘行為を行なう権利がある。自衛のためにやむを得ぬという兵器使用ではなく、積極的に攻撃をしてもよいと有賀博士は書いたと佐藤氏はいわれる。
 さらに補助輸卒を完全に武装させるかどうかは、国際人道法に直接関係はない。まったく純軍事的に考慮して決定するべきことであるそうだ。国際法上も、国内法上整合された結論はないという。
 では、次回は実際にどのようにして捕虜は捕まったかをみよう。
 
(以下次号)
(あらき・はじめ)
(令和二年(2020年)7月8日配信)